第28話 喉の奥に重たい何かが引っかかったような感触がじわりと浮かんだ
ドアの隙間から室内の灯りが廊下に漏れている。ひよりの部屋のドアは僅かに開いていた。
一時期は完全に締め切った部屋で、一人閉じこもっていることが多かったひよりだが、最近ではそういうことはなくなっていた。元気になったのかといえばそんなことはないが、完全に閉じこもっていた頃と比べるといい傾向だと家族全員が思っていた。
けれど、誰もそのことには触れない。
微妙なバランスの上で、ひよりの精神は僅かながら回復に向かっているようなので、余計なことを言ってそのバランスを崩したくないと家族の誰もが思っていた。
「ひより。入っていいか?」
返事をすることができないのは分かっていても、声をかけてしまう。年頃の妹の部屋に入るのだから、それくらいは最低限の礼儀だというのもあるが、それ以上に、もしかしたら返事があるかもしれないという淡い期待があった。
けれど、あの日──ひよりが声を失った日以来、返事があったことはない。今日もやっぱり返事はなかった。
その代わり、コツコツと床を二回叩く音が返ってくる。イエスなら二回、ノーなら三回、コツコツと床を鳴らす。それがひよりと決めた合図だった。
部屋に入ると、ひよりはパジャマ姿のまま床に直に座っていた。俺と目が合うとすぐにスマホの画面を見せてくる。
『何か用?』
文章だと酷く冷たいものに感じてしまうが、特別素っ気ない反応というわけではない。単に文章で会話をするのは口で会話するよりもめんどくさいのだ、とひよりが言っていた。
最初の頃はいくら違うと言われても、機嫌が悪いのか、とかやっぱり落ち込んでいるんだろうとか思って心配もしたのだが、もう慣れてしまった。
本当はこんなことに慣れたくはない。ひよりの声が恋しかった。
「いや、ちょっとひよりに聞いてほしいことがあってな」
『私に聞いてほしいこと? 何?』
スマホの画面をこちらに向けながら、僅かに首を傾げているひより。その表情は、以前のような溌剌としたものではない。それでも声を失った当初に比べたらだいぶマシな顔になった。
そんなひよりに、バンドをやろうと誘われているが、どうしたらいいか、なんて訊いてしまったら、またあの頃のような顔に戻ってしまうのではないか。そう思うと喉の奥に重たい何かが引っかかったような感触がじわりと浮かんだ。
それにひよりには、まだ俺が〈ロックミュージック研究会〉に入ったことを伝えていない。なんで突然バンドに誘われることになったのか、その説明もしなければならない。〈ロックミュージック研究会〉に入って、
そんなことを伝えたら、ひよりは何と応えるのだろうか。どう思うのだろうか。
『
俺が黙っているものだから、ひよりは眉を
「あ、悪い。ちょっと考え事してた」
『なにそれ。聞いてほしいことがあるからって入ってきたのはそっちだよ?』
ごもっともだ。
ごめん、ごめんと軽く謝ると、ひよりは大きく一度首を縦に振った。
「どこから話せばいいかと思ってな。やっぱり最初から話すのがいいよな」
とはいえ、
場合によっては〈ロックミュージック研究会〉に加入した理由については触れなければならないかもしれないが、それについても極力話したくはなかった。
ひよりは、割と真剣な顔で頷いた。俺がこんな風に改まって話をしたいと言うことなんてなかったことだから、どんな話をされるのだろうという緊張があるのだろう。
「〈ロックミュージック研究会〉って知ってるか? 悠治っているだろ? あいつに誘われてその〈ロックミュージック研究会〉って部活に入ることになったんだけど……」
ひよりは声こそ出さなかったが、口を『えっ!?』と言う時の形に変えて驚いていた。驚いた表情にこそなったものの、マイナスな表情ではない。
それでも続きを話すのはやはり恐ろしかった。ひよりの顔を見ることができなくなる。でも、もう引き返すことはできない。
「俺と悠治の他に、井口さんっていうクラスメイトも〈ロックミュージック研究会〉に入ることになって、それで、その……井口さんにバンドをやろうって言われてるんだ。お前の声が……その……出ないってのに……。バンドなんてできないし、やるべきじゃないとは思ってるんだ。でも……井口さんの誘いを断れない事情もあって……どうしたらいいか分からないんだ」
声が震えた。ひよりの反応はない。
「お前に訊くのは間違ってるのかもしれないけど。どうしたらいいと思う?」
やっぱり、ひよりの顔を見ることはできない。怖かった。
しばらくすると、下を向いた俺の顔の下にスマホの画面が差し出された。
『絶対やった方がいい! 絶対やらなきゃダメ! 奏くんが音楽を好きになってくれたら、私はとっても嬉しいよ』
画面にはそう書かれていた。
思わず顔を上げると、ひよりは満面の笑みを浮かべていた。
声を失って以来、初めて見るひよりの笑顔だった。
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