第12話 もうギター弾かないの?
家に帰ってすぐに、ひよりの部屋のドアが僅かに開いていることに気がついた。
僅かに開いたドアから、うっすらとオレンジ色の光が染み出している。その光の向こうで微かに音が鳴っていた。
「ひより……?」
ドアの隙間から投げ入れるように声をかけるが、返事はない。当然だ。ひよりは声が出せないのだから。頭では分かっていても、心はなかなかその事実を受け入れることができない。
そっとドアから中を覗く。
一瞬、アオがいるのかと思った。
見間違えたのは、ひよりがギターを鳴らしながら、口をパクパクと動かして、悲壮感に満ちた表情で、必死で声にならない声を出そうとしていたからだった。その姿は、ついさっき〈ロックミュージック研究会〉の部室で見たアオの姿によく似ていた。
違うのは歌声が響いているか否か。小さいけど大きな違いだった。
ひよりが弾いているのは、俺がひよりに勧められて買ってもらったギターだった。Fのコードで挫折して、全然弾けるようにならないまま放置していたギターを、ひよりは弾いていた。
俺と目が合うと、ひよりは最初こそぎこちなくゆっくりと微笑んだが、その表情は徐々に歪んでいく。歪みきる前に、ひよりはゆっくりと自分の顔を両手で覆った。
支えを失ったギターが、ガタンと床に落ちる。
「ひより。お前、歌おうとしてたのか?」
ひよりは顔を両手に伏せたまま頷いた。
俺は顔を覆って、声を上げずに泣き続けるひよりをただ見ていることしかできなかった。
どれくらいの時間そうしていただろう。
オレンジ色の空は、もうすっかり紺色に変わっていた。
ひよりは、ひとしきり泣くと、徐々に落ち着きを取り戻していった。
床に落ちてしまったギターを拾い上げて、打ちつけたと思われる所を優しくさする。そして、顔を近づけて傷がないことを確認するとそっと俺に差し出した。
俺は黙ってそれを受け取って、まじまじと眺める。今の今まで存在すら忘れていたギターは、アオのギターと同じ色をしていた。
『
ひよりは、そう書かれたスマホの画面を俺に突き出した。声が出なくなってからというもの、ひよりとのコミュニケーション方法はスマホを使った筆談だ。
赤くなった目尻には、まだうっすらと涙が浮かんでいる。眉間に浅く皺を寄せて、困ったような顔で俺の応えを待っている。
声が出なくなる前のひよりなら、こんな顔を見せることはなかった。いつもポジティブで、周りにいる人まで明るくしてしまう強さと愛嬌があった。
歌っているときは、特にそうだ。ひよりの歌には、そして、歌を歌うひよりの存在そのものには、人を勇気づける力があった。
歌姫という形容がピッタリだった。
こんな風に泣く姿は似合わない。こんなの本来のひよりではない。ひよりをこんな風にしたのは──。
「──もう、弾かない」
応える喉がひりついた。
何故だか、またアオの歌声を思い出す。
アオの歌に合わせてギターを鳴らすのは、悔しいけど楽しかった。
音楽が憎いはずなのに。
音楽なんか嫌いなはずなのに。
『嫌いにならないで。音楽のこともギターのことも』
ひよりはそう書かれたスマホの画面を俺に見せる。まるで心を覗かれているようだ。
『私、来年は奏くんと一緒に文化祭ライブのステージに立ちたい』
ひよりは続けてスマホにそう打ち込んだ。
ひよりは諦めていないのだ。医者ですら原因が分からず、治療法を提示することができない症状。それでもなお、ひよりはまたいずれ歌えるようになると信じている。
俺は誤魔化すように笑うことしかできなかった。
ひよりの声が戻ったら、ひよりの望むように一緒に文化祭ライブに出ることができるだろうか。
ひよりの声が戻ったら、音楽を好きになることがあるだろうか。
ひよりの声が戻ったら──。
ひよりは諦めていない。ひよりが諦めていないのに、俺が諦めるわけにはいかない。ひよりが信じているのに、俺が信じないわけにはいかない。
ならば俺にできることは決まっている。ひよりの声を奪った張本人であるアオに、馬鹿げた願いを取り消してもらう。
そのアオは煙のように消えてしまったが、そんなものは関係ない。見つかるまで探すまでだ。
ひよりから受け取ったギター。等間隔に張られた弦を六弦から順番に
Fのコードを構えて、もう一度弦を弾くと滑らかにピックが弦に触れて、音が鳴る。
『F弾けるようになったんだね』
スマホの画面を俺に向けて、ひよりは嬉しそうに笑っていた。
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