第50話 歌うために、少しだけ軽音部を離れてみないか?
結局、
けれど、皮肉なことにアオの登場で敢えて訊く必要もなくなってしまった。
アオが歌っている最中の不思議な感覚。
その中でのアオとの対話。
あの時、アオは確かに俺の願いを叶えると言った。幻のような現象だったが、どういうわけか、あれはアオの本心だと確信している。
あとは俺が願うだけ。
だが、その前に一つクリアしなければならないことがある。
それは、ひよりを〈ロックミュージック研究会〉に入れることだった。
うちの高校は、基本的に退部や転部をすることは自由だ。かつては、なんらかの部活に加入することを義務付けられていたらしいが、今ではそんなこともない。
ひよりは、声が出なくなってからも軽音部に籍を置き続けているが、〈ロックミュージック研究会〉に転部させること自体は、制度上それほど難しくない。
その昔、それこそ、リサさんや
しかし、今はそんなこともない。険悪になるほど、軽音部は〈ロックミュージック研究会〉のことを認知していない。
歌が抜群に上手いひよりは、軽音部からしたらエース格なのだと思う。しかし、歌えなくなって一年近く経つひよりを、今もなおエースとして扱っているかといえば、おそらくそんなことはないだろう。つまり、軽音部側から強く引き止められるような障壁もきっとない。
制度上も軽音部の都合上も問題はないのだ。問題があるとすればそれは、ひより自身の気持ちだ。
アクシデント──と呼んでいいものかは分からないが、あのような形で文化祭ライブを中断してしまったひよりに、心残りがないわけがない。もう一度、あのステージに。きっとそう思っているだろう。
そのためには、軽音部であり続ける必要がある。きっとそんなふうに考えているはずだ。文化祭のステージに立てるのは、軽音部所属のバンドだけだからだ。だからこそ、今も軽音部に籍を置き続けているのかもしれない。
それでも、俺はひよりを〈ロックミュージック研究会〉に加入させる必要がある。それはひよりのためでもあるし、何より俺自身の願いのためでもあった。
〈ロックミュージック研究会〉でライブがしたい。
俺と
そこにはまだ部員ではないが、ひよりにも参加してほしい。
「ひより、入るぞ」
一応の礼儀として壁の淵を叩いてノックをし、声をかけるが、ひよりの部屋のドアは開け放たれていた。当たり前だが、ひよりから返事はない。その代わりに、コツコツと床を鳴らす音があった。
『どうしたの?』
室内に入ると、ひよりは待ち構えていたようにタブレットを掲げていた。
「ちょっと話があってな」
『何? 改まっちゃって』
「うん、すごく大事な話なんだ」
『大事な話? なんだろうなぁ。もしかして……彼女でもできた!?』
ひよりは茶化すような雰囲気をタブレットに表示された文面で作っていたが、俺の顔を見ると、そういう雰囲気ではないと悟ったのか、すぐに真剣な顔になった。
「お前、まだ軽音部に所属してるんだよな?」
『してるけど。それが?』
タブレットに文字が打ち込まれるのに少し時間があった。
ひよりが声を失ってから、自然と避けるようになった話題だった。最近の調子の良いひよりのことを考えたら、そのまま避け続けた方がいい話題なのかもしれない。
それでも、俺はひよりに問いかける。
「〈ロックミュージック研究会〉に入る気はないか?」
『どうして? 私は今も軽音部だよ?』
タブレットを持つひよりの手は、微かに震えていた。
『もうどうせ歌えないから? 歌うことは諦めろってこと?』
「そうじゃない」
『じゃあ、どういうこと? 誰かに何か言われた? あいつ、楽器も弾けなければ声も出ないくせに、いつまで軽音部にいる気だって、誰かに言われたの?』
ひよりは、被害妄想とも言える文を震える手で忙しなくタブレットに打ち込む。見ると、目にうっすらと涙を浮かべていた。
「そんなことは、誰にも言われないよ」
こちらに向けられタブレットの向こうにあるひよりの顔を真っ直ぐに見る。ひよりは、何かを打ち込もうと思ったのか、タブレットを裏返そうとしたが、結局そのまま何も打ち込まなかった。
ゆっくりとタブレットが下がっていき、画面の文字が見えなくなる。
「歌うことを諦めろだなんて思っていない。むしろ、逆だ。歌うために、少しだけ軽音部を離れてみないか?」
ひよりの顔が少しだけ右に傾く。「どういうこと?」とその仕草で問いかける。
「俺が〈ロックミュージック研究会〉だってことは知ってるな? そこの会長だってことも。俺は、ひよりにも〈ロックミュージック研究会〉に入って欲しいと思ってる。〈ロックミュージック研究会〉でなら、お前は歌えるはずなんだ」
右に傾いたままのひよりの顔に困惑の色が浮かぶ。
「意味が分からないよな。一から話すから最後までちゃんと聞いてくれるか? きっと信じられないようなこともあると思うけど、全部事実なんだ」
俺は、俺が〈ロックミュージック研究会〉に入ることになった経緯、ひよりが声を失ってしまったと思われる原因、〈ロックミュージック研究会〉の会長に宿るという不思議な力のこと、アオという女の子のこと、俺の〈ロックミュージック研究会〉でライブがしたいという願い、そこにはひよりも参加して欲しいということ、その全てをひよりに話した。
ひよりは、途中驚いた表情を浮かべたり、怪訝そうに眉を顰めたりしながら、最後まで俺の話を遮ることなく聞いていた。
『すごいね! うちの高校出身のアーティストって軽音部出身なのかと思ってたよ』
信じてもらえたかは分からなかったが、ひよりが最初にタブレットに打ち込んだ文字を見て安心することができた。
ひよりは、俺が文字を読めるようにたっぷり時間をかけてタブレットをこちらに向けてから、続く言葉を打ち込む。
次にタブレットがこちらに向けられるまでかなりの時間があった。余程長い文書を打ち込んでいるのだろう。俺は、忙しなく動くひよりの手を見つめながら、それがこちらに向けられるのを待っていた。
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