第60話 ひよりは大勢の観客を前にしても堂々としていた

 ステージからの景色は、思っていたほど俺の緊張を煽ることはなかった。


 アオのことが気になっていたのもあるが、ステージ上からは、観客席があまりよく見えない。それが幸いした。多くの観客が詰めかけているのは、先輩たちの出番を向こう側から見ていたから分かっている。けれど、ステージの上からは、観客の表情までは見えなかった。せいぜい手前の方に陣取っている人たちの顔が、かろうじて分かる程度だ。

 ふっと一息つくと、待っていたように悠治ゆうじがドラムスティックを鳴らすのが聞こえた。緊張していると言っていた割には、安定したカウントだった。


 俺たちの初めてのライブは、お世辞にも褒められたものではなかった。

 ましてや、これまで出ていた面々のほとんどがプロのミュージシャンなのだ。どうしたってそれと比べられてしまう。それでも、観客がノってくれているのは、ひよりの歌唱力のおかげに他ならない。

 

 久しぶりに聞くひよりの歌声は、記憶の中のそれよりもずっと上手くて、心地よかった。俺たちの下手くそな演奏を下手くそに感じさせない。

 弾いている俺自身が言うのもなんだが、俺たちは、ひよりの歌のおかげで実力以上に上手かった。

 

 一曲目が終わると、一斉に歓声と拍手が起こる。あまりの迫力に全身に鳥肌が立った。そのほとんどは、ひよりに向けられたものだろうが、それでも気持ちが良かった。


「今日はこんなに楽しいライブをどうもありがとう!!」


 一曲目を歌い終わったひよりの第一声は、感謝の言葉だった。誰に対するものなのかは明白ではない。きっと、この場にいる全員に向けられたものなのだと思う。


「今日は、先輩たちみたいにそんなにたくさん曲をやれるわけじゃないから、少しお話をさせてください」


 ひよりは大勢の観客を前にしても堂々としていた。それほど多くのライブを経験しているわけではないはずだが、ライブ慣れしているように思える。歌声同様、天性のものなのだろう。


「実は、私、昨日まで一年近くの間、声が出ませんでした」


 ひよりがそう言うと、観客たちがやや静まるのが分かった。どう反応していいのか分からないのだと思う。


「あ……心配してほしいって意味でこの話をするわけじゃないの。それは、もちろん、声が出なくなっちゃった時はすごくへこんで、悲しかったし、殻にも閉じこもっちゃったんだけど、途中からこれは神様が私に課した試練だと思うようにしたの」


 視界の隅で、青い筋が揺れたような気がした。袖にはアオが控えている。


「どういうこと? って思うよね。大丈夫。私も思うから」


 強張りかけていた空気を緩めようと、ひよりがおどけると観客から小さく笑いが起こる。


「でもね、それって間違いじゃなかった。やっぱり、試練だったんだって思ってる。声が出ない間もずっと音楽のことを考えて、声が出るようになったら、どんな風に歌おうかって考えてた。殻に閉じこもってばかりじゃいけない、そう思えたキッカケをくれたのは、今一緒にステージでギターを弾いてくれてる私のお兄ちゃん、そうくんなの」


 自分の部屋で懸命に歌おうとしていたひよりの姿を思い出す。医者にも原因不明だと匙を投げられる中で、ひよりはある日を境に閉じこもっていた殻を破っていった。


「小さい頃の私は、すごく引っ込み思案だったの。信じられない? でも本当だよ。こんな大きなステージに立つなんてありえないくらいの内気な女の子だったんだから。いつも一つ上の奏くんに隠れながら、どこにでもついて行って。奏くんは嫌な顔せずに相手してくれてたの」


 そういえばそうだった。

 小さい頃から、ひよりは明るい女の子ではあったが、それは家の中での話だ。家族以外とは上手く話すことができずに、いつも俺の後ろに隠れていた。

 

「昔のままの私だったら、こんな風に大勢の前に立つなんて、ましてや奏くんよりも前に立って、多くの人に見られるなんて絶対に無理だった。それでもこうやって人前で歌うのが楽しくて仕方がないって思えるようになったのは、やっぱり奏くんのおかげ。奏くんが私の歌を褒めてくれたから、自信が持てるようになったの。ね? 私のお兄ちゃんって、いいお兄ちゃんでしょ?」


 会場に笑いが起こる。

 多くの視線が俺に向けられてるのが、客席が真っ暗でもなんとなく分かる。気恥ずかしかったが、顔を背けてはいけない気がして、俺は真っ直ぐに客席を見つめ続けた。


「そんな奏くんなんだけど、人の歌を褒めたくせに、自分は全然音楽に興味がなくて。私は奏くんと一緒に音楽がやりたかったから、半ば無理矢理ギターを弾くように勧めて、買ってもらっても、結局三日坊主で練習をしなくなっちゃって。本当、どうしようもないよね」


 また会場に笑いが起こる。


「でも、今、こうして一緒にステージに立ててるのは、声が出なくなったおかげだと思ってる。だって、声が出ない間に、奏くんは音楽が好きになってたんだから。私の声が出なくなったおかげで、奏くんはこうしてライブに出るくらい音楽に夢中になってくれてるから」


 ひよりが黙ると、少しの静寂の後で静かな拍手が鳴った。ひよりは、噛み締めるように一度頷くと、拍手が鳴り止むのを待ってから声のトーンを上げた。


「でもね! 私は欲張りなの。奏くんと一緒にライブができるだけじゃ満足できない。もう一つ、どうしても叶えたいことができちゃった」


 ひよりは、そこで一息つくように大きく両手を広げる。そして──、顔をステージ袖に向ける。


「アオちゃん。トップバッターでトレウラの皆さんと一緒に歌った子。私はアオちゃんと一緒にこのステージで歌いたい」


 ひよりが大きく、溌剌とした声でそう告げると、それに釣られるように客席から大きな拍手と歓声が上がった。

 全員の声を聞いたわけではないが、トレウラと歌ったアオは、お世辞にも好評だったとは言えない。それでも今巻き起こった歓声は、この上なくアオを歓迎しているように思えた。

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