第61話 まるで始めからそうすることが決まっていたかのように

「アオちゃん。出てきてくれるかな?」


 ひよりの呼びかけに、アオは意外なほど素直に応じた。自分の足元だけを見つめながら、真っ直ぐにひよりの隣まで歩くと顔を上げる。足のつま先がぶつかるほどの距離で向き合った二人は、ほとんど同時に微笑んだ。


「ありがとう」


 先に口を開いたのは、アオだった。

 マイクを通していないから、おそらく客席には届いていない。でも、ステージ上にいる俺にはハッキリと聞き取ることができた。


「こちらこそ」


 ひよりはそう言うと、アオの手を包み込むように握る。

 そして、二人は揃って観客席の方を向いた。片方の手はお互いに握り合ったまま、もう片方の手にはそれぞれマイクが握られていた。


 ひよりとアオは、繋いだ手を高く掲げて演奏の合図を出す。それを見た悠治ゆうじが一拍置いて、ドラムスティックを打ち鳴らした。打ち合わせたわけではないのに、ほとんど反射的に悠治はそうしていた。


「次の曲が、最後の曲です。私たちも結成が間もなくて、やれる曲が少ないんですが、この曲はそうくんがどうしてもやりたいって言ってセットリストに加えた曲なんです」


 イントロの間、ひよりが語る。


「アオちゃんがよく歌ってた曲なんだって?」


 ひよりがアオを見ると、アオは頷いた。


「精一杯やるので、皆さん、どうかついてきてください」


 ひよりが言い終わるのとほぼ同時に、歌のメロディが始まってしまう。

 最初に歌い出したのは、アオだった。まるで始めからそうすることが決まっていたかのように滑らかに、そして、軽やかに歌い始める。それは、トレウラの真ん中で歌った時とはまるで違う歌声だった。


 アオは何小節かを歌うと、不意にマイクを下げる。それと相反するように、今度はひよりがマイクを持ち上げ歌い出す。

 客席を向いたままの二人は、アイコンタクトもないのに驚くほど息がぴったりと合っていた。


 手違いなのか、意図があってのことなのかは分からないが、それまでステージだけを照らしていた照明が観客席を照らした。真っ暗だった観客席がパッと明るくなる。奥の方の観客まで、一人一人の表情がよく見えた。けれど、緊張がぶり返したり、臆したりするようなことはなかった。

 観客の表情は、誰がどう見たって俺たちの演奏を歓迎してくれていた。休憩時間にアオの歌を酷評していた二人組でさえ、目を輝かせ、俺たちの演奏、いや、アオとひよりの歌に聞き入っていた。


 俺たちが最後に演奏したのは、アオがよく部室で一人で歌っていた曲。アオが四十年ぶりに夏帆かほさんと再会した時に歌っていた曲。きっとアオが好きに違いない曲だった。


 最後のサビは、アオとひより、二人で歌った。

 

 一人一人が歌っている時も十分すぎるくらい楽しそうだったが、一緒に歌う二人はこれ以上ないくらいに楽しそうだった。アオのこんな姿を見るのは初めてだった。

 どちらともなくハモり、ハモられ、自在にメロディを変えていく。最初の方こそ観客席を向いていた二人は、いつの間にかお互いに向き合って歌っていた。


 最後のコードを鳴らすと、二人揃って観客席に向かって頭を下げた。

 俺と井口いぐちさんも、一拍遅れて中央の二人に倣う。それまで呆けていたような観客が、思い出したように一斉に割れんばかりの歓声と拍手で俺たちの演奏を讃えてくれた。

 

 どれくらいお辞儀をしたままでいればいいのだろう。歓声と拍手が鳴りやまない。視界の隅に見えるひよりとアオも、まだ頭を下げたままだった。


 しばらくすると、客席から送られてくる音が少し収まった。そのタイミングで、ひよりとアオが顔を上げるのが分かった。今度も二人に倣って顔を上げると、一度収まりかけた歓声と拍手がまたワッと大きくなる。

 会場が揺れるような音が、俺たちの体中を撫でまわしていた。ぞわぞわぞわと全身に電気が走る。気持ちがいい。


「今日は本当にどうもありがとう!!」


 ひよりが大きな声で客席に礼を言うと、また一段と盛り上がる。


「私からも、ありがとう。お客さんも、今日一緒にライブを作り上げてくれたみんなも。それになによりも、そうくん。私のためにこんなに素敵なライブを願ってくれてありがとう」


 アオは振り返るとにっこりと笑った。その笑顔は穏やかで、やさしい笑顔だった。

 ジワリと目の内側が熱くなった。ひよりの声が戻って、ひよりの歌を聴くことができて、どういうわけかひよりと同じステージに立っていて、ひよりの隣にはアオがいて。そんな夢みたいな現実に心が震えた。

 泣いてしまう。そう思った時には、もう遅かった。視界はあっという間にぼやけて、にじんでしまった。何も見えなくなる。


 ぐっと瞼を拭うと、アオの姿がなかった。

 ステージ上のどこにもいない。袖に目をやると、夏帆かほさんやリサさん、けいさんに千冬ちふゆさんといった先輩たちの姿がある。その中にもアオはいなかった。

 先輩たちの姿を見て、アオがいない意味を悟った。先輩たちは、もう高校生のような姿をしていなかった。

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