第54話 奏くんの願いは絶対に叶う
ギターを忘れてしまったことに気がついたのは、打ち合わせとリハーサルが終わって帰路に着き、アナーキーから十分くらい離れた時のことだった。一緒にいた
アナーキーには、まだ先輩たちが残っているはずだった。
入口ドアに付けられた鈴を鳴らしてドアを開けると、カフェスペースがある。
アナーキーは一階がカフェ、地下がライブハウスという構造になっている。薄暗いカフェスペースは、驚くほどがらんとしていた。
先輩たちは、地下のライブハウスでまだ何か打ち合わせをしているのだろう。カフェが静かな分、地下のわずかな音もはっきりと聞こえてくる。
ふと、視界の隅に人が動く気配があった。
そちらに目をやると、月明かりの中、アオが一人佇んでいた。驚いたが、そんな感情を表に出さないように冷静に、声をかける。
「アオ。こんなところで何してるんだ?」
「うん。明日のライブの下見」
アオは今までしばらくの間姿を見せなかったことには触れなかった。けれど、声が強張っている。薄暗くて、表情までは読み取れなかった。
「それより、
「ギターを忘れちまってな。取りに戻ったんだ」
「明日ライブなんだから、置いていっちゃえばいいのに」
「それもそうなんだが、俺は先輩たちと違って下手くそだからな。直前まで練習してたいんだよ」
「そっか。いい心がけだね」
アオがこっくりと頷くのが分かった。そして、ふっと力を抜くように息を吐く。
「その子が、妹さん?」
それまでの強張った声と違って、どこか力の抜けたような、自然な声になっていた。
「あぁ、妹のひよりだよ」
「初めまして、って言っても私のことは見えないか。それに声が出なくなった張本人から挨拶なんかされたくないよね」
ひよりは、アオのいる方をじっと見ていた。窓から差し込む月明かりが、ちょうどひよりの顔を照らしている。ひよりは、見たことないくらい優しく微笑んでいた。
『あなたが、アオちゃん?』
差し出されたタブレットの淡い光に照らされて、わずかに見えたアオの顔には、困惑と喜びが浮かんでいた。
どういうわけか、ひよりには、アオが見えているようだった。
「うん。私がアオ。あなたの声を奪った張本人」
自虐的に笑うアオは、真っ直ぐにひよりを見ている。
『そうみたいだね。あなたのおかげで私、声が出なくなっちゃったよ』
アオの目がわずかに揺れる。一瞬、視線を逸らそうと迷ったのが分かる。それでも、アオはひよりから目を逸らさなかった。
『でも、大丈夫』
黙ったままのアオに、ひよりはタブレットを向け続けた。
『だって、あなたと
「だといいんだけど。でも、私一人ではどうにもできない。私は奏くんが本気で心から願ったことしか叶えることができないの。奏くんがそれを本気で願っているかどうか、私には分からない。分かりようがないから」
『大丈夫。奏くんは、心から願ってくれてるよ。私のことだけじゃなくて、先輩たちや奏くん自身のこと。それにアオちゃん、あなたのことも』
「私のことも? そうかな?」
そこで初めてアオはひよりから目を逸らした。自分のつま先を見つめるように視線を落とす。
『私はね、あなたにお礼が言いたかったの』
向けられたタブレットの明かりに照らされて、アオが顔を上げた。脈絡のない文面に少しだけ眉を顰める。
「お礼? 私に? どうして? 私のせいであなたは声が出なくなっちゃったんだよ? そんな私にどうしてお礼なんて言うの?」
『だって、あなたのおかげで奏くんは音楽が好きになったみたいだから。それに、あなたのおかげで奏くんとライブができるから』
ひよりは、幼い頃からいつも言っていた。俺の伴奏で歌いたい。俺と一緒に音楽をやりたい。
まともに取り合ったことはなかった。俺にはひよりのような才能はないし、ひよりほど音楽が好きではなかった。
ひよりが歌えなくなったことで、嫌いになって、憎んですらいた。そのはずなのに──。
ひよりの打ち込んだ文面を見て、初めて気がついた。俺はいつの間にか音楽が好きになっている。
「そっか。初めて会った時は驚くほど無関心だったのに。音楽が嫌いって言ってた気もするし。でも、そっか──。そういえば、ギターを可哀想だなんて可笑しなこと言ってたっけ」
『ギターが可哀想? 奏くんがそう言ったの? なにそれ』
アオとひよりは目を合わせると、二人同時にぷっと吹き出して笑う。
「バカみたいだよね。でも、思えば音楽が心底嫌いな人は、そんな風に思わない」
『確かにね。それになんか、いかにもって感じで奏くんらしい』
「そうなの?」
ひよりが打ち込んだ文面を見て、また二人は同時に笑い出す。だんだん恥ずかしくなってきたが、妙に意気投合する二人に割り込む隙はなかった。
『だからね──』
ひとしきり笑うと、ひよりは、タブレットに新しく文字を打ち込んだ。
『奏くんの願いは絶対に叶う。アオちゃんが必ず叶えてくれる。私はそう信じてる。もし、私の声を奪ってしまったことで、誰かの願いを叶えてしまうことが怖くなってしまったんだとしたら、そんなに怯えないで。私は大丈夫だから。私は、あなたに感謝しているんだから』
外を通る車のヘッドライトだろうか。不意に差し込んだ強い光にアオの顔が照らされる。
差し出されたタブレットをまじまじと見つめるアオの目からは、一筋の涙が溢れていた。目を開いたまま、溢れ続ける涙を拭うこともせず、アオは声も上げずに泣いていた。
「うわっ! ちょっとリサ! あんたどうしたのよ──って、
静まり返ったカフェに
「そういう、夏帆さんだって」
「ほ、本当だ。やっぱりこれって。──みんな、行くよ」
夏帆さんの声を合図に、地下から人が上がってくる音がする。
チカっと目に沁みるような明かりが、一瞬でカフェを照らす。リサさんあたりが照明をつけたのだろう。
地下から続く階段を上がってきた先輩たちは、全員、高校生のような見た目になっていた。
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