第2話 その目は、かつてのひよりの目とよく似ていた
ひよりの声が出なくなった理由は、医者にも突き止めることができなかった。
医者は、あれこれと検査らしいことをした後で、最終的には自信なさそうに精神的なストレスが原因でしょうと結論づけた。
そんないい加減な診断にも、両親は一応納得したようだったが、俺は納得していない。
ひよりに限って、精神的なストレスが理由で突然声が出なくなるなんてこと、あるわけがない。精神的なストレスというなら、ひよりにとっては歌えないことこそが一番大きなストレスなはずだ。
けれど、じゃあ何故声が出ないのか、そして、どうすれば声が出るようになるのか、と考えると何も分からなかった。医者でも分からないのだから、当然といえば当然だ。
理由はなんであれ、ひよりは歌えない。それは、どうしようもない事実だった。
声を失ったひよりは、自分の部屋に閉じこもるようになった。
一応、訪ねていけば部屋に入れてくれる。
閉じこもってるといっても、鍵をかけているわけでもなければ、バリケードを張っているわけでもない。
ひよりが閉じこもったのは部屋ではなく、自分の殻の中だった。
あの日以来、ひよりは以前の明るさを見せてはくれなくなってしまった。声と同時に愛嬌も失われてしまっていた。
当然のように、ひよりは学校にも行かなくなった。
全校生徒が集まる公会堂で、多くの目に晒される中、声を失ったのだ。ひよりに起きた悲劇を知らない生徒はいない。
ひよりの兄である俺も、学校では腫れ物のような扱いを受けている。
気を使われているのが、嫌でも分かる。そうと分かると、こちらの対応もぎこちなくなってしまう。善意に基づくものだから余計にタチが悪い。
自然と一人でいる時間が増えていった。
気がつけば
古い校舎が取り壊されずに残っている場所がある。そこが、俺のお気に入りの場所だった。
その校舎から、歌が聴こえた。
微かにしか聞こえないのに、上手いのが分かる。
俺は思わず立ち止まって、声のする校舎を仰ぐように視線を上げた。
見上げた先に一つだけ開いている窓が見える。歌声の大きさや聞こえてくる方角から、声の主はその窓のある教室で歌っているようだった。
歌声と一緒に小さくギターの音も聞こえてくる。
俺の足は自然と校舎の中へと向いていた。
自分でもよく分からないが、聞こえてくる歌声にどうしようもなく惹かれていた。
古い校舎の中は、ひんやりとしていて薄暗かった。肝試しにもってこいの雰囲気だ。
しかし、不気味ではあるが、不思議と怖くはなかった。
窓の開いている教室は三階だった。
階段を登っているうちに歌声は聞こえなくなってしまった。それでも構わず歌声の聞こえた教室を目指す。
初めて入る校舎なのに、迷うことなく歩くことができた。一番奥にある教室の前に立ってふと顔を上げると、校舎と同じように古い木の札に〈ロックミュージック研究会〉という文字が見えた。
「なんだ、それ……」
思わず呟いていた。
教室には誰もいなかった。この教室じゃなかったか、とも思ったが、一つだけ開いた窓から吹き込む風に揺れるカーテンと、床に投げ捨てられたように無造作に置かれた青いギターが間違いではないと告げている。
あまりにも雑に置かれたギターを見ていると、気の毒に思えてくる。
持ち主はどこに行ってしまったのだろう。
せめてケースに入れるなりすればいいものを。そう思って見回してみるが、それらしいものはない。それどころか、ギター以外には机と椅子があるだけで、特別なものは何もなかった。
「歌ってたやつのギター、だよな。どう考えても」
誰もいないのは分かりきっていたが、声に出して呟く。当然、返事はない。
「これじゃ、こいつがかわいそうだ。雑に扱うと、楽器はヘソを曲げて音に影響する、だっけか?」
いつかひよりが言っていたことの受け売りだった。
本気でそんなことを信じていたわけではないが、やっぱり目の前のギターが気の毒に思えて、そっと手に触れた時、後ろから声が聞こえた。
「久しぶりっ! って、……えっと……あれ? 君は……誰? なんでここにいるの?」
振り返ると俺と同年代の女の子が立っていた。
肩より少し長い髪が風に吹かれて揺れている。髪の毛がふわりと持ち上がるたびに黒い髪の隙間から青が覗いた。
女の子は制服を着ていなかった。
「えっと……外を歩いてたら歌が聞こえてきて、あまりにも上手いもんだから、どんな子が歌ってるんだろうって気になっちゃって」
戸惑いながらも正直に応えると、女の子はどういうわけか、目を大きく見開いた。驚いているようだった。
「私の歌が、聞こえたの?」
女の子は信じられないという風に口を押さえた。思いがけず歌声を聞かれたことが恥ずかしいのかもしれない。
口ぶりからするに、どうやら歌っていたのはこの子らしい。ちょうどトイレにでも行っているタイミングで、俺とは入れ違いになったのかもしれない。
「窓、開いてるから」
俺が指さすと女の子は風に揺れているカーテンを見る。そして、首を横に振った。
「そっか。聞こえたんだね」
どこか嬉しそうに見えた。
「うん、まぁね。君の歌、すごく上手かったよ。軽音部?」
ひよりが歌えない間に他の人間の歌声が、それも抜群に上手い人間の歌声が響いているのは、本当は悔しいはずなのに、不思議と悔しいとは思わなかった。
「違うよ。私は軽音部じゃない」
あんなに上手いのにもったいない、と思った。
けれど、軽音部は人気があるだけに入部希望者も多く、部員も多いと聞く。ぶっきらぼうな言い方は、過去に何かトラブルがあったのかもしれない。
「でも、歌は好きなんでしょ? こんな所で一人で歌ってたくらいだし」
「うん。歌も音楽も大好き。君は、好き?」
すぐには応えられなかった。
正直に言うと音楽のことは最近、嫌いになったところだ。
ひよりが塞ぎ込んでしまった直接の原因は、声を失ってしまったせいではあるが、そもそも音楽というものに出会っていなければよかったのだ。歌が、そして音楽が好きすぎるからこそ、歌えなくなってしまったショックが大きいのだ。
音楽さえなければ、ひよりは声を失った今も笑っていたかもしれない。ひよりをあんな風にしたのは音楽だ。
ひよりをあんな風にした音楽が俺は大嫌いだ。
俺が何も言えないでいると、女の子は心配そうに首を傾げた。けれど、それ以上追求することはしなかった。
「ねえ、君、名前は?」
「
「私はアオ。よろしくね、奏くんっ!」
アオはひよりと同じように俺のことを『奏くん』と気安く呼んだ。
細めたアオの目はキラキラと輝いて見えた。その目は、かつてのひよりの目とよく似ていた。
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