「ほんならぁ、頼むわぁ。ほうや、名古屋の市場でええわぁ」


 スマホを耳に当てたおばさんの顔がこちらを向く。『金丸水産』に入って来た時も思ったけど、おばさんは海亀にそっくりだ。おばさんが電話の相手に「ほうやてぇ、ほうやてぇ」と頷くたび、短い薄紫色の髪がイソギンチャクみたいに揺れ動く。おばさんは電話の相手と「ほんでこないだのやけどなぁ」と、別の話をし始めた。


 洸太君が「まだ終わらなそうっすね」と肩を竦める。私も肩を竦めた。でも時間にはまだ余裕がある。そんなに焦る必要もないと店内を見渡した。


『金丸水産』の店内は大型冷蔵庫がいくつも並び、商品ケースには干物や蒲鉾などが、すかすか暇そうに並んでいる。六月の終わり。蟹でも海水浴でもないシーズンはきっと観光客も少ない。それでも店先では小柄なおじさんがサバの浜焼きを焼いていて、香ばしい匂いが店内に充満している。さっきから私の胃はこの匂いに反応して、ぐぐぅと低く唸っている。


「どうせなら、食べてきます?」洸太君が外のテーブル席を指差す。店の駐車場には市民プールに置いてあるような簡易的なテーブルセットが三つあった。焼きたての美味しさは焼きたてじゃないと味わえない。おばさんの電話が終わるタイミングで、サバの浜焼きを注文した。


「なにもこんな暑い日に外で浜焼き食べんでもいいのにぃ」白いトレーに浜焼きを乗せたおばさんは呆れたように言う。


「やっぱ焼きたては焼きたてのうちに食べないともったいないっすよ」

「ほらほうやぁ」

「このサバもここの?」

「ほんなわけないわぁ。これはノルウェー産」

「へぇ、ノルウェー?」

「ノルウェー産が一番脂のって美味しいんやぁ」

「でも福井で焼いてたらご当地グルメっすよねー」

「ほうやてぇ、よう分かってるやんか」


 洸太君とおばさんの会話がポンポンとボール遊びのように弾み始めた。海亀顔のおばさんは曲がった腰を少し伸ばし、長靴をカキュカキュ鳴らして一緒にテーブル席までやってくる。余程お店が暇なのか、それとも若くて潑剌はつらつとした洸太君が気に入ったのか、ガガガッと音を立てて年季の入った白い椅子に腰掛けた。プールサイドにあるような丸いテーブルに三人で座る。


 ——気まずい。


 おばさんは私のことは眼中にはないようで、洸太君と言葉のキャッチボールを続けている。焼きたての浜焼きを眼前にして唾を飲み込んだ。「待て」をされた飼い犬の気分だ。


「ほんでぇ、今日は仕入れに来たんか?」

「仕入れはおまけっすよ」

「ほんならぁなんでこんな何もない時期に?」

「蛭子町の知り合いの家に用事があるんすよ」


「蛭子町?」海亀の低い鼻に皺が寄る。「なんでまた?」とおばさんは訝しげな声で訊いた。心がどきっと固まってしまう。どこで誰がつながっているのか分からない田舎町。もう少し先へ行くと『浜なみ』がある。洸太君には私が『浜なみ』の孫だということを誰にも言わないで欲しいと念を押してある。それでも胃がきゅっと縮んだ。子守りバイトに来たことをおばあちゃんには言ってない。


 洸太君はおばさんの問いには答えず、ちょっと大袈裟に「美味そうっすね!」と箸を手に取った。縮んだ胃がふっと軽くなる。私も「いただきます」と箸を手に取りサバを摘んだ。パリパリした皮に透明な肉汁を溢れさせるジューシーな身。生姜のすりおろしと醤油をつけて口に運ぶ。やっぱり焼きたては格別。隣の洸太君も「美味すぎっしょ」と感嘆の声をあげた。


「やっば! 激うまっすね!」

「ほうかぁ。ほれは良かった」

「生姜たっぷり乗せたほうが美味いっすよね」

「ほうやほうや。塩ふって焼いてないからぁ、醤油と生姜だけなんがええやろぉ」


 二人の会話を聞きながらサバの浜焼きを食べる。時間をかけて焼いたからなのか、サバの旨味が凝縮してる。一匹丸々串に刺して焼いたサバの浜焼きは福井の『ザ・ご当地グルメ』で、片桐さんなら手掴みで食べそうだと勝手な想像をした。改めて、『カレイの一夜干し』の仕入れ先が見つかって本当に良かったと思う。これで片桐さんからのミッションクリアだ。


 それに——。


『金丸水産』の駐車場からは海は見えない。海の音も聞こえない。道の向かい側には大きくて空っぽの水槽を置いた建物があって、それが海を隠してる。空っぽの水槽はシーズンが来たら蟹を入れる水槽なのかもしれない。今は茶色く燻んで中には何も入ってない。それとも、玄関に看板は出ていないから廃業したお店なのだろうか。閑散とした漁師町。すぐ近くで、ピーヒョロロォーととんびの鳴き声がした。歪んだ音程で、細く長く、木枯らしに舞う落ち葉のような鳴き声だ。


 ピーヒョロロォォー

 ピーヒョロロロォォー


 曇天の空に鳶の声が溶けていく。浜焼きを咀嚼しながらだんだん近づいてくるその鳴き声に耳を澄ましていると、「死体がな——」と鼓膜に言葉がぶつかった。はっとして、おばさんを見る。洸太君が興味ありげに「死体っすか?」と訊き返した。


「ほうやぁ。すぐ近くの浜でな、水死体があがったんやぁ。わたしも見に行ったでよう知っとるわ。酷い臭いやった。ほんでなぁ、最初は人やと思わんかったんや。真っ黒くてねばねばしとって、酷い悪臭が辺りに漂っとって。ほんでなぁ、みんな最初はイルカかなんかやと思っとったんや。誰もそんなん触りたないやろ? ほんで誰がそれを処理するかって大騒ぎしとったわ。ほんやけど、ほれがなぁ、まさか人間の水死体やとはなぁ。思い出すだけで気持ちわるぅなるわ」


 崖から落ちた黒い人影を思い出す。

 もしかして、その水死体はその人なのではないか。


 毛穴がチリチリと摘み上げられと全身が粟立っていく。酷いアレルギーになってしまったように内臓まで摘み上げられていくような感覚がした。自然に顎を引いてしまう。と、視線が下がり、骨が剥き出しになったサバが目に入った。さっきまで美味しい美味しいと食べていたサバから飛び出た骨が生々しい。白く濁ったサバの目が、我が肉を喰ったのはお前かと恨めしそうに言っているようで急いで箸を離した。


「誰の死体だったんですか?」洸太君が尋ねる。おばさんは首を甲羅に仕舞う亀のように竦め、ちょいちょいと手をこまねいた。嗄れた爬虫類のような手の動きに合わせ、私も洸太君もおばさんの顔に吸い寄せられていく。テーブルの真ん中で顔を寄せ合うと、おばさんは声を潜め、「わたしに聞いたって言ったらあかんでぇ」と意味ありげに続けた。


「蛭子町のなぁ、おひぃ様やぁ」


「おひぃ様?」気味悪い名前を訝しげるように洸太君が小声で訊き返す。


「ほうや。次のおひぃ様ちゅう話や」

「次の、というと、その、おひぃ様ってのは他にもいるんすか?」

「ほうやてぇ、まだ多分生きとると思うで、次のやと思うわ」

「どういうことなんすか?」

「あっこはちょっとおかしな町でなぁ。氏神様を祀っとるんやけど、その氏神様は代々蛭子家えびこけが守っとるんや。ほんでな——」


「おいっ!」突然背後から声がした。


 おばさんの首が一気にすくむ。私も甲羅があったらその中に顔を引っ込めていた。心臓がばくばく波打っている。声の主はきっとサバを焼いてたおじさんだ。おばさんはバツの悪そうな目を私の背後に向けていた。


「ほんな話したらあかん。目ぇつけられたらあかんやろぉ」頭上からおじさんの怒ったような声が降ってきて背中がぞわぞわ縮んでいく。「ほんやしけぇ、この人らはぁ——」おばさんは口を窄めてもごもご動かした。


「ほんなもん、あかんもんはあかん。お兄ちゃんら、観光客かぁ?」


「あ、はい。そっす」洸太君が笑顔で答える。


「ほんなら、はよぉそれ喰って、けぇってけ。もぉ話はおしまいじゃ。ほれに店ん中が空っぽじゃ。お前もはよぉ店に戻ってこい。電話が鳴っても出る奴がおらんかったらあかんやろぉ」

「ほやな、ほやほや」


 おばさんは椅子から立ち上がると、「ほな、余計な話で悪かったなぁ」と言い残し店内に戻っていった。


 振り向いて店内を見る。店内に入ったおばさんにおじさんが何か言っている。二人はこちらをちらちら窺いながら揉めているように見えた。なんだか嫌な感じだ。


「なんすかあれ」洸太君が椅子に背を預け吐き出すように言った。「いい気分じゃないっすよね」に、無言で頷く。


「それに気になるっすよねー、途中で話を止められちゃ。なんすか、おひぃ様って。紗千香さん知ってます?」


 無言のまま首を振った。「おいっ」と背後から声がした時からずっと肺が萎んでいる。悪いことをしてないのに、叱られたみたいな気分だ。それにそんな名前は聞いたことがない。また首を振り、「知らないかな……」と答えた。


 ——刹那。


 目の前にばさばさっと何かが飛び込んできて、一瞬にして姿を消した。微かに感じる獣臭。洸太君が空を仰ぎ、「うわぁ、鳶にサバを持ってかれたっすよ」と言った。




 

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