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「人智を超えた世界というものは、存在しています。普通では考えられない現象。常識や科学では解明できない現象。それらは、信じる者の念が強ければ強いほど現実となる。そういうことなのでしょうなぁ……」


 動画が終了した静かなダイニング。入道住職の低い声が土壁に吸い込まれるように溶けていく。洸太君の手に握られたスマホが、カチ、と小さな音を出しブラックアウトした。


「どうぞ」住職が私に手を伸ばす。はっとして、テーブルに放り投げたイヤホンの片割れを受け取ると、まだ蟲の羽音で振動しているような気がした。


 ぶっぶぶぶぶぶっ

 ぶぶぶぶぶぶっ


 耳の中、蟲の羽音が蘇る。老婆の顔から飛び立った黒い蟲の大群。途中で目を閉じたから、老婆がどうなってしまったのかは分からない。でも、脳裏では、蟲に喰い尽くされ、眼窩が剥き出しになった老婆の姿がありありと浮かび上がっていた。


 骨と皮だけの老婆の顔にぽっかりと空いた二つの闇。血に染まる白い割烹着。骸骨のような指が、苦し紛れに掴んだ白髪を毟り取り、その指先に絡まっている姿まで——。


「しかしもって……」住職の声で恐ろしい妄想から現実に戻る。ダイニングテーブルの向こう、腕を組んでいる住職は頬を緩め「いやはや」と、軽く顎をひいた。


「洸太君は思った以上の逸材かもしれませんなぁ。さっきの動画は普通の検索エンジンでは見つけることのできないもの。動画もYouTubeなどではない。それなのに、見つけることができるとは」

「普通じゃ見つけられないものは大体裏っすよね」


「え?」思わず声が漏れたけど、住職の「ほぉ」という声に掻き消される。洸太君は私の声には気づかず、「でも俺全然——」と話を続けようとした。でも。


 ——ガタッ

 私の隣に座るミチコちゃんが急に立ち上がり、会話が止まる。


 ミチコちゃんは背中を丸め、お腹を抱え込むように細い両腕を廻している。長い黒髪がだらりと下に垂れていて、その表情は窺えない。ピシ、どこからか木が裂けるような小さな音がして、ミチコちゃんの身体が微かに震えた。


「うぅん……」夢子さんが鼻から小さく呻き声を出し、ピンと張った空気に穴を開ける。ぱちっ、大きく瞳を開けた夢子さんはむくりと顔をあげ、「どこ行くの?」とミチコちゃんに尋ねた。ミチコちゃんは答えない。そのままの体勢でお腹を壊した子供のように背中を丸めて立っている。


「トイレ?」夢子さんがミチコちゃんに訊く。ミチコちゃんは黙ったまますぐには返事を返さず、やがてこくんと静かに頷いた。「場所はもう分かるんでしょ?」ミチコちゃんはまた頷く。「じゃあ行っといでよ」夢子さんはこめかみに指を当ててぐるぐる揉みながら目を瞑った。


「ぁあ〜、アルコールが抜けてきた……。厭な感じ」

「もう呑まない方がいいでしょうなぁ」

「そうだよねぇ……」


 ミチコちゃんが部屋から出ていく。それを待っていたかのように、「で?」夢子さんが大きな瞳を開けた。テーブルに肘をつき両手を組む。その上に顎を乗せ、「だいたい分かったぁ?」と顔を傾けた。


「いや、全然っす。インタビュー動画の現物も見たんすけどね」

「へぇ、あれを?」

「夢ちゃん、洸太君は思った以上の逸材かもしれませんよ」

「ふぅん、じゃあいいじゃん決定で」


「うっす」洸太君が軽く頭を下げ、テーブルの下でそっと私の手を握った。温かいというよりは熱い手。洸太君の手はじっとりと汗をかいている。そのせいなのか、掌がやけに密着しているように思えた。


「じゃあさ」片眉をあげ夢子さんが声を潜める。


「現物見たってことは、蟲に喰われた死体のとこまで見たってこと?」


 イヤホンを持つ手の力を緩めた。洸太君はなんとも思わないのか、「まじでグロくて、あれってCGじゃないんすよね?」と普通に訊き返している。


「うん、そう。あれはそのまんま本物。で、マサルも同じ死に方だった」


 ——マサル、黒頭巾の怪談師、海蛍さんのことだ。

 

 どこかから冷たい風が吹き足首をそっと撫でていくような、そんな感じがして爪先を擦り合わせた。「あれはそのまんま本物」「同じ死に方」現実感のない言葉が脳内を徘徊し始める。ぶぶぶぶぶっ、飛び立つ黒い蟲と剥き出しの眼窩。掌の中のイヤホンから蟲が溢れてきそうな妄想が湧き始め、テーブルの上にイヤホンをそっと置いた。


「ということは——、海蛍さんが調べてた百物語とあの蟲はどっかで繋がってるってことっすよね?」

「多分ね。だって、あんな死に方。そうそうしないでしょ」

「そっすよね……。でも分かんないなぁ。俺たち海蛍チャンネルの百物語編も見たんすよね。紗千香さん覚えてます? 蟲については話してなかったすよね?」


 急に話を振られて、「あ……」と頷いた。ミチルちゃんのお迎えに行く前、洸太君と見ていた海蛍チャンネルの百物語編。でもあれは、海蛍さんの過去の話であって、蟲なんて言葉は出てこなかった。


「ふっ」夢子さんが鼻でせせら笑った気がした。


「海蛍の過去動画見たとこで繋がるわけないよ。でもね、マサルの残したファイルを見れば蟲が出てくるんだよね」

「ファイルって、昼に言ってた百物語を調べてたファイルってやつっすよね」

「いずれ洸太君にもきちんとした形でお見せしなくてはいけないのでしょうが、今は車にありますゆえ……」

「えー、スマホに写真あるじゃん。拡大して見せてあげたらいいんだよぉ」


「お、おぉ」住職は黒い革ケースに入ったスマホを取り出すとグローブのような太い指で操作し始めた。すぐに、「これを見てください」とスマホをテーブルに置く。洸太君は私と繋いでいた手を離し「お借りします」と住職のスマホを手に取って、私にも見えるようにしてくれた。


 ——刹那。


 奈落の底から足首を掴まれ引き摺り込まれていくような怖気が全身に走った。洸太君が手にしているスマホの画面には、青いファイルに挟まれた、写真のページ。白い塗装が所々剥がれた壁は、きっと古い建物の一部。その壁に丸い穴が空き、その中に——


「これって」洸太君が私の方を向く。言ってる意味は分かる。でも、動けない。目が画面に張り付いて剥がせない。


「何枚かあるから」夢子さんが言い、洸太君が画面をスライドさせる。次の写真は黄土色の土壁に同じような穴の写真。その穴の中にも祠のようなものが入っていた。


 同じだ。

『浜なみ』の洞穴厨房でみつけた、神棚でもない祠でもない、祠のようなものと、全く同じだ。


 朱を帯びた薄橙色うすだいだいいろの卵形の石と、それを包み込むように取り付けられた丸い屋根。石に施された彫刻はひっくり返した鮑のようにも、燃え上がる炎のようにも見える。炎の中心には木でできた小さな開き戸が取り付けられていた。


「最初にお見せした写真は、マサル君が昔バイトに行ってた旅館の写真ですね。それ以外は、全国各地取材に行った先で撮った写真でしょうなぁ」


 洸太君の指が横に動く。画面をスライドするたび、壁に空いた穴と丸い祠の写真が映し出されていく。何枚も何枚も。背景の壁を変え、洞穴厨房と同じ祠の写真が現れる。


「あ」洸太君の指が止まる。「扉が開いて——」洸太君の二本の指が画面を拡大していく。ズームアップされていく祠の写真。開き戸の奥は薄暗く画像がぼやけている。でも、縦長の古ぼけた紙が入っているのが分かった。


「紙っていうか、これ、護符っすか?」

「おお、そこまで見ましたか。では、次の画像を見ると分かりますよ」


「うっす」洸太君の指が画面を触り、次の写真に切り替わる。茶色く変色した縦長の紙は、薄い箱のようなものを包んでいるのか、少し立体的になっている。表面には墨で描かれた二対の神様の姿。頭から蝶のような触覚と大きな羽を生やし、その身体は体毛なのか、細い毛が何本も何本も書かれていた。太い腹から先は足ではなく、ショウリョウバッタの尻尾のように細長くなっている。二対の神様はその尾を絡ませ、一対であるかのようにも見えた。


 ——うみぼうずじゃないよぉ、ちょうちょうだよぉ。


 不意に頭の中でミチルちゃんの声がした。


 ——あたまにね、こうやって、こうやってぇ、おっきなはねがはえてるちょうちょがね、とぉいとぉいところからうみをおよいでやってくるの。


 可愛い可愛い声がした。そして、脳裏に蘇る、ミチルちゃんのお腹にあった蝶のような形をした痣。


「ありがとうございました」洸太君が入道住職にスマホを手渡した。住職は「いえいえ」と受け取り、テーブルの上にスマホを置く。黒皮のスマホケースをじっと見つめた。


 黒い痣。

 痣は、私のお腹にも——、ある。






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