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ジージジ、ジー
イヤホンから流れる微かな音が鼓膜を刺激する。まるで小さな蟲が耳の中に入り込み、もぞもぞと動いているようだ。なんだか嫌な感じ。イヤホンを指で摘みあげ少し浮かせてみたけれど、あまり改善はしなかった。
イヤホンから『すいませんねぇ』鼻にかかったような男性の声がする。きっとこの声が若かりし頃の犬山順治さんだ。
画面のピントはぼけている。『これでどうかなっと』犬山さんの声がまた聞こえ、だんだんカメラのピントが合っていく。どこかの家の居間だろうか。裸電球のぶら下がる古ぼけた和室に、白い割烹着を着た老婆がひとり。ちゃぶ台に手をついて俯いている。
『さっきの話をもう一回してくれるだけでいいですからね』
ふらふらと身体を揺らしながら老婆がゆっくりと顔をあげた。カメラがズームインを始め、老婆の顔がより鮮明に映し出されていく。所々抜け落ちた薄汚い白髪。眼窩に沈む落ち窪んだ目は黄色く濁っているようだ。顔全体に深い
「山姥みたいっすね」
ごく、生唾を飲み込んだ。私もそう思っていた。精気を吸い取られ、骨と皮だけになってしまった山姥。
『よし、これでいいかな。
ごほん、決まり文句のように咳払いをした犬山さんは『えー、では』と、インタビューを始めた。犬山さんの姿は映ってはいない。
『末さんはあの村の関係者なんですよね』画面の中、老婆が静かに頷く。
『お
「オサンバサンってなんすか?」洸太君が呟き、入道住職が「赤ちゃんを取り上げるお産婆さんのことですよ」と、それに答える。
スマホの中、老婆の口が微かに動いた気がする。きっとなにか話した。でも、小さすぎて声が聞き取れない。
『やまちゃん、やっぱしもう少し近づけてくれる?』
背の高い若い男性が画面に映り込む。『この辺でえぇですか?』マイクのような物を持った若い男性がちゃぶ台に近づく。『オッケーオッケー、じゃあやり直しってことで』掌が画面に近づきレンズを塞いだ。すぐに手が離れ、また老婆を映し出す。
『えー、改めまして。お願いします。えー、末さんは、あの村のお産婆さんだったんですね』
『そうや……』
『あの村のことについて訊きたいんですけどね。
実は僕は数年前、ある男から偶然あの村のことを聞いちゃって、それで興味があって行ったことがあるんですよ。まぁ、行ったと言っても村の入り口で追い返されちゃったというか。お恥ずかしい話、恐ろしい体験をして逃げ帰って来たわけなんですけどね。
で、それからですね。どうしても頭からあの村のことが離れなくなっちゃって。それで、日本全国、誰かあの村のことを知ってる人がいないかと思って、探しまわっていたわけなんですよね。で、ようやく末さんにたどり着いた。先月ここにいるやまちゃんと出会えなければ、末さんには辿り着けなかったことでしょうね。いやぁ、どこに出会いが落ちてるか分かりませんよね。まさか、旅行先の京都で出会うなんて本当にラッキーでした。
あぁ、ダメだ。フィルムがもったいないや。
では、末さん、改めて、単刀直入にお伺いします。
あの村の秘密を教えてください。
あの村は、なぜどの家もどの家も金持ちなんでしょうか?
趣味がいいとは思えませんが、金歯率が高いのも気になる。旅館街でもないし、あんな村、ただの漁村じゃないですか。世の中オイルショックだなんだって大変な時代なのに、それでもあの村の人たちはいい暮らしをしてる。
僕はね、車じゃ見つかるからってんで、わざわざ歩いてトンネルを抜けて、何度かあの村に忍び込んでこの目で見て来てるんですよ。
村人が床下を開けて何かを大事そうに隠す姿、田舎なのに百貨店の外商が足繁く通う姿、驚いたことに中には名古屋や伊豆、軽井沢に別宅を持っている輩までいる』
イヤホンをしていない片耳から「本物だ」と聞こえた。横目で見る。洸太君は吸い込まれるように画面を凝視している。真剣に聞き入っているようだ。私も視線を画面に戻す。
画面に映っているのは老婆の顔だけで、目を瞑った彼女はただ黙って話を聞いている。
『それは、あの岩山のお堂に祀られている生き神様のおかげなんですよね? どうなんですか? 氏神様として祀ってるのは女の神様で、絶世の美女だって、僕はね、知り合いの男に聞いてるんですよ。村の男たちが年に一度
バンッ、安机を手で思いっきり叩くような、そんな光景が脳裏をよぎった。話し方が、まるで取調室で犯人を落とす刑事のようだ。気分のいい話し方じゃない。聞いてる私まで萎縮してしまう。犬山順治さんは穏やかな印象だったのに、若い頃はこんな押し付けがましい感じだったのだろうか。それとも撮影をしてるから、わざとこんな芝居じみた喋り方をしているのだろうか。だとしたら、この山姥みたいなお婆さんが気の毒に思える。まるでやらせ番組だ。
『どうなんですかっ?』張りのある声がまた和室に響いた。老婆の口が黒い隙間を作る。はぁ、老婆は息を吐く。
『あんさんは、やっぱり勘違いをしとるようや……』
目を開けた老婆は、ゆっくりと、でも、はっきりとした口調で語り始めた。
『わしは、産婆言うても間引き専門の家系に生まれたんや……。
えろう昔から、ずぅっとそうや。お侍さんがおった頃からなぁ……。忌嫌われる商売をしとった。ほれがある時になぁ、そういうても昔々や。お侍さんがおったくらい昔のことや。わしの家に間引きして欲しいちゅうて、えろう離れた村から使いのモンが来たんや。お金がようけもらえるときいてなぁ。ほれならと、何日も何日もかけて里へおりて、ご先祖様はその依頼を受けなさった。でも、それがあまりに哀れな話やった。子供を堕す母親があまりに可哀想に思えたご先祖様は、秘術にしてた
あの村はなぁ、卑畏様がおるから、民に富が与えられるんや』
『ひいみ様、それですよ! それ! その話を聞かせてくださいっ!』
はぁー、長いため息を老婆はまた吐いた。話疲れたのかもしれない。剥げた頭をふらふら揺らし、呼吸を整えているように見える。
『卑畏様はなぁ、可哀想な神様なんや。あんさんが思っとるようなことやない』
『どんな話でもいいんですよ。僕はその話を録画して残しておきたいんですから』
老婆はまた長い息を吐いた後、肩で息をしている。
『障りは
話していた老婆が急に身体を大きく揺らし始めた。老婆は苦しんでいるように見える。胸に手を当て、次に口元に鶏がらのような指を這わせる。
——刹那。
ごぼぼっぼっ、骨張った指の間から血が溢れた。がはぁっ、老婆は口から血を吹き出す。開いた口から流れ落ちていく血液で、みるみる間に白い割烹着が赤く染まっていく。想像を絶する展開に思わず手で自分の口を塞いだ。
画面の中、『大丈夫ですかっ』マイクを持っていた男性が老婆の背中をさすろうとして、血に染まった白い袖がそれを振り払う。
『触ったらあかん……。蟲が……、蟲が遷るよって……』
背の高い男性は、老婆からずりずりと後退る。
『ほんやけど僕は……』
『蟲はな……』絞り出すように老婆は話しだす。
『はじめは海から流れ着いたんや……、そう、わしはおばあさんから聞いた……』
『海から……?』
『ほうや……。は……に、あた……ね……生えたむ、蟲が、入っとったと……。卑畏様……したん、わしのご先祖様や……。ほやけど、もう……蟲は、欲を喰らい、そま、黒く、染まって、なんともならん……』
『なんともって』犬山さんらしき声が呟いた。
『でも、裕福になるんですよね? そのムシを飼えば、あの村の人みたいに?』
犬山さんの言葉に、老婆がカメラをじっと見つめる。カメラがその顔をズームアップしていく。深い皺がいく筋も走る、皮一枚になった顔。かっと見開かれた老婆の瞳は黄色く濁り、瞳孔が鈍い光を放っていた。血に濡れた口元が何か言いたげに歪む。
『どうやったらそのムシを手に入れられるんですか?』犬山さんの声が飛ぶ。背の高い男性はカメラに視線を投げた。その瞳は困惑しているようにも怒っているようにも見える。カメラはさらにズームアップしていき、男性の顔が消える。
老婆の顔が画面いっぱいに広がる。その、目が、真っ直ぐこちらをみている。目が、合っている。老婆の目が、私を見つめている。これは動画。それも、かなり古い映像。目が合うはずがない。でも、スマホの中、老婆は私を見つめてくる。
ジージジージー、イヤホンから厭な音が静かに聞こえる。老婆の荒い吐息がそれを上塗りしていく。
『あんさんは……、これをみても、蟲が欲しいといいよるか……』老婆が息絶え絶えに言葉を発した。『よぉ、みとけよぉ……』唸るような声を絞り出した、刹那。
『あぁあ゛あぁぁあ゛ぐっ……あぁっ……ぁ……』
老婆の眼球がもぞもぞと動き始め、落ち窪んだ深い淵のような目の端から鮮血とともに、黒い粒々がぽろぽろ溢れ始めた。違う。目の周りの縁じゃない。眼球を喰い破って蟲が出て来た。皺皺の顔の皮膚も、ぷつぷつと穴が空き、蟲が喰い破って出てくる。鼻の穴からも、口の中からも。穴という穴から黒くて小さな蟲が血とともに、ねばねばした粘液を撒き散らしながら無数に出てくる。
ぶぶっぶぶぶぶぶっ、老婆の顔から蟲が飛ぶ。その音が、蟲の羽音が、私の耳の中を支配していく。イヤホンを抜け出して、耳の中まで蟲が入ってくる。
「いやっ……」イヤホンを抜き取りテーブルに投げた。ぶぶぶっ、ぶぶぶぶぶっ、イヤホンからはまだ蟲の音が聞こえている。スマホ画面は蟲が飛びまわり、真っ黒になっている。洸太君は固まって、スマホを握りしめている。もうやめて。いますぐこの動画を消して——、もう限界だと、目をぎゅっと瞑った。
ぶぶぶっぶぶぶぶぶっ、蟲の羽音が小さくなっていく。
ぶぶぶっぶぶぶ——
ぶぶっぶ——
『む、ムシが、消えた……?』犬山さんの声が、その動画の最後だったと、目を開けてから私は知った。
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