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 無意識に手が動き、痣のある場所に手を当てていた。お臍の近くにあるこの黒痣は、もうずいぶん薄くなってはいるけれど、産まれた時からついている。変な偶然に、ぷつぷつと毛穴が立ち始め、すぐに全身に広がっていった。


「確かに、そこに映ってた護符の絵は蟲っすね」洸太君はいつも通りの声で言う。


「それが卑忌ひいみ様のお姿なのでしょう。ホトを模した祠に祀ってあるのもお珍しい」

「ほとっすか?」

「ホトは女性器。生殖器崇拝は世界各地にありますが、このように祠にして中に別の神様を祀るというのは大変お珍しい。呪術的な意味合いの強い、この地域ならではの信仰なのでしょうなぁ。

 護符に描かれているのが、もしも男女二体の卑忌様なのだとすれば、秘仏中の秘仏、象頭人身男女二体の神様が抱き合っている異形の天尊、歓喜天かんぎてん様と同じく、財福はもちろん、災難除去、無病息災、悪人駆除、願えばなんでも叶う神様ということになりましょうなぁ」


「なんか、すげぇっすね……」洸太君が呟く。住職は満面と言っていいほどの笑みで、「えぇ」と頷いた。夢子さんも頬杖をつき「ふふふっ」と微笑んでいる。


「ですからして、年に一度の氏神詣がお夜伽儀式なのであれば、卑忌様をお守りする生き神様、おひぃ様と氏子達がまぐわい、絶大な御利益を賜る、ということになりますでしょうなぁ」


「でもそれって、えっと……」洸太君が少し口籠った。


「現在はもしかしたらお形だけの真似事——、ということかもしれませんが、昔はそのままの意味だったと想像いたします。この村は山と海に挟まれた孤立した場所にありますゆえ、村全体で御利益を賜っておったのでしょう」

「でも、それだと、おひぃ様の産んだ子が、村の誰の子かって分からなくないっすか?」


「はははっ」住職は恰幅のいい身体を揺らして「誰の子供かなど、分からない方がいいではないですか」と、嗤った。


「おひぃ様が女の子を産むときは、特徴的な痣の娘が産まれ、代々おひぃ様を受け継ぐ蛭子家えびこけの子として育てられる。反対に男の子をお産みになったときは、氏子が持ちまわりで里子として引き取ると、あの老婆も言っておったじゃないですか。

 つまり、村全体が卑忌様を祀ることで運命共同体となり、大きなひとつの家族となるわけですよ。里子に出された男の子もいずれ氏子詣に出向くかもしれない。御利益のおかげで、お金に困ることはないから、村人は皆仲良く、争いがない、大変平和な村だったのではないでしょうか」

「……そういう、もんなんすか?」

「そういうもんでしょうなぁ。ニュースで流れてくる犯罪の殆どは金がらみではないですか。貧しさは罪を産む。人をも殺す。ね、そうは思いませんか?」


「——とはいえ」住職はグラスを手に取ると麦茶を飲み、どこか遠い目をして話を続けた。


「この村の村人全員が運命共同体でいられた時代は、近代に入って変化したんでしょうなぁ。海沿いの道が整備され、孤立した村ではいられなくなった。外に出ていく者もおったでしょう。もしかしたら、おひぃ様の産んだ男の子も、外へ出ていくことがあったかもしれない。ですからして、蛭子町以外にも、日本全国探せば、おひぃ様の遺伝子を引き継ぐ子供がいるかもしれない。いや、いると考えた方が普通でしょう」


「だから、なのですよ」住職はグラスをテーブルに置き、力強く頷いた。「だからだと、思うわ」夢子さんも得意げに口角をあげる。


「だから、ここから外に出ていった卑忌様の氏子たちは、変わらぬ富を得る代わりに、年に一度の氏神詣に来るのはもちろんのこと、卑忌様に纏わる恐ろしい話を、子孫に怪談話として聴かせたのでしょう。

 聖書や仏教の教本に悪魔や地獄が書かれているように、恐ろしいわざわいが起こることを伝えた。卑忌様への畏怖の念を植え付けたのでしょう。

 そして氏子同士で見張っておるのですよ。氏子詣をさぼるもの、卑忌様の器となるおひぃ様の秘密を話すもの、氏子から抜けようとするもの、邪魔なものたちに蟲を放つよう卑忌様に祈願し、その財福を奪うなどしてさらに富を手に入れているのだと思いますなぁ。

 残念なことにマサル君は、怪談話に共通して出てくるホトを模した祠や、黒い粘液にまみれた不審死、かつては栄え、没落した家々での怪奇現象などを調べるにとどまり、ここまでは辿り着けなかった。

 そのうち、秘密を嗅ぎまわる邪魔者として、誰かが祈願した悪人駆除によって蟲に喰われたのでしょう。

 犬山先生は卑忌様の秘密を知り、氏子となって、富と名声を手に入れた。そう考えると、辻褄がピタリとあうのです。犬山先生は大変資産を持っておられましたから」


「う……」洸太君は掠れた声を漏らし、私の手をテーブルの下で握った。ぐっ、大きな手が私の手に圧をかける。私もその手を握り返した。


 ——きっと、洸太君も今の話を聞いて酷い話だと思ったはず。私は聞きながらずっと思っていた。氏子の富のために、卑忌様を守る生き神様のおひぃ様は、好きでもない人と、それも一晩に複数人と夜伽を行い、孕めば子を産み、時には産まれた子を手放すこともあるなんて。


 洸太君が決意を込めるように息を吸うのが分かった。


「氏子になることができるんですか……?」


「は?」洸太君の質問に耳を疑った。顔を見上げる。洸太君の目は真剣そのもので、自然と首が傾く。この人はどういうつもりで「氏子になることができるんですか?」と訊いたのだろうか。洸太君は今までの話を聞いて、恐ろしくて酷い話だとは思わなかったのだろうか。あの、古い映像の中の老婆のように、蟲に喰われるような禍を起こす卑忌様の氏子になりたいと、本気でそんなことを——。


 ぶっぶぶぶぶぶっぶぶぶっ

 蟲が飛びまわる妄想が蘇り、握られていた手を思わず振り払った。


「え……?」洸太君が驚いた顔で私を見る。私は小さく首を振った。腰をずらし、洸太君の胸に密着していた背中を剥がす。テーブルの向いから「はははははっ」住職の愉快に笑う声がした。


「いやはや。まさかまさか。逸材だとは思いましたが、そうくるとは思いませんでしたなぁ」住職は剥げた頭をつるりと撫でた。夢子さんが「いいじゃんそういうのっ」と、洸太君をビシッと人差し指でさして笑っている。


「犬山先生は氏子の家に婿入りしたみたいだけど、そんなのアタシ達は嫌だからさぁ」夢子さんが住職の腕に絡みつく。「だから、美蝶子ちゃんの親になったんだよねー」夢子さんが住職の顔を見て、もう一度「ねー」と、嬉しそうに首を傾げる。その様子に胃がせり上がり、吐き気を覚えた。その変ないちゃつきっぷりも、心底、気持ち悪い。それに親になったとはどういう意味——。

 

「ミチコちゃんとは親子だったんですねー」


「え?」唖然として洸太君の顔を見る。「でも、どうやってすか?」洸太君は世間話かなんかのように普通に質問をしている。夢子さんは「ふふふふっ」と、ツインテールの髪先を指でくるくる弄び、その質問に「実はねー」と答えた。


「あの子は正真正銘おひぃ様が産んだ蛭子家の女の子なんだよね。もちろん、お腹に黒い蝶のような痣がついてるよ。ここ数日一緒に暮らして、あの子から聞いた話をかいつまむと、本来蛭子家の女の子は戸籍登録されることもなく、限られた人とだけ接し、屋敷から出ることもなく、おひぃ様になるためだけに生きる運命なんだって。でも、あの子、どっかでそうじゃない世界を知ってしまったのよねぇ」

「誰かが入れ知恵をして、こっそりスマホも買ってあげたそうですよ。当面の逃走資金も渡して、宿命から逃してあげようとしたんでしょうねぇ」


 住職は腕を組み、妙に落ち着いて「いい人もいるもんですなぁ」と頷いた。


「でもそうはいかないのが、運命なのよねぇ」夢子さんは頬杖をつき、「はぁ」と場違いな甘いため息を吐く。「いや、夢ちゃん」住職が夢子さんの細い肩に手を置いて、「そこは宿命と言った方がいいのではないでしょうか」と諭すような声で言った。


「宿命ぃ?」夢子さんが頬杖をやめる。両手で柏手を打つようにパチンと音を立て「確かにぃ」と顔を輝かせる。


「今日の氏子詣のために、ここに戻ってくる宿命だったのよ! だってね、家出してやってきた大都会東京で、たまたま目についたアルバイト募集の看板が『怪談居酒屋響』って。あははははっ。もう、これは運命、ん?」

「宿命ですなぁ」

「ふふふっ。宿命宿命。ねぇ、そうとしか考えられないでしょう?」


 夢子さんは韓流アイドルのような鼻に皺を寄せて、「きゃはっ」と肩を竦めて小悪魔的に微笑んだ。


「あの子を連れて行けば、きっと氏子の仲間入りができる。逃げ出した子を保護して、連れ戻してあげたんだもん。感謝されるに決まってるっ」

「氏子の先輩方に感謝されることは大事なことです。犬山先生のように、一時期は栄えても、家中に清めの砂を敷き詰めて、いつくるか分からない蟲に怯えて余生を過ごすなんてことはしたくはないですからねぇ」

「今時、どこでも仕事ができる時代だしねー」


 頭がついて行けない。この人達と私は思考回路が違いすぎる。苦手なタイプを通り越して、理解不能、宇宙人だ。


 この場にいたくないと立ち上がり、一歩後ずさった。刹那、背後でカタ、と音がした。振り返ると引き戸にスッと隙間ができ、白い指が伸びてくるのが見えた。ミチコちゃんが戻ってきた。そう思って身構える。でも、引き戸を開けて入ってきたのは、あの、ぼさぼさ頭の幽霊みたいな社長さんだった。


「時間です。それと、逃げ出そうとしていたので——」社長さんは両方の手首を胸の前で合わせた。


 ——と、何かが気になったのか、「おや?」社長さんが長い前髪の中から顔を覗かせる。私と洸太君を交互に何度か見て、首を捻った。


「お二人ともずっとこちらに? おかしいな。さっき車が一台走っていったので、お二人のうち、どちらかなのかと——」


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