最終章

「いない……、どこにも、いない……」


 足の力が抜けていく。へなへなと和室の床に膝が吸い込まれていく。座り込み、ミチルちゃんが寝ていた子供布団に手を置くと、まだ温かかった。布団の綿はミチルちゃんの体温を蓄え、さっきまでここにいたことを証明している。なのに、家中の明かりをつけ、どこをどれだけ探しても、ミチルちゃんはいない。


「どうしよう……」手で顔を覆った。「どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようぉ……っ」肺中の空気を手の中に吐き出した。


 ——どうしてミチルちゃんをほったらかしにしてしまったんだろう。どうして和室の襖を開けておかなかったんだろう。ほんの少しでも開けておけば、異変に気づけたのに……。


 取り返しがつかないことをしてしまったと思った。配信動画のように、しゅるしゅると時間が巻き戻ればいいと思った。ミチルちゃんを挟んで洸太君と三人で寝転び、絵本を読み聞かせていたあの時間まで、戻ってやり直したいと思った。


 でも、もう、遅い。

 ミチルちゃんは、いない。

 誰かが車でやってきて、ミチルちゃんをさらった。

 そうとしか、考えられない。


「紗千香さん、ちょっといっすか?」洸太君の声がして振り返った。ダイニング側の和室の入り口、洸太君が神妙な面持ちで立っている。玄関の方から「五分だけだよぉーっ」と夢子さんの少し苛立った声が聞こえた。


「話したいことがあるって。それと、実は俺も思うことがあって」


「さっ、入って」洸太君が言い、ミチコちゃんが襖の向こうから身体を半分覗かせた。「時間ないから」洸太君が言うとミチコちゃんはコクンと頷き、和室の中に入ってきた。自然と目が手首の方に行ってしまう。でも、長袖のシャツに隠れていて、手首の痣は見えなかった。


 洸太君が襖を閉め、「ミチルちゃんの居場所に心当たりがあるって——」小声で話し始めたけど、続きを聞くより先に「本当っ!?」と腰が浮いた。「どっ、どこにっ……」立ち上がろうとして足がもつれ、転びかけたところを洸太君に支えられる。


「落ち着いて、紗千香さん」

「だって、ミチルちゃんが、ミチルちゃんが……」


 泣きそうになって奥歯を噛み締める。ミチルちゃんの居場所。それが分かるならばすぐにでも迎えに行きたい。


「多分……」ミチコちゃんが言う。でも声が小さくて聞き取れない。歩みより、耳を澄ます。


「お堂に……いると……思う」

「おどう……?」


 ミチコちゃんが頷き、洸太君が「あの岩戸トンネルの半島にあるんすよ」と、補足する。


「半島?」

「ほら、あのトンネルのとこの崖っす。俺と紗千香さんが人が落ちたのを見た崖っすよ」


「あぁ……」岩戸トンネルの先、海に迫り出している半島のことだ。


「あのトンネル、中で二手に分かれてたじゃないっすか。その、真っ暗だった方のトンネルの先ですね。ほら、あのお巡りさんが私有地だって言ってたとこっすよ」


「あ……」お巡りさんの顔が浮かぶ。にぃっと笑った時に見えた金歯を思い出し、嫌悪感が蘇り眉間に皺を寄せた。


「そこにお堂があるそうなんすよね。てか、そういえば俺も、ダイビングスポットに向かう時、船の上からそんな感じの屋根見てるんすよ」

「屋根……?」


「見た方が早いっすよね」と、洸太君がスマホを取り出して、船の上で福山さんと一緒に写っている画像を私に見せる。『居酒屋さっちゃん』で見せてくれた写真だ。「ここ、拡大すると」洸太君が写真をズームアップしていく。黒いウエットスーツを着た洸太君と福山さんの後ろ、海に浮かぶ半島が拡大されていく。


「ぼやけてるし、この写真くらいしか写ってるのないから分かりにくいんすけど」

「ううん、分かるよ……」


 陸地からでは見えなかった。でも、海の上から撮影した写真だと、半島の真ん中辺りは鬱蒼と茂る木々が少なく、明らかに屋根だと分かるものの一部が写っている。


「でも、ここになんでミチルちゃんが?」スマホから視線をあげる。ミチコちゃんは俯き加減の顔をあげ、私の目を見つめて「いもうと」と短く答えた。


「いっ……いもうとっ?!」


「しぃーっ!」洸太君が自分の唇に指を当てる。反射的に「ごめんっ」と手で口を塞いだ。


「でも、妹って……」ミチルちゃんは福山さんの一人娘で、東京から引っ越してきたと言っていた。でも今は逡巡する時間はない。一息吐いてから、「妹って意味で言ってるの?」と、今度は声を潜めて訊き返した。「たぶん……」言った後で、ミチコちゃんは下を向く。


「社長さんがミチルちゃんの写真見せてくれたら、車運転しながら気にして見とくって言ってくれたんで、それでさっき外でみんなに見せたんすよ。そしたら、ミチコちゃんが話がしたいってことになって」

「……ミチコちゃんも見たの?」

「さっき、写真見た……。着てる服、蜘蛛の巣の模様してる……」


「これのことっすよね?」洸太君がスマホをタップして、画像を呼び出す。ハンバーグを作った後で撮影した写真が現れて、「これじゃないな」と画面を何回かスワイプする。「これっすね」と指を止めたのは、お布団を敷き、絵本を読む前に撮った写真で、赤い甚兵衛服を着たミチルちゃんが、絵本を持ち上げて嬉しそうに笑っている写真だった。


「……え?」声が喉で詰まった。「この、赤い服のこと……?」ミチコちゃんの顔を見る。「この、服の模様のことを言ってるの?」もう一度訊くと、ミチコちゃんが顔をあげ、目が合った。


 刹那。

 あ——、と、思った。

 いまのいままで、ちゃんとミチコちゃんの顔を見ていなかったと思った。


「ごめん」勝手に口が動く。鼻の奥までツンとして、電気ショックのような痛みが顔中に広がり目頭が熱くなった。ミチコちゃんは、目の周りが泣き腫らしたように赤い、地雷系メイクなんてしていない。私が勝手にそう思い込んでいただけだ。本当に泣き腫らした顔をしていただけだ。ミチコちゃんの赤く充血した瞳には、溢れんばかりの涙が溜まり、長い睫毛が濡れている。ミチコちゃんはごしごしっと、長袖の服で目を擦り、「たすけて……」と小さく呟いた。


「ねぇー、まだぁ〜?」玄関の方から夢子さんの声がした。「もう終わるっすーっ!」洸太君が首を伸ばしてすぐに答えた。ミチコちゃんはきゅっと唇を噛みしめ、意を決したように息を吸う。


「この模様、蜘蛛の巣の模様は私たちの蟲避けなの……」


 喉を絞った、声を殺した声だった。でも早口で、はっきりと聞き取れる強い声だった。ミチコちゃんは息を吸い、「名前も同じ」と続ける。


「ミチルは、美しい蝶が留まるって書いて、美蝶留みちる。私は美しい蝶の子って書いて美蝶子みちこ。お母さんがつけてくれた。お母さんはもう歳だから、赤ちゃん産めないから、だから、本当のおひぃ様になっちゃう前に、赤ちゃんの美蝶留を連れて逃げ出した。私の時と同じ、助けてくれる人がいて……それで……、東京なら人が多いから大丈夫だって……。なのに、なんで……戻ってきちゃったんだろう……もしも、いなくなったのが、私の代わりだったらどうしよう……。まだ小さいのにっ……」


「ぅう……」美蝶子ちゃんの瞳から涙が堰を切ったように溢れ出した。涙は頬を伝いぽたぽたと畳に染み込んでいく。


「ねぇ〜っ! はやくぅ〜っ!」夢子さんの声がまた聞こえた。美蝶子ちゃんは服でごしごしと涙を拭う。暗号文でも読み上げるように「トンネル入り口地下道。私そこから逃げた。だからそこから行って」早口で一気に言い終える。


「もぉ〜っ! 間に合わないよぉ〜っ!」


 家の中に入る音が聞こえた。ダイニングに入らなくても、廊下から和室には入ることができる。玄関から和室はすぐだ。


「お願い」美蝶子ちゃんが私の腕を掴む。


「お母さんの子供は私と妹だけ。もう終わりにしたい。だからあの人たちに全部燃やして欲しいって頼んだ。そしたらいいよって。一緒に行くなら、いいよって、言ってくれたから、今日ここに戻ってきた……」


 ガタガタ、音がして襖を見た。洸太君は廊下側の襖を内側から押さえていた。ガタガタ、襖が激しく揺れる。「あれ?」ガタガタタ、夢子さんが襖を揺らす。洸太君も襖をわざとらしくガタガタ揺らし、「あれぇ?」と間抜けな声を出した。


「おかしいっすねー。あっ、なんか引っかかってるっす。ちょっと待ってくださいねー」


 洸太君はこっちを見て、「はやく」と口ぱくしている。「もう無理」と言っている。洸太君に「分かった」と頷き、美蝶子ちゃんに向き直る。


「美蝶子ちゃんは、どうするの?」

「あの人達と行くしかない……」

「あの人たちと一緒にいて大丈夫? だって、その手首の……」


 美蝶子ちゃんは私の腕から手を離し、自分の手首を掴んだ。髪を揺らして首を振る。下を向いた美蝶子ちゃんは「違う、これはお——」と、そこで言葉を止める。


 ——あぁ……、そうだったのか……。


 何を言おうとしたのか理解した途端、涙が溢れてきそうだった。でも、私が泣くのはおかしい気がして一生懸命踏みとどまった。想像するだけで悍しい。それに、想像してはいけない。絶対に。


「行かなきゃ……」美蝶子ちゃんは顔をあげ、ガタガタ鳴ってる襖を見た。私も洸太君を見た。洸太君と視線が交わる。無言で頷きあった瞬間、洸太君が襖から手を離した。


 スゥー、ばたんっ! 


 襖は、勢いよく開いた。


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