早足で歩きながら住宅街を通り過ぎる。どの家もどの家も窓は雨戸が閉められていて、家の中が窺えない。まるで蛭子町全体がどこかに避難しているみたいに、ひっそりとしている。今の今まで、誰一人としてすれ違う人はいなかった。


 町中の街灯は電気が落ちている。空を見上げても星はなく、雲間から漏れるであろう月明かりの片鱗さえも窺えない。時折湿った潮風がうなじの後毛に触れ、その度に髪を結び直したいと思ってはやめている。


 爪が食い込むほど握りしめた肩掛けポーチ。命綱のように肩紐を握る左手と、鞄の上からお守りの膨らみを握っている右手は、汗ばんできている。


 岩戸トンネルの入り口まではあとどれくらいかかるのだろう。本当に進むべき道はこの道であっているのだろうか。足を進めるほどに不安が膨れ上がり、隣で歩く洸太君の手を握りたいと何度も思った。でも、私の中の何かがそれを押し留める。


 洸太君は手に小型のビデオカメラを持っている。福山さん宅を出てから、ずっとカメラで撮影している。蛭子町中の明かりという明かりが消された漆黒の闇の中、録画を知らせる小さな赤いライトだけが蛍のように空中を彷徨っている。


 福山さんの家を出るときにした会話を思い出す。


 ——どうしてカメラで撮影するの?

 ——防犯のためっすよ。

 ——防犯?

 ——そっす。襲われたりした時に証拠になるじゃないっすか。


 防犯のためのビデオ撮影。あの時はそれで納得したけれど、本当にビデオ撮影は必要なのだろうか。それに洸太君は白では目立つからと黒いティーシャツに着替え、私の洋服を見て「ギリセーフっすね」と言った。車ではエンジン音が煩いから徒歩でトンネルに向かうとも言った。あの瞬間は「確かに」と思ったけど、何もかも、準備が整いすぎているように思える。


 ——考えすぎかもしれない。


 闇の中、二人とも無言で歩いている。靴音だけを響かせているこの状況だから、色々と不安に思うだけかもしれない。事実、車でこの町中を走るのはエンジン音が目立つ。白いティーシャツも目立つかもしれない。


 でもそれなら、夢子さんたちはどこまで車で向かったのだろうか。三日月型の蛭子町。私たちとは反対の方向に走っていった。


「もうすぐっすよ」小さな赤い光が闇を舞い、洸太君の顔を微かに照らす。


「あそこの角を曲がれば後は海岸線沿いの道っす」


 海岸線の道と聞き、自然と鼻の粘膜が汐の匂いを嗅ぎ分けた。今にも雨が降り出しそうな湿った空気。生温い風に混じり、海藻が腐ったような匂いが微かにする。波の音が耳の中にも入り始めた。


 海は嫌いだ、と手に力を込めた。特に、夜の海は。視覚情報が遮断されるほどの暗闇は、聴力を増幅させる力があるのか、波の音が次第に大きく聞こえ始める。私の中で夜の海はバケモノだ。ぬらぬらと身体をくねらせる黒いバケモノは、息継ぐことなく喋り続ける。果てしなくどこまでも広がる身体を揺らし、威圧的な波音で喋り続ける。


 ぴっ、突然小さな音がして、立ち止まる。「ここまでは大丈夫でしたね」洸太君の囁き声と影の動きで、どうやらビデオカメラの録画をやめたのだと気づく。


「こっからは海沿いだし、もう話しても大丈夫っすよね」


「ほい」と手を差し出されて一瞬躊躇した。「海嫌いなんすよね?」と言われ、顎をひく。「俺がいるから大丈夫っすよ」優しい声がして、お守りを握っていた手の力を緩めた。


「海、嫌いなの覚えてたんだ」

「当然っす。好きなんだから」


 一瞬呼吸が止まった。すぐに、変に勘ぐってごめん、と思った。洸太君はいつもと何も変わらない。私がいろいろ不安になって、神経が過敏になってるだけだ。手を伸ばし、洸太君の手に触れる。大きくて所々皮が分厚く硬くなっていて、温かい手。洸太君と手を握るのは今日何度目だろう、と思った。


「腕組んで歩いて行ってもいいんすけどね」暗闇の中、洸太君は照れ臭そうに笑った気がした。「海岸線沿いは町中と違って目立ちそうだし」確かにそうだと思った。海沿いの道は見晴らしがいい。腕を組み、一つの塊になった影の方が目立たないと思った。


「じゃあ……」迷ってる時間はもったいない気がした。こうしている間にもミチルちゃんが危険な目に遭っているかもしれない。先を急がねばと思ったのと、洸太君の腕に自分の腕を絡ませるのは同時だった。


「行きますか」

「うん……」


 海岸線の舗装された道路。車は一台も走っていない。街灯も消され、真っ暗だ。海は漆黒の闇に溶け込み、波飛沫が時折黒々としたグラデーションを生み出している。


 早足で歩きながら「俺、先週——」洸太君が話し始める。腕を組んで歩くのは正解だと思った。耳元で声が聞こえるから、波音に邪魔されない。


「福山さんの家にお世話になってたじゃないっすか」

「うん……」

「で、ちょっとおかしいなって思うことあったんすよね。それはもしかして俺に子供がいないからかもしれないって思って、気にしないようにしてたんすけど……」


 洸太君はそこで一旦話すのをやめた。ふっと顔をあげた反動で急ぎ足が縺れそうになって、視線を足元に戻す。


「さっきの話を聞いてて、なんとなく理解したっつーか」


「りかっ……いっ?」語気が乱れる。「もう少しゆっくり歩きますか?」と訊かれて首を振る。こんなくらいの早足、都会ではなんてことない。そう思ってはみたけれど、仕事を辞めて家でダラダラしていた間に足の筋力は確実に落ちていた。それでも急がなくてはいけないという気持ちが脹脛に鞭を打つ。


「福山さんたまにあの『夕なぎ』にミチルちゃん連れてくんすけどね」


 それは知っている。福山さん親子に会ったのは、公衆浴場『夕なぎ』の駐車場だった。


「男湯に入るんすよね」


「えっ……?」荒い吐息混じりの声が漏れる。


「小さい子供だし一人で女湯はダメなんだろうなぁ、仕方ないんだろうなぁって思ってたんすけど、さっきの美蝶子ちゃんの話聞いて、もしかしてって思い当たることあって」

「思い、当たること……っ?」

「福山さんミチルちゃんの身体、隠したりしないんすよね。むしろ見せびらかすっつーか」


「見せ、びらかす……っ?」語気に嫌悪感が混じる。そんなことは絶対にあり得ない。


「もちろん俺は見ないようにしてましたよ。なんつーか、そういうのってダメっしょ」

「だ、ダメだよ……っ」

「ですよねー。でも、父子家庭だし、そういうとこ行くときは仕方ないのかなって思ったりして」


「行かなきゃいいだけじゃんっ」一気に吐き捨てる。すぐに息を吸い込んで「家にあんな立派なお風呂あるんだしっ」また吐き捨てた。吐き捨てるたび、嫌悪感が肺に溜まっていく。


「ですよねー。俺もそう思ったんすけど。ミチルちゃんは無邪気っつーか、お腹の痣をじゃじゃーんってお年寄りに見せたりしてて」


 ミチルちゃんの様子が目に浮かぶ気がした。ミチルちゃんならやりかねない気がした。でも、人見知りなミチルちゃんが果たしてそんなことをするだろうかと疑問も湧く。


「変っすよね? それって」

「変だよ……っ! あり得ないよっ!」

「ですよね、やっぱり。でも男湯でみんなミチルちゃんのことすごく可愛がってるから、そういうもんなのかなって思ったんすよね」


 ——可愛いがる?


「で、さっきの話聞いて、俺、思い出したんすよね」

「なにを……?」

「脱衣場で着替えてる時、俺、聞いたんすよ。福山さんがお爺さんにって言ってて」

「いずれは……?」

「それって、いずれはミチルちゃんをってことなんじゃないかって、さっきの話聞いて思って。だって、その時のお爺さんなんて言ったと思います? その頃はもうワシじゃないからなぁ、残念だって言ったんすよ?」


「残念……って……」厭な妄想が沸き始め唇を噛み締めた。


「産まれる子供の数はどんどん減る一方だし、存続のためにも貴重だからありがたいって。俺、そん時はこの町の少子高齢化的な、そんな話してるのかって思ってたんすけどね。でもきっと、それって、おひぃ様の後継者の話なんじゃないかって、さっき歩きながらずっと考えてたんすよ。入道さんも言ってましたよね。おひぃ様の遺伝子を持つ子はきっとこの町以外にもいるって。てことは、この町の中にも、もちろんいるわけじゃないっすか」


 握っているポーチの肩紐から手を離し、お腹の痣に手を当てた。この痣も、その遺伝子なのだろうかと疑念が湧く。でも——、と考え始め打ち消した。今はそれどころじゃない。


「でもですよ? 氏子詣でなにが行われるのか知ってる人は、痣がある子供が産まれても隠したいと思いませんか? 美蝶子ちゃんが言うように、今、おひぃ様の子供が美蝶子ちゃんとミチルちゃんだけで、それ以上産まれなかったとしたら、いずれ、どっかから遺伝子を持つ子供を探してこなくちゃいけないわけだし。だとしたら、痣のある子供は生贄みたいなもんじゃないっすか」


 ——生贄……。


 思わずお腹に当てた手でシャツを握った。生贄なんて、何時代の話だと思った。


「そう考えると、入道さんたちが言ってた、美蝶子ちゃんを連れ戻してきたから氏子になれるって話は案外いける気がするっつーか、福山さんも同じ考えなのかなって。うちの子には蝶のような痣があるから、だからいずれは、ってのは、そういう意味だったんじゃないかって思うんすよね。男湯でそれを見せつけてたのは、氏子の仲間入りをするためというか」


 ——だから、幼い我が子の裸を見せびらかしていたと?


「美蝶子ちゃんが言ってた、ミチルちゃんが妹の美蝶留ちゃんなんだって話は、今は確かめようがないから、頭から一旦退けておいたとしても、貴重な後継者候補を——」


 するすると洸太君の腕から自分の腕が抜け落ちて、足が止まった。


「紗千香さん?」

「うん」反射的に声が出た。


 洸太君の推察が正しければ、福山さんはいいお父さんなんかではない。最低のクズ野郎だと怒りが込み上げる。富を与える氏神様、卑忌様の氏子になるために、ミチルちゃんの幼い身体を見せびらかすなんて許せない。そもそも、美蝶子ちゃんの話が本当ならば、ミチルちゃんは福山さんの子供ですらない。


 お風呂で聞いた話を思い出す。


 ——うんっ! おばぁちゃんがいってたの。そっからにげてきたんだよって。


 美蝶子ちゃんの話が本当ならば、おばぁちゃんはきっと、歳を取り過ぎて赤ちゃんを産めなくなったお母さんなのではないか。


 ——パパいってたもん。ちょうちょはいいかみさまでおばぁちゃんはうそつきなんだって。


 嘘つきなのは、おばぁちゃんじゃなく、パパだったのではないか。


 福山さんの顔が浮かぶ。都会的な洗練された髪型、フレームの細い丸眼鏡の奥で微笑む目と笑い皺。いいお父さんだと思っていた福山さんの顔が、大嫌いな叔父さんの顔にすげ変わっていく。すぐキレて、自分の嫁と子供を平気で殴ったり蹴ったりする男。高級外車を乗り回し、品の悪い金のネックレスをジャラジャラ揺らして威張り散らかすあの男。最低最悪、今すぐ死んでくれと思うほどの嫌悪感が一瞬にして噴き上がる。


「許せない」地獄の底から響いてきたような、驚くほど低い声が自分の口から出ていた。


 数歩先の暗闇で洸太君が動く気配がした。「あ……み……」何か言ったようだけれど、波の音がかき消していく。湧き上がってくる怒りを胸の中でぶちまけながら足を踏み出した。


 ——許せない。許せない許せない許せない。


 何度も心の中で言いながら足早に洸太君に近づく。すぐ目の前で、暗闇の中、小さな赤い光がパッと点灯した。洸太君はビデオの録画ボタンを押し、海の方を撮影している。


「あれって、船っすよね?」


 隣に立ち、あれと指さす方に視線を向ける。海なのか空なのか、その境目が分からないほど黒一色で塗りつぶされた世界。その中ほどに、オレンジ色の小さな明かりが見える。あれは、漁火だと思った瞬間、幼い頃、『浜なみ』の展望風呂でお姉ちゃんに言われた言葉がフラッシュバックした。


 ——松明の火をつけた船があってね。あのね……、それは、幽霊船なんだって。


 

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