3
公園の前を通り過ぎ、『夕なぎ』の前に差し掛かったところで洸太君の足が止まる。「あれって——」と肩を叩かれ、洸太君が指差す闇を見た。岩戸トンネルのある断崖絶壁の半島。その真ん中辺りの空だけがぼんやりと朱色に光っている。
「多分、あそこっすね。位置的にも」
「うん……」
目を凝らして見える、普段なら気づかないほどの光だと思った。暗闇に慣れすぎた目だから見える光だと思った。紅蓮色の光は重たく広がる雲に赤黒い陰影を作り出している。雲間に太陽が差し込んでできるのが天使の
トンネルの向こうとこちらは同じ世界じゃない。誰一人出歩かない夜の町。なにか起きたとしても、通報する人は多分いない。それこそ、町中が焼け野原になるほどの火災でも起きない限り。
闇に視線を這わせ、オレンジ色を探す。松明を燃やし炎を揺らす船はまだ海の上を進んでいた。あれはお姉ちゃんが私を脅かした幽霊船なんかじゃない。人が乗っている船。それも多分漁船だ。スピードが思った以上に速い。
船は確実にトンネルのある断崖絶壁の半島へと近づいている。蛭子町を三日月に例えるならば、今は真ん中辺り。弓に張った糸の上を走っていると思えば、距離的にも、もうあまり時間がない気がした。
「急ごう」半島にレンズを向け、撮影している洸太君に声をかける。「そっすね」洸太君が録画ボタンを押して撮影をやめる。
「もう少しですし」
「うん」
歩きながら、どうか、誰にも会いませんようにと祈る。ここまでは大丈夫だった。でも、さすがにトンネルの中は、誰か見張りがいるかもしれない。
「トンネル入り口地下道」
美蝶子ちゃんの言葉を反芻する。トンネルを入って、右へ行く。そのどこかに地下道への入り口があるはず。突き当たりまで行くのだろうか。それともその途中にあるのだろうか。情報は「トンネルの入り口地下道」しかない。もっと詳しく聞けばよかったと、今更ながら後悔する。
見つかるだろうか。きっとその地下道の入り口は、誰にでも分かるような入り口じゃない気がする。不安が胸に押し寄せる。走り出したい衝動に駆られて足が自然と速くなる。
「トンネル入り口地下道、トンネル入り口、地下道」
口ずさみながら歩いていると、隣で歩く洸太君が「どの入り口なんすかね?」と質問を投げてきた。
「分からない。あの、分岐しているトンネルの入り口なのか、それともそのトンネルを進んだ先にある入り口なのか。洸太君はどう思う?」
「そっすね。俺、ずっとどこの入り口なんだろうって考えてたんすけど」
私たちはもう腕は組んではない。手も繋いでいない。速く歩くにはその方がいいと思った。それに、今はもう煩い波の音に会話を邪魔されることもない。『夕なぎ』を通り過ぎ、海は少しだけ遠のいた。だからもう、岩戸トンネルは目の前のはずだ。でも、トンネルの中も電気が消えている。トンネルの近くまで来たことは分かるけれど、どこからがトンネルなのか、ここからでは分からない。
「逃げ出した地下道って言ってたなら、俺が思うに——」
洸太君が話をやめ、足を止める。私も足を止めた。「しっ」洸太君が小さく言い、息を潜める。
「今、笑い声が聞こえなかったすか?」
「笑い声……?」
耳を澄ます。笑い声は聞こえない。小さくなった波の音と自分の心臓の鼓動が耳の奥で聞こえるだけだ。
「あっ」洸太君が小さく声を出す。
「あそこ、白っぽい光がチカって光った気がするっす」
「どこ……?」洸太君の指差す方に眉根を寄せて、目を凝らす。
「ほら、今もまた……」
「本当だ……」
闇の中、確かにうすぼんやりとした光があった。本当に微かな光だ。ぼんやりと、ぼんやりとした光。揺れ動く青白い光は宙に浮いているように見える。次の瞬間、「ひっ」と声が出て手で口を覆っていた。青白い光は、人間の顔をしているように見える。見えるじゃない。人間の顔をした青白い光が二つ、闇の中に浮かんでいる。
「げへへっ」「ぐへへっ」へしゃげたカエルのような、気味の悪い笑い声も聞こえた。お風呂の中で話すような、反響しているような粘り気を帯びた笑い声で全身が一気に粟立っていく。思わず洸太君の腕を掴んだ。
「反響して聞こえるってことは、きっとあそこはトンネルの中なんでしょうね」
現実的な言葉に少しだけほっとする。確かに、トンネルの中と思えばあの地鳴りのような反響音も納得できる。
「あれはスマホの光っすね。声からして男が二人、トンネルの中で見張り役ってとこっすか」
「スマホかぁ……」肺中の空気を吐き出す。
「なんだと思ったんすか?」
「えっと……」
「幽霊はあんな下品な笑い方しないっすよ」
確かに。今、「マジで超ヤベェ」と大きな声も聞こえた。洸太君の腕を掴んでいた力を緩める。
「てことは、あの辺りはもうトンネルの中。きっとあっちからこっちは見えないっすね。近づきますか……」
「えっ……」
「あそこ通らなきゃいけないっすよ」
「うん……」
「大丈夫、俺がついてるっすよ」それは不安を取り除く効力としては如何程か。でも、一人じゃないと思えた。頷き、足音に気をつけて歩を進める。
トンネルの入り口だと分かるところまで進み、耳を澄ます。間延びした二人の会話が良く聞こえる。スマホだけじゃなく、小さな懐中電灯のようなものも持っているのか、時々光が暗いトンネルの中を走っていく。
「ちょまっ、やめろって」低くて酒焼けしたような男の声。懐中電灯の明かりがその声の主を一瞬照らした。全身を覆う黒いマントのような服を着ている。
「だから顔だけ浮いてるように見えたんすね」洸太君も同じものを見たらしい。
「てかさー」鼻にかかるような男の声。もう一人の声だ。「これマジで暑くて脱ぎたくないっすか?」鼻にかかる声が言う。「そろそろ三十分経つし、いいかもな」低い声がそれに答える。
「俺たちで見張りの当番は最後だし、もう誰もここは通らねぇしな」低い声がいい、ライトの光がトンネル内を縦横無尽に照らした。ごそごそと擦れるような音がトンネル内から聞こえてくる。
「あちぃーっ! 汗でぐっしょりだわ」低くて掠れた声がトンネル内にわんわん響き、「脱いでも全然涼しくねぇっすね」と鼻にかかった声も響いた。どうやら黒いマントは脱ぎ捨てたらしく、足元に黒い塊が落ちている。
二人はスマホを見ながら話をしている。低くて掠れた声の方は頭の薄くなった太った男性で、もう片方はひょろっとした色黒の男性だった。太った男性の方が先輩なのか、タバコを口に咥え、細い男性がそれに火をつけるような仕草をした。
ピン、かちゃ、ピン、かちゃ、金属音が何度か鳴り響き、ピンーッ、シュぽっ、炎が見えた。
「いいライター使ってんなー。デュポンっすかね」洸太君が耳元で囁く。「デュポン?」思わず訊き返した。「成功者の証、男のステータスシンボルって言われてる十万以上する高級ライターっすよ」「十万……」私の呟きを男たちの下品な笑い声が上書きしていく。
「ぶへへっ。オメェよぉ、さっきのやつの方がエロいわ。あれもっかい見せろよ」
「いっすけど、ここ暑くねぇっすか? どうせ朝まで誰も来ないなら家帰ってもバレないっしょ。俺の部屋離れだし家なら大画面で——」
「馬鹿野郎っ!」太った男性の怒鳴り声が響き、一瞬で身体が凍りつく。ひょろ長い男性も驚いたのか、口をあんぐり開けた間抜けな顔が暗闇に浮かび上がっている。まだ怒鳴り声の反響はトンネル内に残っている。あんなふざけた態度の男性まで真剣に怒る見張り当番。頭の中で、どうやったらトンネルに潜り込めるのかと、考えてしまう。
「ぶっぐっへへっ」背筋がぞわぞわと撫でられるような気味悪い声がトンネルにこだまする。
「オメェ、ビビってんのか? バァーカッ、冗談だよ」
「なんすかもぉ。マジもんでビビるじゃないっすかぁ」
「オメェんちって
太った男性がタバコの煙を吐き出しながらこっちに向かって歩き始める。すぐにひょろ長がその横に「歩いてすぐっすよ」と並んだ。ひょろ長はスマホを見せながら「で、さっきの子は三万っすねー」とニヤニヤしながら言っている。なんの話か、想像したくもなかった。
話しながら二人はどんどんこちらに向かって歩いてくる。
「つーかっ、この子先輩の嫁に似てないっすか?」
「あぁん? 全然似てねぇよ。あいつ化粧とったら子豚だって言っただろ?」
太った禿頭の男がタバコを投げ捨てたのか、赤い火花が宙に舞った。燃えたままの吸殻は何処かに落ちてすぐに見えなくなる。
「そーいや最近働いてるらしいっすね。うちの母ちゃん言ってたっす」
「お袋と一緒に家にいるのが嫌なんだとよっ。同居ありだって言ってやがったのに。金金金ってうるせぇしよぉ」
「元キャバ嬢でしたっけ?」
「まじウゼェ。今日だって、アレの日だから朝まで家に帰れねぇって説明してもよぉ、アレって何? ってうるせぇし。一発ぶん殴ってやったわ」
「うへぇっひでぇっすね。てか、そういや、なんで急に結婚したんすか?」
「そりゃあれよ。いつか家の代表で氏神詣に参加するためには嫁がいねぇと無理だろ。親父最近体壊してるしよぉ、まぁその準備だわ」
「なんすかそれ。氏神詣って、ただ船に乗って氏神様にお参りするだけじゃないっすか」
「ぶっふっへへへへっ。オメェはまだしらねぇんだな」
「何をっすか?」
「いえねぇ。つーか、俺もしらねぇ。去年は当たり年だって親父が言ってたの聞いただけだわ」
「え? 当たるとかあるんすか?」
「しらねぇ〜しらねぇ〜おらしらねぇ〜」変な抑揚をつけた声を出し、剥げた男がまたタバコを口に咥えた。ひょろ長の手からライターを受け取り、シュポッと今度は自分で火をつける。タバコの先端が赤く燃え、吸い込んだ紫煙を思い切り吐き出した男は「てかオメェ、こっからは大きな声出すなよっ」と少し小声で怒鳴った。
「ウィーっす。てか、ライター返してくださいよぉ」
タバコの匂いが漂ってきて、一瞬心臓が飛び跳ねた。あんな男の吐いた煙なんて絶対に吸い込みたくないと鼻と口を塞ぐ。二人はトンネルの入り口を出て『夕なぎ』の方へと道路の真ん中を歩いていく。闇に消える背中を目で追って、私と洸太君には気づかなかったと心底ほっとした。でも、まだ息は止め続けている。
「バカっすね」洸太君の声が耳元でした。無言で頷く。身体をずらし、ようやく呼吸を再開する。暗闇の中、洸太君は私の方を向いて、親指を立てた。
「朝まで戻ってこなさそうっすよね。それにあいつら、さっき脱ぎ捨てたマント手に持っていなかったっすよ」
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