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真っ暗なトンネルの中に足を踏み入れると、タバコの臭いがした。厭な感じだと鼻に指を添える。
「とりあえず、さっきあいつらがいた位置までは進みましょうか」
「う゛ん……」喉だけで音を出す。洸太君がビデオカメラを暗視モードにして少し先を進み、それに続く。洸太君が持っているビデオカメラのモニター画面は、光の漏れを最小限にするために、少し下向きになっていた。私の目線からだと撮影している画面はよく見える。
「真っ暗なのに、このカメラすごいね」
「ナイトビジョン搭載の小型カメラなんすけど、結構性能いいんすよ。でも、バッテリーが充電式だからそんな長時間は使えなくて」
——だから海沿いの道を歩く時は撮影をしていなかったのか。
カメラは時折天井や周辺を映し出す。岩戸トンネルの内部は岩肌をコンクリートで塗り固めたようなつるりとした壁をしていた。所々水が流れ落ちるような染みまでカメラは映し出している。本当に高性能だ。
「もう少し先まで行けばライトつけてもいいと思うんすけど。まだやめておくっす」
「うん」とはいえ、ライトの明かりが恋しい。モニターの中は暗闇から切り取られた世界。私たちの周りは相変わらず漆黒の闇で、横も背後も頭上も見えず、恐ろしい妄想が膨らんでしまう。誰かが襲ってくる妄想。ナニカに足を掴まれる妄想。ぴちょん、滴り落ちる水の音が聞こえるだけでも身構えてしまう。
それに、海の湿り気とはまた違う湿気を肌に感じる。土の中に埋められたみたいな粘着質な空気。畑に置かれた自家製コンポストのような腐敗臭と排気ガスが混じりあったような、なんともいえない臭いが鼻腔を刺激している。
「この辺っすかね」洸太君が立ち止まりカメラで床を映し始めた。「おっ」洸太君が呟く。モニターを覗くと、画面に映っていたのは、脱ぎ捨てられた黒い塊だった。洸太君がそれを拾い上げると小さな画面の中では埃が舞う。
「結構分厚いっすね。これ念のため着てきましょうか」
「え゛っ……」
「だって、これ着てたってことは、きっとなんか意味があるんすよね? ほら、木の葉を隠すなら森の中って言うじゃないっすか」
「でも゛……」声が濁る。あの人たちが着ていたマントを羽織るなんて厭すぎる。「とりあえず——」今は着ないで、必要があれば着用すると言うことで話は落ち着き、先を急ぐことにした。洸太君が腕に黒いマントを二枚ひっかけ、歩き始める。少し行った先で、カメラは分かれ道を映し出した。
「トンネルの分かれ道はここっすね」
「本当だ……ね……」
トンネル内部、二手に別れた道。どちらも黒い穴だ。右の穴は半島へ。左の穴は蛭子町から抜け出す出口。
「右だよね……?」
「いや……」洸太君が考え込む。短い逡巡ののち、「でも俺、思うんすよね」と私の顔を見た。
「逃げ出した地下道って言ってたなら、こんなトンネルの真ん中じゃなくて、出口の近くじゃないかなって」
「出口?」
「そっす。蛭子町と反対側の入り口ってことっす」
確かにそうかも知れない。迷ってる時間はあまりない。
「なんで、一回出口の方まで進んで、なかったら戻って来るってのでどうですか?」
「分かった……」小さく返したつもりの声がトンネル内に反響している。息を潜め、また歩き出す。足を進めるたび、二人分の足音と、呼吸音がやけに大きく聞こえる。塞がれた出口。このトンネルで誰かに見つかったら、もうそこで終わりだと思った。
緊迫する状況に喉がカラカラに乾ききり、ごくりと生唾を飲み込むのも辛い。飲み物を肩掛けポーチに入れて持って来てよかったと思った。でも、まだ今は先を急がなくてはと、喉の渇きに蓋をする。
暗いトンネル。見つかるか分からない地下道への入り口。まだ出口までは距離がありそうで、不安や恐怖が頭を擡げてくる。自然に手が動き、肩掛けポーチの中のお守りを探った。鞄の上から小さな膨らみを確認して、少しだけ安堵する。お守りは、握るとしゃりしゃりとした感触がした。おばあちゃんの事を思い出す。
——ほうやぁ、蟲避けやぁ。
おばあちゃんから虫除けと言われてもらったこのお守り。今ならお守りの意味がわかる気がした。虫除けは私が思っていたような、蚊やアブに効く一般的な虫除けじゃない。あの古い映像の中で老婆の眼球を喰い破って出て来た、無数の小さな黒い蟲を避けるための蟲避けだ。
入道住職は言っていた。
——犬山先生のように、一時期は栄えても、家中に清めの砂を敷き詰めて、いつくるか分からない蟲に怯えて余生を過ごすなんてことはしたくはないですからねぇ。
女性器を模した祠は廃墟と化した『浜なみ』の洞穴厨房にもあった。『浜なみ』も砂浜のように砂が敷き詰められていた。あれはきっと、お清めの砂。だから、お守り袋の中に入っているのは、きっと『浜なみ』に撒かれていた砂だ。
それに、福山さん宅を出る前に確認したから、私は確信している。私がおばあちゃんにもらったお守袋の柄は、ミチルちゃんの赤い甚平と同じだった。
——でも、だとすれば、なんで……?
元芸妓のおばあちゃんは蛭子町の出身じゃない。おじいちゃんも違う気がする。『浜なみ』は同じ蛭子町内でもトンネルの向こう側にある。確か、お母さんの話だと、誰かから見晴らしのいい場所を売ってもらい、あの場所に『浜なみ』を建てたんじゃなかったか。
——いや。
それは、どっかで聞いた話を都合よくすり替えてしまった私の捏造した記憶なんじゃ——。
「着きましたね」洸太君の言葉にハッとする。
「やっぱし閉まってますね。ライトつけますか」
洸太君がビデオカメラのライトをつけ、辺りを照らす。小さなライトなのに、モニター画面は驚くほど鮮明に映し出されていた。
「そんな」思わず声が洩れる。
目の前に聳え立つ四角い二枚の扉。灰色の扉は、所々塗装が剥がれて錆が浮いている。二枚の扉の真ん中には大きな
「結構重そうっすね」洸太君が扉を触り、足元を映し出す。分厚い鉄の扉はトンネル内部に開かれる構造になっていて、床には半円のレールが壁に向かって左右両方に引かれていた。
「鎖は無理か……」洸太君が鎖を触りながら呟く。
「なんか切るもんでも見つけられたらいいんすけど。そんな都合よく落ちてるわけないっすよね」
無言で頷くと、絶望に近い暗澹たる気持ちが湧いてきた。ミチルちゃんと美蝶子ちゃん。二人を助け出せるか分からない。さらに言えば、助け出したとしても、その先の出口が塞がれている。
「とりあえず、地下道の入り口っすよ」
洸太君がライトで照らされたトンネル内部を撮影する。一緒にビデオカメラのモニター画面を見ながら辺りを探す。
出口付近の両サイドの壁には分厚い扉を収納するための四角い凹み。左の凹みをざっと見渡し、右の凹みにカメラが移動する。洸太君はその凹みに近寄って、厚みを確かめるように人差し指を当てた。
「この凹みの感じだと、扉の厚みは十センチってとこっすね。鎖を切るかなんかして鍵を開けられたとしても、俺一人の力じゃ動かせないかも知れないっす」
「うん……」暗澹たる気持ちがさらに膨れあがり闇と同化していく。
「まぁ、その辺はおいおい考えながらいくとして——」
「おっ、これなんすかね」洸太君が凹みの下部を映し出す。カメラのモニターには、トンネルの竣工看板が映っていた。
「昭和三十五年っすか。このトンネル、結構古いっすもんね。全長は二つ合わせてなんすかね、六百メートル、で、業者名は、山倉土木。あぁ、そういやそんな看板どっかで見たっす。地元の土建屋さんが工事担当だったんすね」
「ん?」洸太君がしゃがみ込む。「紗千香さんこれ」私も隣にしゃがみ、モニターではなく白いライトに照らされた場所に目を凝らす。緑色をした長方形の竣工看板。大きさは縦五十センチ、横一メートルくらいだろうか。竣工看板は四隅がネジで固定されている。コンクリートの壁に看板サイズの変色した色が重なっていて、どことなく看板が少しずれているように見える。
「影? ライトの光の加減っすかね。や、でもなんか、ずれてるっすよね?」
「うん……。一回外して付けたみたいな——」
「よし」洸太君がカメラと黒いマントを私に手渡して、ポケットを弄り始めた。チャらっ、小さな金属音を鳴らし、車のキーを取り出す。
「車のキーでネジって取れるの?」
「や、キーじゃなくて、こっち」
洸太君は車のキーについている小さな銀色の細長いキーホルダーを持ち上げる。
「これ超万能なんすよ。LEDライトにホイッスル。ナイフにプラスドライバー、結構いろいろついてて」
「へぇ……、すごい」と目が丸くなる。
「うっし、これだな」小さなキーホルダーからプラスドライバーを引っ張り出した洸太君は、早速ネジを外し始める。その手元をカメラのライトで照らした。ネジは意外とすんなり外れていく。洸太君がネジをひとつ外し私に渡す。二つ目のネジを外し、看板と壁の間に指をねじ込むと隙間を作った。急いでライトをその隙間部分に向ける。
「んーっ?」片目を瞑って隙間を覗き込んだ洸太君は「思った通りっす!」と私に向き直り少年のように目を輝かせた。
「きっと、この先が地下道っすよ」
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