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古びた竣工看板を取り外し、横に立てかける。
「じゃ、俺から降りてみますわ」と、洸太君が先に地下道へ降り立ち、中を覗った。キーホルダーのLEDライトの光が奥に伸びていく。洸太君は「ビンゴ」と上を見上げて言った。
「カメラとマント、先もらいます」階段に足をかけた洸太君の手が私に向かって伸びる。その手に荷物を渡してから、私も地下道へ降りる階段に足をかけた。
踏み外してしまいそうなほど細くて急な階段は木でできていて、梯子のようで足が竦む。慎重に慎重にと踏み進め、床に足をつけた。ごつごつした感触を靴底で感じる。
「なんか、すごい狭いね……」
「そっすね。俺が先に行くっすね」
洸太君がライトを照らし、人一人が通れるくらいの、狭くて舗装されていない小石だらけの道を進む。壁は岩を荒く削っただけのようで、赤黒い岩肌が剥き出しになっている。ぐねぐねと進む地下道に電気類はなかった。
——美蝶子ちゃんがここを通った時は一人だったのだろうか。
ふとそんなことを考える。電気もない狭い岩を掘っただけの通路。ここを一人で通り抜けるなんて、私なら怖気付いてしまうと思った。現に、私はずっと洸太君の背中のシャツを握り締めて後ろをついて行っている。
取り外した看板を元に戻してこなかったことが悔やまれる。あの、外したままの看板にもしも誰かが気づいたら——、と思うと、背後の闇がさらに怖い。
「でも、あれっすね」前を歩く洸太君が顔半分だけ振り返る。
「トンネルが閉鎖してる時にしか使えない地下道ってことっすよね」
「うん……」
「てことは、地下道から逃げ出しても、トンネルは閉鎖されているから蛭子町からは抜け出せないってことっすよね」
「えっ……」
「かわいそうっすね……」洸太君が前を向く。
洸太君の言うとおりだ。地下道の入り口にある看板は、トンネルが開いている時は重たい鉄の扉で塞がれている。誰かが手引きをしてくれなければ、絶対に蛭子町からは逃げ出せない。
「もしも美蝶子ちゃんを逃してくれた人がまだ蛭子町にいるなら、その人の手を借りればなんとかなるんすかね」
誰かの助けを借りるだなんて、考えてもみなかった。でも、確かにその通りだと思った。洸太君は前を向いたまま話を続ける。
「美蝶子ちゃんがここを通って逃げ出したのは、トンネルが閉鎖された日。家出した美蝶子ちゃんと夢子さんたちが出会ってまだ一週間なら、俺たちが福山さんの家に泊めてもらった日ってことになるっすよね」
「……うん。そうだと思う。というか、多分私、美蝶子ちゃんを駅で見かけたんだよね」
「えっ?」洸太君が立ち止まり振り返るタイミングでシャツから手を離した。
「駅っすか?」
「うん、福山さんに泊めてもらった次の日に武生駅で。多分、間違いないと思う。あんなに可愛い子、そうそういないし……」
「てことは——」洸太君はまた前を向き歩き始める。
「俺、トンネルの出口に向かう間、ずっと考えてたんすけど」
私も同じだ。いろいろ考えて歩いていた。でも、お守りのことを洸太君には話せていない。
「今日入道さんから氏神様は卑忌様だって話を聞いて、そん時に、おひぃ様が卑忌様をお守りしてるって言ってたじゃないっすか。で、あ、って思い出して。おひぃ様って、鯖の浜焼き食べた店でおばさんが言ってた名前っすよね? 水死体は次のおひぃ様だって言ってませんでしたっけ?」
「あ……」
いろいろなことがありすぎて、頭の奥に仕舞い込んでいた。あの海亀みたいな顔をしたおばさんは確かに言っていた。浜に打ち上げられた黒い粘膜に覆われた水死体は、次のおひぃ様だったと。おじさんの怒鳴り声まで一瞬で再生可能なほど、脳内に記録した記憶なのに。
「それでずっと引っかかってて、さっき歩きながら考えてたんすけど、例えばっすけど、俺たちが見た崖から落ちる人影っていうのが、次のおひぃ様だった人ってことはないっすか? 映像の中のおばあさんみたいに、黒い蟲に全身を覆われて、黒い影に見えてたっつーか」
黒い人影が海に消えていく様子を思い出す。黒い人影としか、お巡りさんにも福山さんにも説明できなかったけれど、もしも、小さな黒い蟲が全身を喰い破り身体を覆っていたならば、男の人なのか、女の人なのか、どんな人が崖から落ちたのか分かりようがない。ただ、黒い人影としか——。
ぶっぶぶぶぶぶっ
耳の奥で蟲の羽音が蘇り、鞄の上からお守りを強く握った。刹那、ふっと何かが頭に浮かんだ気がしたけれど、それが明瞭な形になる前に洸太君の足が止まる。
「しっ」洸太君が唇に人差し指を当てて半分顔をこちらに向ける。「なんか、声が聞こえますね」
洸太君はLEDライトを私に手渡した。「明かりがあれば安心っすよね。ここで待ってて」小声で私に言うと、闇の奥、地下道の先へと壁伝いに足を進めていく。一瞬にして、洸太君の姿が闇に溶けた。じゃり、じゃりッ、洸太君の足音が遠のいて行く。ライトを持つ手に自然と力が入った。
——安心では、ないよ……。
小さなキーホルダーのライトは胸に当てて足元に向けてある。こうしていれば自分の周りはぼんやりと明るい。
でも——。
地下道にもしも誰かが入ってきていたら、すぐに見つかってしまう。
耳を澄ます。今のところ何も背後から音は聞こえてこない。少しだけ振り返ると何も見えない闇だった。
心拍数が上がっていく。胸に手を当て、大丈夫大丈夫大丈夫と暗示をかける。
ぴちょん、音が聞こえる。
カサカサ、何か小さなモノが動く気配がする。
恐る恐るライトで足元をぐるりと一周照らしてみたけれど、何もいなかった。変な妄想が湧き始めている。ただ、暗いだけだ。
さわさわ、さわさわさわ——
「ひっ……」思わず声を漏らす。背後から背中を触られた気がする。さわさわとさわさわと、背中から首筋に厭な感触が伝っていく。まるで、蜘蛛か何かが身体を這っているようで、背筋が凍りついていく。もしも虫ならば振り払いたい。でも、動けない。暗闇の中、パニックになってしまいそうなほど息苦しい。
——落ち着け。
これは、単なる妄想だ。長い触覚を持った虫が首筋から顎先に触手を伸ばし、頬に触れて顔に登ってくる妄想——
カサカサ、耳元で小さな音が聞こえた気がした。チクチク、頬に蟲の足が当たるような刺激を感じた気がした。ライトを上に向け、目で自分の頬を見る。黒い蟲のような影が——
「ぃやぁ……っ!」もう限界だと手で頬を思いっきり撫でまわした。「はぁぁ……」手で顔を覆いしゃがみ込む。
「大丈夫っすか?」洸太君の声がして、足音が戻ってきた。「うん……、ちょっと妄想の蟲にやられて……」弱々しい声が出た。「妄想?」洸太君は私の手からライトを抜き取ると、周辺を照らす。すぐに「あぁ」と納得するような声を出し、何かを拾うように腕を伸ばしてしゃがみ込んだ。
「妄想じゃなくって、フナムシっすね」私の目の前で握っている手を開く。洸太君の開いた手から、ムカデのような、ダンゴムシのような、長い触覚を持った細長い虫がはらりと地面に落ちてカシャカシャ足を動かしどこかへ消えた。それを見て、また悲鳴が出そうになって口を手で押さえる。
「毒も何もない無害な虫っすよ」
そう言う問題ではない。それが背中を、首筋を、頬まで這い上がって来たのかと思うだけで全身に鳥肌が広がる。身震いして自分の頬を何度も手で擦った。
「ここ海が近いんすよね」
「海が、近い……」
——じゃあもしかして、あのもじゃもじゃの毛が生えた虫はこの中にうじゃうじゃいるんじゃ……。
別の意味で恐ろしい。洸太君は怖気づく私の手を引いて、「大丈夫っすか?」と立ち上がらせた。
「ここから先は、黒マント羽織って行った方が良さそうっす。船着場があったんすよ」
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