「あれ、今日は金曜日っすよね。なのにお休みって」洸太君の運転する車がスーパーを横切る。確かに、個人店のスーパーは、見た感じお休みみたいだ。駐車場には一台も車がないし、店内も暗い。


「珍しくないっすか? 市場が休みな水曜日なら分かるけど」

「ほんとだね」

「改装工事とかっすかね。でも、そうなると困ったな。生クリーム追加できないとなると、あの潰れた目、埋めれないんすよね?」


 洸太君は、蛭子町は小さな街で、生鮮食品を扱うスーパーはこの店しかないと言う。「目を埋めるには生クリームが足りない」と私が言ったから、洸太君は気にしてくれてるんだ。


「はぁー、なんで失敗しちゃったんだろう」残念な声が漏れる。調理学校時代、製菓技術基礎実習の生クリームのナッペや絞りのテストは毎回ほぼほぼ満点だったし、ジェノワーズを焼き損じることなんて今までなかった。


「俺は一年コースだからやってないけど、紗千香さんは二年コースで製菓も習ってますもんね。スポンジ焼くテストってありましたっけ?」

「スポンジっていうか、ジェノワーズね。ジェノワーズの実習は何度もあったよ。シリコン型はあんまやってないけど」

「そっか。紗千香さん、いつも一番でしたよね」


 洸太君の言葉に「え?」と視線を向けた。


「ほら、職員室の壁に実技検定の順位出てたじゃないっすか。紗千香さん、いつも一番だったっしょ? 俺、すげぇなって思ってましたよ。俺は製菓はやってないけど、だし巻き卵とか、アジの三枚おろしとか、同じ課題あったじゃないっすか。クラスは違うけど、俺もそれなりにいい点数だったからいつも気にして見てたんすよね」


「そうえいば、そうだったかな」なんて、なんでもない風を装って白々しく言ってみた。誰にも負けたくないと思って、バイトのない日は放課後も調理室に残って、ナッペはもちろん、だし巻き卵や大根の桂剥き、三枚おろしの練習をしていた。


 就職して実際に働きはじめると、要領が悪いとか、時間がかかりすぎるとか、私はやっぱりまだまだダメなんだと知ったけど、学生時代は張り出される成績表の一番上に自分の名前があることで、やることなすこと自信がなかった私の自己肯定感が満たされていくようで、嬉しかった。


 ハンドルを右に切りながら「最後は俺が勝ちましたけどねー」と、嬉しそうに洸太君が言う。「あぁ」鯛の姿作りのことだ。


 卒業試験は洋食、中華、日本料理の中からどれかひとつを選び試験を行う。私も洸太君も就職先が日本料理店だったから、同じ日に同じ鯛の姿造りが試験だった。鯛を捌くだけじゃなく、大根のツマや飾り切りの野菜も審査される。


「俺、あのランキングずっと見てたんすよ。最後は絶対に勝つぞって思ったし。勝手にライバル視してました」

「え、そうだったの?」

「そうっすよ。だから同じ就職先だって分かった時、俺、絶対に負けないって気合入れたんすよねー」

「あ、あぁ、そう言えばそんなこと言ってたね」


 白い割烹着姿の洸太君が脳裏に蘇る。調理場で、くるくると螺旋を描く人参の飾り切りや、桂剥きをする私の手元を覗き込み、「へぇ」とか「ふうん」とか洸太君はよく言っていた。


 なんだか懐かしい。


 まだつい最近のことなのに、遠い過去の記憶に思えるのは、仕事をやめてからずっと、家でだらだら時間を潰していたからだ。働かない毎日は、膨大に暇を持て余していた。


 不意に「将来親父の店を継ぐならこの人とだなって思ったんすよね」と言われ、「え?」と呼吸が止まる。車内の空気が液体窒素に触れたように、瞬間的に固まった気がした。


 洸太君はそれ以上何も話さない。私も、何も話さない。いや、話せない。沈黙がさらに場を固めていく。膝に置いた手を凝視したまま、身体が硬直している。鼓動が耳の奥を刺激して、どくんどくんと熱く波打ち始めていた。


 車がカーブを曲がる。身体が運転席側に傾くのを、気づかれないように踏ん張った。


「もう俺の継ぐ店は無くなったっすけどね」固まっていた車内に洸太君が穴をこじ開ける。


「でも俺、いつか店やるなら紗千香さんとだなって、今でも思ってますよ。無職が何言ってんだって話だし、店やるなら金貯めなきゃできないけど。でも、そうなったらいいなって」


 静かに鼻から息を吐いた。どう答えていいか分からない。今までも、酔った勢いで何度か言われたその言葉。


 ——いつか、店をやるなら紗千香さんと。


 どう受け取っていいか、分からない。いや。本当は分かってる。分かってるけど、答えられない。


 同僚以上、友達以上、その先の関係は私には経験がないし、この居心地の良さが変な方に傾いて気まずくなるのが怖い。だから、「はいはい」とか、「またまたー」とか毎回聴き流していた。いつだったか、「もう本当にやめて」と怒った記憶もある。多分その時は、私も酔っていた。それが原因かは分からないけれど、ここ一年くらいはこの会話自体出てこなかったから、もう終わった話だと思っていた。


 ——それに。


「だからさ、そういうのは、付き合ってる彼女さんに言えば……」

「彼女なんていないっすよ。何年前の話してんすか。俺、こう見えて結構一途なんすよ。もう俺も紗千香さんも仕事辞めて、職場恋愛でもないし」


 車内に流れる流行歌。プレイリストがヒップホップな洋楽から、夢中で見ていた恋愛ドラマの主題歌に切り替わる。切なくなるようなバラード曲。男性ボーカルの甘くて優しい声が車内に溶けていく。何度も聴いて、歌詞を覚えてしまった、ラブソング。


『僕が君を好きだということを、君はどうして気付かないふりをするの』


 歌詞がやけに強調されて耳朶に流れ込んでくる。隣で、すっと息を吸う気配がした。身構えて、私も息を飲む。「す……」運転席の洸太君が掠れた音を吐いた。


「好きじゃなかったら連絡なんてしないし俺も一緒に行くとか言わないっすよ」


 変な勢いの声でさらに身体が強張る。と、保育園の門扉を通過したからなのか、がくんと車体が小さく揺れた。「ふぅ」大きく息を吐いた洸太君が「つきましたね」と囁くように言う。「うん」と小さく鼻から息を吐いた。そうしないと呼吸がもたなかった。


 伽藍とした駐車場は誰の姿も見当たらない。白枠内に車を停めて、「はぁー」と息を吐いた洸太君がハンドルに頭を突っ伏した。降りる気配がない。私も動けないでいる。緊張して、とくとくと小刻みに胸が震えている。汗ばむ手を、少しだけ強く握った。ハンドルに頭を乗せた洸太君の、髪の隙間から出た耳が視界の隅に見える。耳の縁が赤くなっている。


 ——好き。


 さっきの言葉は、そのままの意味なのだろうか。目だけ動かし、ナビにしていたスマホの時計を見た。三時五十八分。四時まであと二分。時間がない。


 ——でも。


 液体窒素に触れたどころか、どぼどぼと流し込まれてカチコミに凍ったみたいで、身動きができない。ダメだ。あと二分で四時。ミチルちゃんが待っている。お迎えに行かなきゃ。そう思うけれど、ラブソングが流れる車内は気まずくて、自分からは動きだせない。


「二回目っすよ」洸太君がハンドルから顔をあげ、車のエンジンを切った。盛りあがっていたラブソングのサビメロがプツリと途切れ、代わりに、ピピーピピーと小さくて機械的な音がする。


「今日は呑んでないからそのままの意味で受け取ってほしいっす」一息に言ったあと、「あぁー」と声を出した洸太君は両手で勢いよく自分の頬をパチンッと叩いた。刹那、ピンと張り詰めていた車内の空気までパチンッと弾けた。


 運転席の洸太君がこちらを向く。私も視線を動かした。目が合って、視線をずらす。洸太君の頬は、ほんのり赤くなっていた。


「時間っすね」


「やばいやばいっ」洸太君が大袈裟に言い、スマホを充電ケーブルから抜き取る。「四時過ぎてる。お迎え遅刻っすよ!」運転席のドアを開ける洸太君に続き、私も車を降りた。


 まだ心臓がドキドキしている。


 誰もいない保育園の駐車場には、生温かくて湿った風が吹いている。ぼやけた色の空と、花や昆虫のイラストが描かれた園舎。雨の匂いを嗅ぎつけた燕が低空飛行を繰り返し、建物の方へと飛んでいく。


 パタンと静かにドアを閉め、そこでようやくまともに息を吐いた。ピッピッと施錠音がして、私がドアを閉めるまで待っていたのだと気づく。


「俺、走ってくっすわ」

「あ、私も——」

「いっすいっす、ゆっくりで。先行くっすね!」


 洸太君の姿はどんどん園舎の方に向かっていく。追いつくようにと歩きはじめた私の足は、まるで自分の足じゃないように宙を彷徨っている。息継ぎ出来なかったから、酸欠なのかもしれない。それか、立ちくらみ。ふわふわとなんだか変な感覚で、もしもいまここが吊り橋ならば、危うく踏み外し、真っ逆さまに落ちてしまうと思った。

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