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 園庭に入り、保育園の建物前まで。じゃりじゃりと砂っぽい園庭を歩き、ミチルちゃんの姿を見つけて一瞬立ち止まった。


 ミチルちゃんは洸太君の背後にまわり、太腿にしがみつくようにして立っている。長い黒髪の毛先が風に舞っていて、ここからでは顔は分からないけれど、どこか、身を縮め、怯えているように見える。洸太君の向こう側には、ピンクなのか赤なのか、エプロンをつけた保育士さんの姿もあった。三人は何か話をしているようだ。


 砂を踏みしめ、足を進める。うすぼんやりとした灰色の雲の下、カラフルで楽しそうなイラストの書かれた園舎には、明かりはほとんどついていない。明かりがついているのはミチルちゃんがいる付近の部屋だけだ。それに、園庭で遊んでいる子供も保護者の姿もない。


 ——もしかして、一番最後?


 途端に罪悪感が湧き、胸を掴まれたような思いがした。でも——、と罪悪感を振り払うように考える。


 普通保育園は、夜の七時くらいまではやっているはずだ。働く保護者のために、延長保育を設けているはずだ。


 それでも誰の姿もないということは、今日は延長保育がない日なのだろうか。


 ——依頼された時間を私が聞き間違えた?


 さぁー、と嫌な予感が頭から爪先まで滑り落ち、どうしようと、足が自然と速くなる。


 すぐそばまで行くと「本当になんなんですかっ」と、女性のかん高い声が洸太君の向こうから聞こえてきた。思わず肩を竦める。迎えに来るのが遅すぎて、注意を受けてるのだろうか。それにしても、疳高くてヒステリックな言い方だ。とても保育士さんの出す声とは思えない。


 洸太君の後ろに立ち、「ミチルちゃん、ごめんね」と、ミチルちゃんの頭を撫でた。ミチルちゃんが「さっちゃん」と顔をこちらに向け頭をぶんぶん振った。太腿に顔を押し付けていたせいなのか、おでこに前髪がぐしゃぐしゃになって張り付いている。


「本当に、気が狂いそうなんですよっ!」ガラスの割れるような声がして、眉を潜める。ミチルちゃんを引き寄せて、「そうなんすねー」と相槌を打つ洸太君の背中越しに、そっと覗いた。


 赤いギンガムチェックのエプロン。胸元には『さなえせんせい』と平仮名で書いてある。二十代だろうか。背が低くぽっちゃりとしていて、まだ若い先生のようだ。亜麻色の髪の毛をゆるふわっと後ろで結び、どうみても付け睫をつけているような濃い化粧をしている。子供向きの化粧じゃないな、と、思った。どちらかと言えば、夜のお店で働くような印象を受ける。派手というか、なんというか——。


 さなえ先生の視線が私と交差する。睨め付けるように私の足の先から頭まで視線を動かしたさなえ先生は、「あら、奥様もご一緒なんですか?」と怪訝な顔で言う。


「あの、いや」もごもごと口を動かすと、洸太君がすかさず「一緒に子守を頼まれた親戚のものです」と答えた。洸太君が私に視線を投げる。急いで「はい、そうなんです」と何度か頷いた。


「じゃあ、その人は知ってるんですか? 今日がその日だってこと?」

「え?」

「え? じゃないですよっ! 今日がその日ってこと、知ってるんですか? って聞いてるんですよ。こんな遅くにお迎え来るなんて、本当に信じられないって言ってるんですよっ」


 やっぱり。お迎え時間を過ぎてしまったことを怒っているようだ。それにしても、語気が強すぎる。弾丸のような破壊力を持った声が、こちらに向かって飛んでくる。


 こんな保育士さんがいればミチルちゃんも保育園に馴染めるわけないな、と胸が痛んだ。ミチルちゃんが私の背後に移動して、背中の洋服をぎゅっと掴んだ。「信じられないっ」さなえ先生の暴力的な言いようはまだ続く。


「お便りで出したはずですっ! 福山さんもあなたたちも、それ読んでないってことですかっ?!」

「お便りですか?」

「はぁー?! お便りですかぁ?! お便り読むのは当たり前ですよねぇ?! それって保護者としてどうなんですかっ。こっちは忙しい中お便り作って出してるっていうのにっ。それに、他の園児はもう三時前には帰ってるんですよっ! おかげで、おかげで、わたしは押しつけられちゃって。そのせいで、これから一人で保育園閉めなきゃいけないんですよっ! あぁあ! もうっ!」


 さなえ先生は苛立ちが沸点を超えすぎてるのか、手で頭をがしがし掻き毟り「もう本当やだぁっ」頭から手を勢いよく離した。ギョッとする。指先が当たって剥がれたのか、黒い毛虫のような睫毛が目から少しずれていて、髪の毛がぼさぼさに乱れている。はぁはぁ肩で息をしてるさなえ先生は、だんっ、地団駄を踏んだ。靴箱下の踏み板が一瞬飛び跳ねガタンと床に落ちる。


「こんなところに嫁に来たばっかりに、新米だからって、わたしばっかり嫌な思いしてっ!」さなえ先生は、「もういいから、はやく帰ってくださいっ」と踵を返し保育園の部屋の中に入った。こちらをかっと睨み付ける。その後で勢いよくドアをがらがらがしゃん、と締めると、ピンクのカーテンをジャジャッと派手な音を出して引いた。怪獣のような重たい足音が中から聞こえ、すぐにバン、と音がして部屋の電気が消える。あまりに凄すぎて呆気にとられてしまった。


「なんなんすか、あれ」洸太君が吐き捨てるように言う。私はあまりの勢いに気圧されて何も言葉が出てこない。「あれで保育士って、ありえます? こっちが信じられないっすよ」珍しく洸太君も憤りを隠せないらしい。


「なんなんすか? あの人、急にキレたんすよ」


 くいくいっと背中の洋服を引っ張る感触がして、はっとした。呆気に取られている場合じゃない。それに、さなえ先生はさっき「わたしこれから一人で保育園閉めなきゃいけない」と怒っていた。ということは、いまのいままで、ミチルちゃんはあのヒステリックな先生と二人きりだったということか。そんなの、可哀想すぎる。


「遅くなってごめんね」手を後ろにまわしミチルちゃんの頭を撫でた。指先にさらさらとミチルちゃんの細くて長い髪の感触がする。温かい子供の体温を感じながら、本当に申し訳ないことをしてしまった、と、また強く思った。


 私は福山さんが言った時間を聞き間違えただろうか。確か——、と思い出し、そういえば、「お迎えは、二時半以降四時まで」と言っていた気がしてきた。もしかしたら、三時以降だったかも知れない。どちらにしても、はやく迎えに来ても良かったのだ。それを、四時に迎えに行けばいいと、勘違いして覚えていたのかも知れない。


 ミチルちゃんを預かるのに、責任感がなさすぎた。それに、「帰ってきたらおやつにしよう」なんて、考えなきゃ良かった。ケーキなんて、ミチルちゃんが帰ってきてから一緒に作れば良かったんだ。保育園の駐車場でも少なからず時間を消費してしまった。


 さっきまでのふわふわするような夢見心地は何処かへ消えて、もっと早くお迎えにこればよかったという罪悪感が、ずしりと背中にのしかかってくる。居た堪れなくなって、「ごめんなさい」と声に出ていた。


「ったく」洸太君の言い捨てるような声が聞こえた。その後で、洸太君が作ったような明るい声で「ミチルちゃん」と振り返り、私に目配せをした。


 静かに瞬きで頷く。


 洸太君はしゃがみ込み、私の後ろに隠れているミチルちゃんを覗き込むと「遅くなってごめんね」と、まずは謝った。すぐ切り替えて「さぁて、ミチルちゃんは今日はこうちゃんと何して遊ぶんだったかな?」と声をかけた。歌のお兄さんのような、抑揚のある物言いで、さっきの保育士さんよりもよっぽど子供向きな声だ。


「まずはお車まで肩車しよっか。それか、かけっこかな?」


 ミチルちゃんの顔が私の身体から少し離れる気配がした。「よおしっ!」洸太君がギャグアニメのように足を大げさにバタバタさせて走り出す、フリをする。「こうちゃんを捕まえれたら肩車だぞっ!」その声で、パッと私の背中を掴んでいた手が離れた。「よぉい、どんっ」洸太君は駐車場に向かってゆっくり走り出す。ミチルちゃんも洸太君を追いかけて駆け出した。かと思えば、園庭の真ん中で立ち止まりこちらを振り向く。


「あ、あぁ」私がぼうっと突っ立っていてはいつまで経っても帰れない。洸太君は少し行った先で足踏みをしてミチルちゃんを待っている。固まって重たくなった足を持ち上げて、私もミチルちゃんの方へと駆け出した。ミチルちゃんはくるっと向きを変え、また洸太君の方に向かって走り出した。


 二人を追いかけて走りながら、それにしても——、と思った。私がお迎え時間を聞き間違えたかもしれないと、反省する気持ちはある。でも、あんな言い方を子供の前でしなくてもいい。いつも、お迎えが遅れた保護者をあんな風に怒っているのだろうか。


 ——ありえないよね。


 車に戻り、何事もなかったように装って、洸太君と二人、後部座席のチャイルドシートにミチルちゃんを乗せる。カチッとベルトを固定してから、助手席ではなく、ミチルちゃんの隣に座った。

 

 運転席の洸太君がプレイリストを子供用に変えて、「まずは、公園でも寄ってきますかっ」テンションを上げてエンジンをかける。


 そうだ。

 過ぎたことは仕方ない。


 あの保育士さんに二度と会うことはないだろうし、ミチルちゃんのためにも気分を変えて、この後は楽しい時間にしなくては。


 車内で流れる童謡を三人で歌いながら、ミチルちゃんが大好きだという海が見える公園へ。


 ——でも。


『夕なぎ』近くの公園の入り口は、『立ち入り禁止』の札とともに鎖がかけられ、遊ぶことができなかった。


 


 


 


 

 


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