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 結局公園では遊べず、さらにはお風呂に入る予定だった『夕なぎ』もお休みで、福山さんの家に帰ってきた。と言っても、まだ五時前。まずはおやつだと、ミチルちゃんは洸太さんに任せて台所に立った。


 おやつとして用意した猫のキャラクターケーキはキャラクターを諦め、包丁で四角くカットして透明なグラスに入れ、生クリームと苺を盛り付けてイギリス風デザート、トライフルにした。この時期に苺は高級品。福山さんが買い置きしておいてくれた苺は、形も整っていて、すごく美味しかった。アイスクリームは入ってないけれど、スポンジケーキと生クリームに苺が重なって、見た目は苺パフェだ。


 ダイニングテーブルでチャイルドチェアーに座り、デザートフォークを手に持ったミチルちゃんが「おいしいねー」と苺を頬張る。ミチルちゃんのほっぺには白い生クリームが付いていた。苺のサイズが、ちょっと子供の口には大きかったのかもしれない。「あまーい」と言いながら、嬉しそうに食べる様子を眺めながら、可愛いと思う反面、心の中でまた「ごめんね」と呟く自分がいた。


 私は、お迎えの時間を間違えたかもしれない。お友達がどんどん居なくなっていく中、ミチルちゃんはどんな思いで私たちのお迎えを待っていたのだろうか。そう思うと胸が苦しくなる。


 他人のお子さんを預かるということの責任の重さ。私はそれを少し軽く考えていたのかもしれない。


「もっと福山さんに話を訊いておくべきだった」ミチルちゃんのほっぺをティッシュで触れて、生クリームを拭きながら反省の言葉が漏れる。洸太君は食べる手を止めて、「それこそ俺の責任っすよ」と言った。


「一週間も泊まらせてもらってたんすから。もっと細かく訊いとく時間は沢山あったわけだし」


「でもなぁ」ため息を吐き、頬杖をつく私を見て、「あっ」と、すかさず洸太君がテーブルに肘をつき身を乗り出した。「その顔」私の顔を指差す。「ダメっすよ。子供の前で眉間に皺なんか寄せちゃ」今度は自分の眉間を指先でぐりぐり広げている。「楽しい時間は、にこにこしてないと」そう言われて、「そうだね」と短く答えた。


 洸太君は感情の切り替えスイッチがちゃんと付いている。私みたいにいつまでもうじうじしてなくて羨ましい。


 ——でも、それでも。


 洸太君の言うように、ミチルちゃんの前でうじうじしてるなんて絶対に良くないのは、分かる。


「お風呂はまだいいとして、その前にレッツクッキングっすよ」


 洸太君は口の前で拳骨を作り「ごほん」と大げさな咳をしてから、「美味しいハンバーグを一緒に作ってくれるお友達ー?」と楽しそうに手をあげた。私の隣に座っているミチルちゃんが「はぁーいっ」と元気に手をあげる。その瞬間、ミチルちゃんのデザートフォークから食べかけの生クリームがぺちゃっと私の頬に飛んだ。


「ありゃりゃぁ」ミチルちゃんが私の顔を見て戯ける。「ありゃりゃりゃりゃりゃぁ」洸太君がミチルちゃんの真似をする。その様子にミチルちゃんが「きゃきゃっ」と声を上げて笑った。ティッシュで自分の頬を拭いながら思う。


 ——凄いと。

 洸太君はすっかり子供用のコミュ力も身につけている。


「じゃあ、おやつが終わったらレッツクッキングだね!」洸太君の言い方が教育番組のお兄さん化していて、ちょっと笑えた。


「ミチルね、ミチル、もってるよ。えぽろんっ」

「おぉー、凄い凄い! じゃあ、おやつが終わったらエプロンつけて早速作ろうか」

「うんっ!」


 ミチルちゃんは残りのトライフルをぱくぱく口に運び、「ごちそさまっ」とチャイルドチェアーから飛び降りた。タタタッ、隣にある一間続きの和室まで走り、茶色いタンスを引っ張り出す。その中に手を突っ込み、「あれぇ、あれぇ」次から次へと色々な色の布を取り出しては、ぽいぽいっと後ろに投げた。その様子を見て、昔好きだった絵本を思い出した。


 確か、あれは『ちらかしぼうや』という題名だったと思う。坊やが家中散らかしていくのを、後ろからお父さんが拾って片付けていく。そんなお話だった気がする。


 椅子の背に腕をかけてミチルちゃんを見ていた洸太君が「可愛いっすよねー」と言って、「うん」と自然に頬が緩んだ。心が解けていくような感覚だった。


「この間に使ったものだけ洗っちゃいましょうか」「そだね」と二人で席を立つ。調理器具もまだ洗ってないものがあるし、キャラクターケーキの型は水につけてふやかしてある。


 台所の洗い場に二人で立ち、私が洗剤をつけたスポンジで洗い、洸太君が洗い流す。それをどんどん手際よくこなしていく。これくらいの洗い物、二人いればすぐ終わる。


 不意に「あの人ね」頭上から声が降ってきて「え?」と顔をあげた。一瞬ドキッと固まってすぐに視線を下げる。洸太君の顎が、唇が、すぐ目の前にあった。


 今まではなんとも思わなかったのに、瞬間的に車の中で言われたことを思い出して変な緊張感が湧き始める。大きく跳ねた心臓の勢いがまだ余韻を残し、とくとくと小刻みに普通ではない動き方をしている。でも、洸太君はなんとも思っていないようで、声を潜め、私だけに聞こえるような小さな声で「急にキレたんすよね」と続ける。


「最初はあんな感じじゃなくって。普通だったんすよ。で、何か知ってますか? って聞かれて、いや知らないって答えたんすけど」


「知ってるって、何を?」平静を装い手を動かしながら言葉を返す。声が少しぎこちなかったかもしれない。


「今日がその日だってことっすよ」洸太君はさらに続ける。


「今日はどうやら特別な日らしくて。だからみんなお迎えが早いって」

「へぇ、そうなんだ……」

「で、探るように聞いてくるんすよ。本当に何も知らないのかって。で、いや、分かりませんって、最初は俺も普通に答えてたんすけど。そのうちなんか一人で勝手に怒り出しちゃって。私は他所からきた嫁だから教えてもらえないんだとか、旦那がどうのこうのとか、お姑さんが悪いとかって」

「え、それは、なんか、凄いね……」

「凄いってもんじゃないっすよ。頭おかしいんじゃないかって思ったっす。なんていうか、被害妄想がすごいっていうか。それで、あなたたちもグルですか? とかなんとか言って。

 福山さんもアレにいくからお迎えに来れないのかって訊かれて、アレの意味がわかんないし、普通に仕事だと思いますって答えたら、急に信じられないってブチ切れ出して。お迎えが遅いのはアレに行くからだって、ならしょうがないって思ってたのに、仕事ですかっ、って。

 俺、アレって何すか? って訊いたんすけど、禁忌だから言えないんでしょ、知ってるくせにってまたキレられちゃって。

 仕方ないから、はいはいって、結構冷静に話聞いてたんすけど、ちょっと手に負えなくて」

「そうだったんだ」


 洸太君のコミュ力が通じないなら、さなえ先生はよっぽど大変な人だと思った。


「でも、落ち着いて考えればあれじゃないっすか?」

「あれって?」

「夢子さんの言ってた、今日がその日ってことっすよ」


 白い泡に覆われた手が止まる。じゃー、と流れる水道の蛇口を閉めて洸太君が「どう思います?」と私に尋ねた。「実は、言おうかどうか悩んだんすけど」言葉が切れてしばし間があり、「福山さんと連絡が取れないんすよね」「え?」とさすがに顔を向ける。洸太君はちょっと困ったように眉根を寄せている。私の目を見て「そうなんすよ」と小さく頷いた。


 知らなかった。確かに連絡係は洸太君だけど、まさか、福山さんと連絡が取れないって、そんな状況になってるとは思わなかった。


「紗千香さん心配すると思って、俺、言ってなかったんすけど。いや、福山さんから聞いてはいましたよ。電波が悪いところに行かなきゃいけないから、連絡は朝まで取れないと思うって。でも、本当に取れなくなるって思ってなくて」

「LINEは?」

「LINEも既読なしっす」

「え、それじゃあ」

「とりあえず、ミチルちゃんとこの家で留守番するって約束だから、問題はないと思うんですけど……。ちょっと気になるっていうか」

「気になる?」

「なんていうか、あの保育士さん、こうも言ってたんですよ。今日の夜は外出禁止って知ってましたか? って。それって、やっぱり夢子さんたちの話と関係するんじゃないかと思って。スーパーもだけど、『夕なぎ』もでしょ。公園も立ち入り禁止だし、街中を走りながら気にして見てると、どこのお店も今日は閉まってたんすよね」


 ——刹那。


「じゃじゃーんっ!」背後から元気な声がして洸太君と同時に振り向く。赤色のエプロンをしたミチルちゃんが自慢げに立っている。紐から腕を出す位置が間違っていて、網に絡まった魚のようになっていた。


「とりあえず、この話はまた後で」洸太君が耳元で囁き、無言で頷いた。確かに今する話じゃない。


「ミチルちゃん、お手手を出す位置がちょぉっと違うよ?」洸太君がしゃがんでエプロンを直し始める。


 ——福山さんと連絡が取れない? 


 急に不安が押し寄せて心がざわつく。


 お留守番は承諾した。でも、まさか、連絡が取れなくなるなんて、聞いていない。何かあれば福山さんに連絡して、判断を仰げばいいと思っていた。いや、最悪、帰ってきてくれるとも。それくらい甘く考えていた。


 ——それじゃあ……、もしも何かあった時は、ミチルちゃんを守る責任は、全て私と洸太君にかかってるということ?


 洸太君とミチルちゃんの楽しげな様子を眺めながら、頭を擡げた不安が真っ黒なモヤとなって、どんどん私の身体を侵食していくような、そんな気がしてならなかった。

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