6_2
「もう一杯呑んじゃおうかなぁ」
「あ、じゃあ俺、買ってきますよ」
「いい、いい」夢子さんは片手をひらひらさせてグラスを顔の横で振った。ミントの葉が詰まったグラスから水滴がぽたぽたっと滑り落ちる。夢子さんの白くて細い指に目が行った。派手なネイルを施したきれいな指を見つめながら、脳内で妄想が走り始める。
酷い臭いがする黒い粘膜に覆われた死体。さっき『金丸水産』で聞いた浜辺に打ち上げられた遺体。そして、「いま、ここにいるの」と嗤う夢子さん。悪夢を見た後のようなこのデジャブ感を頭の中から追い出したい。でもダメだ。頭からどうしても追い出せない。何かが頭の中で像を結ぼうとしている。
どこか、繋がって——、
——黒い影。
「ひっ」黒い影が視界に入り、思わず手で口を覆った。夢子さんの後ろに、ゆらゆら揺れるように黒い影が立っている。夢子さんも黒い影に気づき、ツインテールを揺らし振り向いた。
黒い影は幽霊みたいな社長さんだった。
はぁっと固まった肺から息が洩れる。黒い影は生きている人間。変な連想ゲームをして、勝手に怖がるなんて馬鹿みたいだ。こんな真っ昼間にお化けなんて出るわけもない。
夢子さんはミント色のグラスを社長さんに手渡す。と、同時に新しいモヒートを受け取った。二人は何か会話をしている。でも思考が停止していて、何を話しているか聴き取れない。そうこうしているうちに、黒い人影の正体はゆらっと身体を反転させ、また離れていく。
夢子さんはモヒートを傾け一口呑むと、テーブルにグラスを置いた。隣の洸太君が「すげぇ気が利くっすね」と、関心したような声を出す。
「ふふふ。いいでしょ? ああ見えてできる奴なのよ。でね——」
夢子さんは海蛍ことマサルさんの話を続ける。まず、マサルさんのファイルには、日本全国の似たような怪談話がマッピングされていたこと。そのマッピングされた怪談話には特徴的な共通点があること。中には怪談だと思えないような話もあるけれど、話の元を代々遡って調べていくと、どこか繋がるということ。夢子さんの話を聞きながら、所々引っ掛かる言葉達を見つけては打ち消し、見つけては打ち消す。それでも気になってしまう。
まさか——、と思ってしまう。
洸太君は私のように繋がりを探してしまわないのか、途中途中「へぇー」とか「マジっすか」と夢子さんに合いの手を入れていく。それが気持ちいいのか、それとも酔って話し上戸なのか、夢子さんの舌はさらに滑らかになっていく。
夢子さんがかいつまんで話す怪談の中には私が知ってるものもあった。確かその話は海蛍さんが話していたと記憶を辿り始め、厭な汗が脇に滲む。あの動画の人は、もうこの世にいない。そのことだけでも背筋に冷たいものが滑り落ちていく。
夢子さんは饒舌に話続ける。洸太君はそれに「それってどういうことですか?」と、さらに合いの手を入れている。
「うんうん、凄いでしょぉ? でさぁ、ファイルにはさぁ、日本全国沖縄以外の場所にマッピングがされてたんだよねぇ。どんだけかかって調べたんだよって思うくらい」
「へー、やっばすぎっすね! え、でもそれって、百話もあるんすか?」
「うぅん、ないない」夢子さんは掌をひらひら揺らす。
「さすがに百話はないわぁ。でも、ファイルに挟んであるでっかい日本地図には、赤い線が蜘蛛の巣みたいにあっちこっちに引かれてて、なんていうのかなぁ。
そうだ、あれだ。日本全国どこでもお届けします的な、物流網? 的な? そんな感じで、へぇ、って思ったよねぇ。怪談が伝播してるって、そんな感じでさぁ」
「怪談が伝播っすか。なんかワクワクぞわぞわしちゃいますね」
「でしょ? 最後にナニが出てくるんだろうって思うよねぇ。百物語ってさ、怪談話する人達が一巡するごとに場の霊気が増幅するんだよねぇ。霊気がスパイラルしてくっていうか。だんだん空気が張り詰めていって、あ、これナニかいるなぁって気配を感じるし」
「ヤッベ、それってマジ怖いっすね。俺、百物語は未体験っすよ」
「まっ、一般人はそうだよねぇ。それに、なかなかちゃんとした作法で百物語ってできないよ。結構大変だしさぁ。でも、だからこそ、マサルはやろうと思ったんだろうけど」
「百物語にちゃんとした作法があるんすか?」
「あるある。大アリだよぉ。着てるものとかぁ、場所とかぁ」
「え? 場所っすか?」
「だねぇ。ファイルを見る限り、マサルは調べてる怪談の大元となる場所に拘ってたなぁ。その場所にまつわる怪談を集めて話すとどうなるか、的な。ファイルを見る限りそんな感じでさぁ」
「へぇ……、なんかすげぇっすね……」
「ふふふっ」夢子さんは意味深に微笑む。「でね」と夢子さんはテーブルに身を乗り出すと、「新宿で家出少女を拾ってねぇ」と、さらに意味ありげに嗤ってから、「有力な情報をゲットしたんだよねぇ」とモヒートをあおった。洸太君もテーブルに身を乗り出し「有力な情報っすか?」と、好奇心に満ちた声で訊く。
夢子さんは「ふふふふふ」と微笑んでカラカラカラカラ爽やか色のグラスを鳴らした。ミントを摘みあげ、グラスを傾け、どうやらそれ以上は話を続ける気配がない。痺れを切らした洸太君が「それでっすか?」と声を顰めて尋ねた。
「それでもしかして、それで蛭子町なんすか? 実は俺らも蛭子町にこれから行くんすよね」
「へぇ」音程を弾ませた夢子さんは「じゃあ、知ってるの?」と、今度は洸太君に訊き返した。
「知ってるって、何をっすか?」
「今日がその日だってこと」
「今日が、その日?」
「あ、知らないんだ」
「いいのいいの、忘れて」と夢子さんはツインテールを揺らす。「えー、なんすか気になりますよー」洸太君が声を上げると同時に、「夢ちゃん、そろそろ」入道住職が夢子さんの細い肩に手を置いた。「ご飯どうするってぇ?」夢子さんが入道住職を見上げて訊く。入道住職はふるふると短い首を振った。「それでは」とこちらに視線を投げる。
「わたし達はもうそろそろ出発しますので、どうぞ、お二人でごゆっくりなさってくださいね」
入道住職が私の手元を見た。はっと気づき、私も視線を下げる。テーブルの上、みんなカレーを食べ終わっている。私のお皿にはまだ蟹の足も大きな海老もそのままの形で残っていた。粘度の低いスパイス色のスープが米をふやかし、吐瀉物のようにべったりと皿に広がっている。
「あぁ、いやはや、これはこれは、申し訳ないことをしました。夢ちゃんの話に付き合っていて、カレーが冷めてしまったんじゃないですか?」
「もぉ、タカシ君、アタシのせいじゃないよぉ。最近の若い子は少食なんだってぇ」夢子さんが入道住職の腕を勢いよく叩く。入道住職は「はいはい、はい」と夢子さんの手を握り、「いやはや、酔った夢ちゃんは話し出したら止まりませんからねぇ」と優しく返した。こちらに向き直り、「お二人とも、お付き合いしていただいて、ありがとうございました」と微笑む。
「や、めっちゃ面白い話で、俺、興奮しちゃいましたよ」
入道住職は「ははは。そうでしたか、いやはや、お恥ずかしい」と襟元からカマキリみたいなサングラスを外し、「話半分で受け取っておいてください」とサングラスをかけた。その後で、「行きましょうか」と夢子さんを促す。夢子さんは「はーい」と砂糖菓子のような可愛い声で答え、グラスに残ったモヒートを飲み干した。「じゃあねぇ」と席を立つ——と、同時に、すかさず洸太君も立ち上がり、「俺、これ持ってくっすよ!」と、夢子さんのトレーとグラスを手に取った。
「紗千香さん、食べてていいっすよ」
「え、でも——」
「いいからいいから」
洸太君は「ゆっくり食べててくださいね」と言い残し、「ちょっといっすか」と、テーブルを離れた。三人は銀色のプレハブ店舗の方へと歩いて行く。入り口手前にある食器返却口に洸太君がトレーを置き、そのまま三人は店舗の中へと消えてしまった。
洸太君は二人を車まで見送るつもりだろうか。一人取り残されたテーブル席。「はぁー」と重石のような息を吐く。視線を下げ、カレー皿に目をやる。不自然なほど赤い蟹の足から出た身が茶色に染まっている。ふやけた米粒に混じるブラックペッパー。ぷつぷつと黒くて小さな丸は、蟲に喰われた遺体の妄想を呼び覚ます。縮み始めた胃に手を添えて、もう食べる気にはなれないな、と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます