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 福山さんの運転する車で蛭子町内をぐるりと廻る。助手席には洸太君。後部座席にはチャイルドシートに座ったミチルちゃんと私。ミチルちゃんは車内で流れる童謡を口ずさんでいてご機嫌だ。反対に私はそわそわとお尻が浮いている。


 何度もみてしまう車の時計。

 運転席と助手席の間にみえる車の時計は午前十時を過ぎている。


 おばあちゃんに電話をしようと何度か思ったけれど、なんて言おうか迷っているうちにこんな時間になってしまった。福山さんにも時間のことを結局言えないままずるずると今に至る。口下手な自分が嫌いだ。それなら洸太君に言ってもらおうと思ったけれどそこにも問題があった。八時前に起きてきた洸太君からはなんとなくアルコール臭がして、まだ運転はしないほうがいいと思った。二日酔いでも飲酒運転になる。アルコールが完全に抜けるにはあとどれくらいかかるのだろうか。私が洸太君の車を運転することはできない。大きな車を操縦できる自信がない。


 ——はぁー。


 心の中で溜息を吐く。福山さんとルームミラー越しに目が合った。「大丈夫ですか?」と訊かれて「はい」と口角を無理やりあげる。心の溜息が聴こえたのかも知れない。雰囲気を壊してはいけない。私以外はみんな楽しそうなのだから。


 隣のミチルちゃんは白いワンピースから飛び出た足を揺らして楽しそうに歌っているし、洸太君と福山さんもスキューバダイビングの話で盛り上がっている。時々「さっちゃんこのうたしってるー?」とミチルちゃんに訊かれ「しってるよー」と答えるだけの時間が過ぎていく。

 

 車は『夕なぎ』の先に見えた街中を進んでいく。蛭子町は海に面した小さな街で三日月型になっていた。福山さんの家はちょうど三日月のお腹の辺りだろうか。住宅街を抜けて海沿いの道を走る。


 窓の外。空は相変わらずの曇天だけど、時々みえる海は昨日よりも落ち着いていた。


 蛭子町にコンビニはないらしい。「買い物をするならここで」と小さな商店。もしものための小児科の病院。そして、保育園。と場所を確認していく。保育園のお迎えからお留守番をお願いしたいと福山さんは言った。


 小さな保育園は比較的新しく、花や昆虫のイラストが壁に書いてあった。園児が少ないのか建物は小さい。園庭には水溜りができていて、誰もいなかった。


「その日はちゃんと保育園に行ってくれるといいんですが」福山さんが保育園の駐車場に車を停めやれやれと息をついた。「パパー、ミチルいかないよー!」すかさずミチルちゃんが隣で声を張り上げる。ぶんぶん身体を前後に揺らして抵抗している。「今日は行かないよ」福山さんは優しく言葉を返し、車を方向転換した。


 保育園に馴染めないんですと言った福山さんの言葉を思い出す。ミチルちゃんは今日も「いやだぁ」と駄々を捏ね、現在一緒に車に乗っている。


 車が保育園の駐車場を出たことで安心したのか、ミチルちゃんがまた歌を歌い始める。「ちょうちょー、ちょうちょー、ななはにとまれー」可愛い声が車内に響いた。「さっちゃんもごいっしょにー」と誘われて私も小さな声で歌う。歌って気づいたけれど、童謡『ちょうちょ』の歌詞はとても短かった。同じフレーズを三回歌い、次の童謡へと切り替わる。次の歌は『げんこつやまのたぬきさん』だった。


「おっぱいのんでーねんねしてー」手を重ねほっぺの横にくっつけてる仕草が愛くるしい。「またあしたー!」の歌声を聴きながら、おばあちゃんの家には昼までに戻ればいいかと腹を括った。どうせ電話をしてもまた茶化されるような気もする。そう思ったらそわそわする気持ちも消えてきた。シートに背を預け、ふー、と息を吐いた。


 ちらりと隣をみる。歌はまた最初に戻りミチルちゃんはおっぱいを飲んでる真似をしている。ふふっと頬が緩んだ。ミチルちゃんがこっちを向く。ミチルちゃんも笑っている。ミチルちゃんは私に懐いてくれている。悪い気はしない。好かれていることは素直に嬉しい。 


「それじゃあ、最後はここを——」福山さんの声がして窓の外を見た。どうやら公園のようだ。福山さん曰く、海沿いのこの公園は遊具が充実していてミチルちゃんのお気に入りだという。夏には海水を引き込んだプールもできるらしい。蛭子町で一番大きな公園とのことだった。


 公園の駐車場に入ると「いくいくー!」とミチルちゃんが歓声をあげた。「大丈夫ですか?」ルームミラー越しに福山さんに訊かれ今度は自然に「はい」と答えた。


 私たちは車を降りた。


 曇り空の下。公園内にはカラフルな遊具が見える。白いワンピースを蝶のようにひらひらさせてミチルちゃんが遊具に向かって走っていく。公園の入り口で振り向いたミチルちゃんが「さっちゃんもーはやくー!」と私を呼んだ。答えるために吸い込んだ空気は塩の味がした。海がすぐそこにある。嫌な感じだ。気分をあげるために「はーい!」と元気よく答えた。その声を海風がさらってゆく。


 ここは三日月のどの辺だろうと見渡した。『夕なぎ』の白い建物がすぐ近くに見える。岩戸トンネルに近い場所だと思ったら残念な気持ちがまた首を擡げた。二台で来ればおばあちゃんの家にはやく帰れたかもしれない。いやいやとかぶりを振る。過ぎたことはしょうがない。

 

 福山さんと洸太君はもう公園の入り口に向かって歩いている。私も歩みを進めた。


 公園の入り口には『海水プール』の看板が立っていた。看板横から階段が海へと伸びている。下を覗くと確かにプールがあった。小学校にあるような普通のプールと滑り台が入った小さい子用のプール。二つのプールは空っぽで、まだ海水は入っていなかった。プールの向こうは海。小石がごろごろした海岸に沿ってプールは造られている。


 海から吹き上げる風が鼻先を掠め「え?」と顔をしかめた。潮風に混じり異臭がした。生ゴミのような、腐った臭い。くんっと鼻を動かす。気のせいか。汐の匂いがするだけだ。それに海岸線はいろいろなものが流れ着く。きっとあの辺の海岸に何かゴミでも——、と、プールの向こうに視線を投げて「ん?」と声が漏れた。


 プールの向こう側。小石がごろごろした海岸に黒いモノがある。


 普通のゴミではなさそうだ。横長の、まるで海鼠なまこみたいな形をしている。大きさ的に考えて海鼠ではない。一メートル以上はありそうだ。なんだろうと凝視する。「え?」動いた。違う。波に揺れているんだ。波が黒い物体をふらふらと海岸に押し付けている。ヒュッと風が吹き異臭をまた運んできた。反射的に指で鼻先を抑える。酷い臭いだ。まるで動物が死んだような——


 つっ、背中の真ん中にささやかな刺激が走り、つぅー、首筋まで登ってくる。嫌な感触に腕の毛が逆立つ。毛穴がプツプツと盛り上がり皮膚を引っ張っていく。自分の妄想が良からぬ方向に進んでいる。あれがもしも昨日崖から落ちた人だとしたら——、と。


 ここは『夕なぎ』に程近い。崖から落ちた人がもしもあの黒いモノならば流れ着いてもおかしくない距離にある。


「紗千香さん?」背後から声がして「ぃやっ」と反射的に声が出た。心臓が飛び出そうだった。ゆっくり振り向く。洸太君がすぐ後ろに立っていた。


「どうしたんすか? 全然こないから——」


「あ、あのね」バクバクする胸に手を当てて「洸太君、あの、あれ、あれ見て——」口籠もりながら黒いモノのある方向を指さした。「え?」と洸太君が階段の柵から身を乗り出す。指はさしたまま顔を背け、洸太君に言う。


「あの、あそこにある、黒いモノって、もしかして……」

「黒いモノって、え? どれっすか?」

「ほら、あそこの、黒くて大きな海鼠なまこみたいな——」

「ん? どこっすか? なんもないっすよ?」

「そんなはずは……、だってさっきあそこに……。それに臭いが——」


「匂いっすか?」クンクンと鼻を動かした洸太君は「海の匂いのことっすか?」と、きょとんとした顔で私に尋ねた。私も鼻をひくつかせる。でも、もう異臭はしなかった。海岸を見る。黒いモノは消えている。首を捻る。見間違いだったのだろうか。それとも波がさらって行ったのだろうか。


 ——ちょっと目を離した隙に? ほんの数秒。そんな短時間に?


 あり得ないとまた首を捻った。私たちの様子がおかしいと思ったのか、福山さんとミチルちゃんもやってきた。ミチルちゃんはぶーぶー口を尖らせて怒っているように見える。


「さっちゃんこないー!」やっぱり怒っているようだ。福山さんが「もう帰る時間なんだよ」とミチルちゃんを宥めていた。


「おばあちゃんの家に帰るんでしたよね。すいませんでした」福山さんが私に謝る。「いえいえ、そうじゃなくて」手でひらひら否定して、その続きをうまく説明できず困った。洸太君が察して「なんか、見たらしいんすよね」と説明してくれる。


「あの辺で、なんか黒いモノを見たらしくて」

「黒い?」

「黒くて大きな海鼠みたいなやつを見たらしくて。紗千香さんあれっしょ。昨日の落ちた人かもしれないって、そう思ってそんな風にびくついてるんでしょ?」

「あ、うん……。そうなんだけど……」


「どれどれ?」海岸をみた福山さんも「何にもないですよ」と首を捻った。「漂着ごみはありますけどね」と付け加える。洸太君も「うんうん」と声を出して頷いている。なんだか居心地が悪い。嘘をついて咎められている気分になってきた。


「見間違いっしょ。それにその黒いモノが人ならばすぐに消えたりしないっすよ」


 微妙な空気に息が詰まる。「おお、もうこんな時間!」福山さんがオーバーに言って場の雰囲気を切り替えてくれた。


 渋るミチルちゃんを肩車した福山さんは「行きましょう行きましょう」と身体を揺らし車に戻っていく。白いワンピースが青い車に向かって小さくなっていく。洸太君に「紗千香さんも行きますよ」と言われ、私は初めて自分の身体が固まっていたことに気づいた。「うん」とあえて声に出し、足を踏み出す。


 変な感じだ。本当に見間違いだったのだろうか。汐の香りしかしないのに、鼻の粘膜にはまだ異臭がへばりついているような気がした。

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