第三章

 薄暗い山道。道路沿いには板張りの古い民家がぽつりぽつりと建っている。壁板は小さな丸い節々がぷつぷつと目立ち、それが無数の目のようで少し気味悪い。


 洸太君がハンドルを切りながら「幸江さんに色々と訊きたいっすよねー」と声を弾ませる。私とは反対に洸太君は始終楽しそうだ。それもそうか。この後の宿泊は福山さんの家で滞在費も浮く。福山さんと毎晩酒盛りをして——しかも高級なお酒だし——天気が良ければダイビングもするそうだ。洸太君の脳内にはフルーツポンチのようにカラフルな案件がぷかぷか浮いている。まさに浮かれポンチだ。


「福山さんとも仲良くなれたし。マジ最高の旅行っすよねー。来てよかったっすねー」


 ——旅行じゃないし。


「あの砂のこととか、祠のこととか。着いたら幸江さんに聞きたいこと山盛りっすよね」


 溜息が出る。ほんとやめて欲しい。その話も含めおばあちゃんの家に帰るのは気が重い。


「着きましたよー」


「ありがとー」と言いながらささっと車を降りる。「俺も」とシートベルトを外しかけた洸太君を手で制し「福山さんのお昼に間に合わないよー」とドアを閉めた。「えー」車内で洸太君が嘆いている。でもここは早々に退散して欲しい。家にあがったらきっと長くなる。バイバイと窓越しに手を振った。


 洸太君はウィンドウを下げて「それじゃあ、またっす」と笑い、車をバックさせた。お尻を向けた車の運転席から出た手がひらひらしている。私も手を振り返した。


 視界から青色が消えたタイミングで「はぁ」と嘆息する。洸太君が楽しくて何よりだ。


 ——でも。


 疲れ果てた帰還兵の如く、イチ、ニィ、サン、とゆっくり踵を返した。平屋の一軒家。玄関先の植木鉢には青々とした直立不動の紅葉が植っている。風が吹き、紅葉は呆れたようにサザザザザァと枝を振った。まるで私に「オーノー」と言っているようだ。


 気が重い。でもなんとか昼前には戻ってこれた。


 意を決して玄関の呼び鈴を押すと「開いとるよぉ」とおばちゃんの声がした。無用心にも程がある。でもこれがきっと普通なのだ。


 ふぅ。なるべく普通に。明るく元気に。それが一番だと「おばあちゃん本当にごめんねー」と声を出しながら家に入る。すぐに家の奥から「はやかったやないのぉー」と声が返ってきた。なんでもない声だ。ふっと肩の力が抜けて、「ホントごめんねー」と気楽な感じを装って居間に入る。


 おばあちゃんは座椅子に座ってお年寄り携帯をみていた。老眼鏡を鼻先にずらし「ほれほれぇ」と画面を私に見せてくる。手に取り見ると、お姉ちゃんの写真だった。昨日お母さんが私のLINEにも送ってきたやつだ。画像が荒い。


「あっちゃんは幸せそうやなぁ。良かったなぁ。良い旦那さんに嫁いでぇ。あ、ほんでなぁ、さっちゃんのスマホで見るともっと綺麗に見えるぅって、雪江が言うんやけどぉ」


「あ、うん。ちょっと待ってね」LINEを開く。スマホを手渡し腰を下ろした。おばあちゃんは「ほんまやぁ。大きい画面はえぇなぁ」と何度も言ってスマホを眺めている。「こうやって指で触ると次の写真に行くよ」教えると、おばあちゃんは「ほぉ」と口を丸くして「こうかぁ、こうかぁ」と指を画面の上で滑らせた。「綺麗やねぇ」「幸せそうやねぇ」「あっちゃんもお母さんかぁ」と嬉しそうに眺めている。


「雪江がなぁ、さっちゃんがここにおれば、産まれた赤ちゃんの写真も見れるよぉ、言うてたんやぁ」

「へぇ……」

「ほんやから、毎日送ったげるぅ言うて。テレビ電話もできるんやってなぁ。ええなぁ。楽しみやなぁ」


「あ」ちょうどお昼のサイレンが聴こえ「素麺でいいよね?」と、台所へ向かった。


「ほんやけどぉ、計画的無痛分娩でも、痛いもんは痛いんやろなぁ。薬もようけ使うんやろぉし、心配やわ。さっちゃんはどう思う?」


 台所の私におばあちゃんが言葉を投げる。「そうだねー」と受け止め、——産んだことないから知らないし。と、心の中で呟いた。カチカチとコンロの火をつけ鍋の中の水をみつめる。


 ——なんだかモヤる。


 腰は大丈夫だろうか、とか。手伝いに来たのに何もできず申し訳なく思ってる、とか。洸太君とのことを誤解しているだろうか、とか。重苦しい気持ちでいた自分がちょっと馬鹿馬鹿しく思えてきた。


 モヤっとする原因はおばあちゃんじゃない。お母さんがおばあちゃんに電話をかけて、私がいれば赤ちゃんの写真が沢山見れるなんて言ったことだ。


 ——確かにー。


 スマホの画面はお年寄り携帯の画面よりも大きい。それに画像も綺麗だ。拡大もできるし、ビデオ通話もできる。お母さんのひ孫を見せたい気持ちは分かる。分かるけどもなんだかモヤモヤしてしまう。ビデオ通話を沢山すれば私のギガ数は死に絶える。


 私は一体何なんだ?

 お母さんの都合の良い道具なのか?


 沸騰寸前のお湯を眺めながら素麺を袋から出し二人分を鍋に入れる。お母さんの都合の良い道具じゃないしと思ったらモヤモヤがイライラに切り替わってしまった。別におばあちゃんが悪いわけじゃないのに。


 だめだ。ご飯は楽しく作らなくては。


 麦茶でも飲んでクールダウンしようと冷蔵庫を開けたら、お惣菜の入ったタッパーがいくつか目に止まった。


「これ、山倉さんが作ってくれたのー?」

「そうそう。昨日ねぇ」


「ふぅん……」麦茶を諦めタッパーを取り出す。吹き零れ寸前の鍋の火を緩め、タッパーの蓋を開けた。昆布巻きとニシンの煮物。水菜と油揚げの煮浸し。赤く染まったミョウガの酢漬け。お料理ごとに分けてある。小さなタッパーに入ったお惣菜は一人分には多い気がする。二人分なのだと思ったら、イライラする気持ちが嘘のようにスーッと消えていった。


 山倉さんは私の分も用意してくれた。

 それが嬉しかった。


「よし」このお惣菜に合うような食卓にしなくては。


 小葱を切って生姜をすって。茹で上がった素麺の湯気を避けながら蛇口を捻る。じゃーと勢いよく出た水で素麺を洗って氷入りのガラス鉢へ。山倉さんのお惣菜を丁寧にお皿に盛り付けた。最後に「そうだ」と思いつく。


 食卓に並べたご飯を眺め、おばあちゃんは「さっちゃん、さすが料理人やわぁ」と私を褒めた。


「素麺茹でて、山倉さんのお惣菜盛っただけだけどね」

「盛り付けもセンスやでぇ」


「そうだ」と思い立って玄関先にある紅葉の葉を素麺鉢に浮かせたのが良かったらしい。


「ほんと、ちゃんとしてるわぁ。修行の成果やでぇ」


 擽ったい気持ちで素麺を啜っているとおばあちゃんが「わたしも買うてみよかなぁ」と唐突に言った。「ん?」と素麺を飲み込みながら訊き返す。おばあちゃんは「スマホ」とテレビを顎でさした。シニア向けスマホのCMがやっている。お得なプランを紹介するデカデカした文字が画面に出ていた。


「さっちゃんがいるうちにスマホの使い方教えてもらおうかなぁ、思うて。それやったらさっちゃんのスマホを借りんくてもえぇやろぉ?」


 それは良いアイデアだと賛成した。シニア向けのスマホは画面操作も簡単で基本料金もそんなに高くないはず。おばあちゃんの携帯会社をスマホで検索すると一番近くて武生市にあった。


「雪江にスマホにせんかぁってコロナの時に何回か言われたけどなぁ。携帯屋さんまで行って帰ってって、ほんなんなぁ、めんどくさくてめんどくさくて。ほやけどぉ、ひ孫の顔見れるって思ったらぁええかなぁ思って。ほれにぃ、さっちゃんが一緒やからぁ、百人力やぁ」


「百人力」は言い過ぎだけど悪い気はしない。それに簡単スマホの使い方くらいならきっと私でもレクチャーできる。早速昼から契約しに行こうと話は進み、私たちは昼食を終えた。


 洗い物を済ませ、おばあちゃんの軽自動車に乗り込む。おばあちゃんの腰も順調に回復しているようで、手を貸さなくても助手席に自分で座ることができた。


 薄化粧をして他所行き服に着替えたおばあちゃんはちょっと素敵だ。薄い紫色のお洒落サングラスも妙に似合っている。これならいつ私が名古屋に帰っても大丈夫だな、と思った。いや、そもそも山倉さんがいるし私はお呼びでなかった。それでも「百人力」だと言われたならば、せめて「十人力」くらいには役に立って帰りたい。


 スマホにナビを設定する。武生市までは車で三十分程度。蛭子町とは反対方向に山を下っていく。武生市は名古屋市に比べれば小さな町だけど、福井県では大きな町だ。ついでに寄りたいお店はないかと訊きながら、私は意気揚々とハンドルを握った。


 スマホの契約は意外とすんなり終わった。来る前にスマホで事前予約を入れていたからだ。おばあちゃんは「スマホは便利なもんやねぇ」と感心し「はよぉできんかな」と嬉しそうにしている。


 契約後、待ち時間が三十分あると聞いて、武生駅前のショッピングセンターへ立ち寄る。スマホで武生駅近辺のおすすめスポットを検索したら『本日生鮮市』をやっていると情報が出ていたからだ。なんと本日はお肉が特売価格とのことだった。買わない選択肢はない。「今日こそ私が夕飯を」とスマホでレシピを検索し夕食のメニューを決める。その様子を見たおばあちゃんは「本当にスマホは便利やわぁ」とまた感嘆の声を上げた。


「出る前にトイレに寄ってもええか?」と訊かれ同意した。家に帰るにはまだ時間がかかる。食品売り場は空調がきつく私もちょうど行きたいと思っていた。手伝う必要はないと言われ、各々用を済ます。


 今晩のメインはハンバーグ。それもラードを混ぜた肉汁溢れるハンバーグ。付け合わせは調理学校時代に何度も作った人参のグラッセにしようと心弾ませながら手を洗う——、と、スッと隣に黒い人影が現れ一瞬身を縮めた。


 恐る恐る鏡を見る。若い女の子。それもとびきり可愛い。前髪はミチルちゃんのようにぱつんと切り揃い、その下には血色の抜けた顔。目元が泣き腫らしたように赤い。大きな瞳に長い睫毛。人形のようだ。


 ——苦手なタイプ。


 視線を下げた。視界の隅でちらちらと彼女の様子を伺う。黒の長袖長ズボン。さらさらと艶の良い黒髪が洗面器に着きそうで気になってしまう。化粧直しをするつもりなのか、手に持っている口紅の色は黒だった。黒い口紅があるとは知らなかった。地雷メイクをする人専用の口紅なのだろうか。


「さっちゃん、お待たせぇ」


 はっと顔をあげる。おばあちゃんがハンカチで手を拭き拭き後ろに立っていた。「ほな、いこかぁ」ゆっくり歩くおばあちゃんに続きトイレを出る。出る間際、ちらりと視線を向けると女の子の横には小ぶりなスーツケースが立っていた。衣装が入ってるのかな、と、なんとなく思った。


 駐車場を出て武生駅手前の信号待ち。そういえば武生駅には来たことがないなと目を向けた。小さな三角屋根の駅舎にオレンジ色で『武生駅』と書かれている。駅前のロータリーには白いタクシーが数台停まっていた。平日昼間に駅を利用する人が少ないのか、人はまばらだ。サラリーマン風のおじさんに、白髪のご婦人が駅舎の黒い口に消えていく。


 ガラガラと石の擦れる音がして視線を動かした。目の前の横断歩道。黒い帽子と黒マスクで顔は見えないけれど、服装からして、トイレであった女の子だと思った。小ぶりなスーツケースを引いて、辺りをチラチラ確認しながら歩いていく。


 武生駅から都会へ行き、スーツケースの中の衣装に着替えて何かのイベントに参加する。そんな感じかなとまた勝手に想像した。可愛いく盛ったメンヘラメイクにコスプレに。私には一生関わり合いのない部類だ。


「さっちゃん青やぁ」

「あ、うん」


 信号を渡り携帯ショップへ向かう。ふと気になり武生駅を見ると、黒服の美少女は、もう駅の中に消えていた。


 




 


 


 

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