『居酒屋さっちゃん』のカウンター席。お土産に買ってきた薄っぺらいカレイの一夜干しはこんがりと焼かれ、芳しい香りがした。織部の皿に葉形の焼き魚が良く似合う。所々ぷくりと皮が膨れていて美味しそうだ。


 私の隣に座っている大柄な男性が「オー」と驚くように干物を指差し、一緒に来ているご婦人の方を向き直る。二人は英語で何か喋ったのち「イーデスカー?」とスマホを掲げて撮影許可を求めてきた。ぎょっとして、無言で頷く。自分が映らないように椅子をずらすと「すげぇ賑わってますよね」洸太君の声が頭上から降ってきた。


 まだ五時半だというのに『居酒屋さっちゃん』の店内は今日も満席で多国籍なお客さんで溢れている。ガガカッと椅子を引き出して隣に洸太君が座る。私も椅子を元に戻した。


「電話して席取っといてもらって正解でしたね」


 確かに。今もまた暖簾を潜り、ダメだこりゃと首を振って帰っていく人がいる。「すぐにでも働きに来て欲しいのよ」と片桐さんが言った理由が分かる。それでも店内の座席数は決まっているのだからこれ以上お客さんは入れない。料理を出すスピードがはやまれば回転数があがる、でもないように思えた。実際『居酒屋さっちゃん』の料理が出てくるタイミングは遅くはない。注文後、提供されるまでの時間に問題はない。


「やっぱ昼の弁当でしょうね」私の心が読めたのか洸太君が言う。「あとは仕込みっすよ」と付け加える。此処に来る道中「調理専門じゃないと働けないな」と私が溢していたからだ。


「心配ないっすよ」海辺の街ですっかり陽に焼けた洸太君が笑う。「うん」胸の奥が擽ったくてビールジョッキを手に取った。到着早々頼んだ生ビールは半分ほど飲み干して、なお冷えている。


「俺も飲みたいっすけどねぇ」洸太君は烏龍茶を啜る。ことんとグラスをテーブルに置くと「美味そ」と箸に手を伸ばした。カレイの背骨に沿って箸を入れ肉厚な部分を上手に剥がし私の小皿へ。ついで自分の小皿へ。福山さんの影響なのか、洸太君はやけに気が利く。いや、元々気が利くけれどなんというか、エスコート力が増している。それがなんだか擽ったい。 


「俺も呑んじゃおっかなぁー」小皿にのせたカレイの身には口をつけず洸太君は言う。そういえばお通しできた小鉢にも箸を伸ばしていない。赤い芋茎の酢の物は嫌いなんだろうか。


「呑んじゃダメっすかね」

「運転する人は呑んじゃダメだよ」

「車に乗らずに電車で帰るとか? 泊めてもらうとか」

「うーん。きっと駐車料金が凄いことになるよ」

「そっすよねー。都会の駐車場はお財布に優しくないんすよねー」


「あ、でも」洸太君が鞄から茶封筒を取り出した。「福山さんが交通費くれたんすよねー」と私に見せる。訊けば貰ってからまだ中身を確認していないと言う。「すぐに見るとか失礼じゃないっすか。それにずっと運転してたし」茶封筒の蓋をめくり、「まじか」と眉根を寄せた。洸太君が茶封筒からお札を引き出し「めっちゃ入ってますよ」と私に見せる。


 茶封筒から顔を覗かせたお札は三枚。それも一番位の高いお札だ。「すげっ」と洸太君も驚きを隠せない。私も驚いて目を丸くした。


「三万円って。ガソリン代に高速代、道中の食事代に人件費って考えても多いっすよね」

「うん……。いいのかな……」

「よし、呑んじゃお」

「え?」


「すいませーん!」止める間も無く洸太君がすぐそばの店員さんに声をかける。「生ひとつ!」と注文した。駐車場に朝まで。それも都会の。大丈夫かなと心配になったけど、でも、交通費は洸太君が貰ったものだしと、それ以上は何も言わずにおいた。


「じゃ、改めて」ジョッキを鳴らす。よほど喉が渇いていたのか、洸太君は一気にジョッキを空にした。「おかわりっ」と二杯目を頼み、芋茎の酢の物に箸を伸ばす。こいつ、はなから呑む気でいたんだなと、それを見て思った。やれやれと残りのビールを飲み干して、私も二杯目を注文した。


 ほどなくして白く凍ったビールジョッキを持ってきたのは、片桐さんだった。


 片桐さんは「お土産ありがとうねぇ」とジョッキをカウンターに置くと、「あら、ダメよぉ」と一夜干しに手を伸ばした。「縁側が一番美味しいのに」片桐さんの手でカレイの一夜干しが毟られていく。ぺりぺりと縁側を上手に剥がした片桐さんは「さっちゃんほら」と私の小皿に取り分けてくれた。箸ではなく手で毟った干物。一瞬凝視して、「ありがとうございます」と顎を引いた。


「縁側が一番ご馳走よねぇ」片桐さんは自分の分もペリペリ捲り口に頬張ると「うん、うん」と大袈裟に頷きながら「良いわ」と言った。


「うん、良い。カレイの縁側がカリカリしてて香ばしくって、うん、良いわぁ。ナイスやわぁ」

「そんな美味いっすか。気に入ってくれて良かったすよ」

「うん、良いわぁ。こうちゃんこれナイスやわぁ。今週末また越前行くんやろ?」

「そっすね。子守りバイトに行くんすよ」

「さっちゃんがすぐに働けないのは残念だけどねぇ」

「すいません……」

「良いの良いの。そんなんは。それにその福山さんって人は男手ひとつで女の子を育ててるんでしょ?」

「そっすね。可愛いっすよ。ミチルちゃんっていうんすけどね」

「男手ひとつで女の子を育てるのは色々大変よねぇ。さっちゃんがいればお風呂だって安心だし」


「風呂ですよねー」隣の洸太君をふっと見た。今日名古屋に帰ってくるまで洸太君は福山さん宅に泊まっていた。ミチルちゃんは洸太君に懐いているし、お留守番バイトに私は必要ないんじゃないかと思っていた。でもそうか。お風呂。確かに小さな女の子を親でもない成人男性がお風呂に入れるのはダメだと思う。だから私が必要なんだと今更気付く。


 片桐さんに「来週から来れるんでしょ?」と訊かれ、ジョッキに伸ばしかけた手が止まった。洸太君が「接客じゃなくて調理専門でいいんすよね?」とすかさず答え、私は手を引っ込めてこくこく頷いた。


「もちろんよぉ。それでね、このカレイの一夜干しなんだけどね——」片桐さんは『居酒屋さっちゃん』のメニューに加えたいと言う。


「オッケーす。じゃあ、今度行った時に仕入れ先見つけてきますよ」

「嬉しい〜! 冷凍で纏めて送ってくれるところがいいわ」

「了解っす」


 泡のように弾ける会話に入り込むスキルもなく、二人の話を聞きながら二杯目のジョッキに口をつけた。値段や干物のサイズ、その他のご当地グルメがあれば教えてなど、片桐さんの興味は尽きない。厨房は大丈夫なのだろうかと心配しかけたところでお呼びがかかり、片桐さんは「ゆっくりしてってねぇ」と嵐の如く去っていった。


「すご」と声が漏れる。私は本当に片桐さんと働けるだろうかと不安が擡げる。頭の回転や生きているスピードが違いすぎる。でも、おばあちゃんも洸太君がいる時はあんな感じだったし——と思い出して「あっ」と気付く。そういえば名古屋に着いたらLINEしてと言われていた。


「どしたんすか?」

「おばあちゃんにLINEするの忘れてた」

「あはははは。そりゃ大変。はやくしてあげないと」

「うん」


 鞄からスマホを取り出しLINEを開く。案の定おばあちゃんから《もう着いた?》とメッセージが来ていた。ハートを持ったウサギのスタンプも送られてきている。急いで《無事に着きました》と送るとすぐに既読がついて《ありがとう》と短い文章がやってきた。『グット』と変なスタンプも続けてやってくる。


「へぇ」と洸太君が私のスマホを覗き込んだ。距離感が近すぎて心臓が飛び跳ねる。軽く退けぞって「ほら」とスマホを見せた。


「幸江さんスマホ使いこなせてますね」

「あ、うん……。写真も送れるよ」

「へー! やるなぁ」


 私が作ったハンバーグの写真。小さな庭の小さな花々。山倉さんの写真はさすがに撮らなかったけど、おばあちゃんの好きなものの写真がいくつかLINEに届いていて、それらを洸太君に見せた。


 シニア向けの簡単スマホは本当に簡単で、おばあちゃんはあっという間に操作方法を覚え、「こんなんならぁ、もっとはよぉスマホにすれば良かったぁ」と言っていた。スマホを手に入れた翌日にはお姉ちゃんも無事に出産して、赤ちゃんの写真を見たり、ビデオ通話で話したりと、すっかりスマホの人になっている。


 時々文章と意味が合わないスタンプを送ってくることはあるけれど、それくらいは問題ない。おばあちゃんの家に行き「百人力」は無理だけど、「十人力」程度には役に立てたと自負できる。


「あぁあ、それにしてもあれっすね。心残りは砂っすよ」唐突に洸太君が言い出してスマホ画面の上で指が固まる。「幸江さん、なんだかんだ言って教えてくれなかったすよね」洸太君は自分のスマホを取り出した。画面をタップして私に向ける。


 画面には『浜なみ』で撮影した動画が静止して出ていた。せっかく楽しい雰囲気だったのに。心の風船に針が刺さった気分だ。


「なんか理由があるんじゃない?」

「その理由を知りたいんすよ」


「もう別にいいじゃん」スマホを鞄に仕舞い生ビールを呑む。


「いやぁ。気になるっす。今度行った時にまた訊いてみようかなぁ」


「それはやめよ」と説明する。福山さんの家でお留守番バイトをすることは言ってない。お姉ちゃんの産んだ赤ちゃんを見て、他人のお子さんを一晩預かることの重みに気づいてしまったからだ。言えばきっと反対される。


「そっか。内緒じゃ幸江さん家に行けませんよね。残念。あ、そう言えば海に潜った写真見せましたっけ?」


 洸太君の話題はダイビングに移ったようだ。


 見せてくれた写真は福山さんと一緒にダイビングした時のもので、良く撮れていた。船の上で黒いウェットスーツを着た洸太君と福山さんがピースサインをしている。「海に入れて良かった」と洸太君は嬉しそうに話す。


 船の写真から海の中の写真へ。瑠璃色の海の中、ごつごつした岩壁に差し込む光は美しく、つい「海の中は綺麗なんだ」と言ってしまう。


「そっすよ。越前海岸は日本屈指のダイビングスポットっす。あ、ほらこれ美味いやつ」


 シマウマみたいな石鯛の写真を見せて洸太君が戯けて笑う。「本当だ」と返すと「これも煮付けにすると美味いやつっすよね」と今度はカサゴの写真を見せた。なんだかおかしいし、可愛い。


「これ美味いやつだって思いながらダイビングしてたの?」

「そっすよ。サザエもウニもいましたよ。取ったらダメらしいんすけどね。あ、でもこれはすげぇレアですって」


「へえ」と今度は動画を見る。海の中、身体を妖艶にひるがえし蝶のように舞う物体はなんて生き物か分からない。黒くて蛞蝓なめくじみたいな——


「これは、海鼠なまこ?」

「海鼠は泳がないっしょ。これはウミウシっすよ。えっと、名前は……、なんか長くて覚えてないけど。ま、ウミウシっす。超レアらしいっすよ」

「へぇ」

「しかも泳いでる姿なんてなかなか見れないって。ダイビングショップの人も驚いてました。超ラッキーだって」

「ウミウシ、ね」

「そうっす。ウミウシっす。あれっすよ。ニュースで見たことないすか? ウミウシの頭を切ると数日で再生するってやつ」


 洸太君曰く、ウミウシの頭を切り取ると心臓が無いにも関わらず頭部は動き、数日で身体を元どおりに再生してしまうと言う。


「数日は言い過ぎっすね。ほら、これ——」と検索して見せてくれた記事には、一日で首の傷が治り、一週間で心臓が出来上がり、一ヶ月後には元どおりの身体になると書いてあった。


「すごいっしょ」

「うん」


「紗千香さんにも見せたかったなぁ」の言葉に「ふふっ」と笑みが漏れる。私は絶対海には入りたくないけど、そんなことを言う洸太君が愛しく思えてしまう。


 はたと気づく。


 ——いやいや。


 少し酔いが廻っているなと自制する。愛しいとか、そういうんじゃない。可愛らしいな、と思ったのだ。あどけなくて、子供みたいだな、と思ったのだ。


 納得するように無言で何度か頷いていると「なんすか?」と顔を覗き込まれた。「別にぃ」と返しビールを呑む。『居酒屋さっちゃん』のビールはまだまだ冷えていて、泡がしゅわっと弾けて美味しかった。


 


 

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