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 お堂の中にはもう誰もいない。壇上で蟲に喰われて踠き苦しみ、蠢いている黒い塊が何体かいるだけだ。ぺたんこになったお守りを握りしめ、恐る恐る足を踏み出す。思った通り、黒い蟲は私の周りを避けていく。


「山倉のおじさん……、山倉のおじさん……」


 震える声で名前を呼びながら足を進めていく。黒い蟲が、モーセの前で海が割れるが如く、私の進む道を開けていく。


「山倉のおじさん、山倉の……」


 砂嵐のような黒い蟲のカーテンが歩くたびに開かれていく。足元には脱ぎ捨てられた黒いマントがいくつも落ちている。車椅子の車輪が見え始め、もう一歩近づいて視線を徐々に上げていく。


 車椅子のステップ。真新しい藤色の、介護用の脱ぎやすい靴。肌触りの良さそうな優しい桜色の膝掛けに、骨ばっかりになってしまった灰色の染みだらけの指先。おひぃ様の黒い粘膜の下は、家族に愛され余生を生きる、ご老人の姿に見えた。


「さっちゃん、はよぉ逃げな」


 頭上から甘くて優しい声が降ってきて顔をあげる。執事のようにピシッと喪服をかっこよく着こなした山倉のおじさんは、顔にくしゃっと皺を寄せ、微笑んでいた。


「山倉のおじさんも、一緒に、いこ……」声に嗚咽が混じってうまく話せない。


「僕は、ここに残るよ」

「でも……、ここに、残るってなんで……?」


「この人と一緒に、最後までおりたいねん」山倉さんはそっと車椅子に乗っている老婆の肩に手をかけた。


「僕はこの人が産んだ最後の男の子なんや。もう、この人の子供で生きてるのは、多分僕だけやと思う。ほれになぁ、さっちゃん。この人がこんなミイラみたいになるまで生きとらないかんかったんは、僕のせいでもあるんや」

「僕の、せい……?」

「ほうや。僕が、氏神詣のお夜伽儀式が捏造されたもんやって知ってから、次々に次のおひぃ様候補を逃してしもうたからな」


「逃した……」


 ——じゃあやっぱり、美蝶子ちゃんも、美蝶子ちゃんのお母さんも、赤ちゃんだった美蝶留ちゃんも、山倉のおじさんが。


「おひぃ様になったら外に出れん運命なんや。ほれはな、さっちゃん。捏造ちゃうで。卑忌様は力の強い神様やで、一時も離れずお世話しないかん。そうしなあかんのや。だから、おひぃ様になったら、一生このお堂と岩穴の中で毎日毎日卑忌様を祀ってお世話をせなあかん」

「そんな……、一生って……」

「僕が次のおひぃ様候補を次々に逃してしもうたから、お母ちゃんは思った以上に長い間、生きておひぃ様をやっとらなあかんようになってもうた。

 おひぃ様がいなくなったら困る氏子が、あれやこれやと手をまわすもんでな。昔とちごて、死にたくても、死なせてもらえん時代になったんやと思うわ。だから、僕がお母ちゃんと一緒に、全部を終わらせなあかん」

「お……、おひぃ様も、一緒に逃げたらダメなの……?」

「あかん。お母ちゃんだけやのうて、沢山の念が渦巻いとる。全部、燃やして、一緒に連れていかな、みんな、みんな、怨霊になってまう。だから、もう終わりにするわ」

「全部……燃やして……」


「ほうや」と山倉のおじさんは微笑んだ後で、「卑忌様は——」と黄金の像を見上げた。私も同じように視線を向け、卑忌様の像を見上げる。頭から蝶のような触覚と大きな羽を生やした二対で一つの異形の神は、ぽっかりと空いた丸い穴のような目で、私を見下ろしていた。


「善悪なんてもんに興味なんかない神様なんや。ほれに、燃やしたくらい、なんともないくらい強い神様や」

「強い、神様……」

「ほうや。だから恐ろしい神様でもある。黒い欲のあるものが卑忌様に願をかければ、成就する代わりに代償も大きい」


「代償……」それは例えばなんなのだろうと、思った。でも、訊くのが怖かった。


「でもなぁ、さっちゃん」名前を呼ばれて山倉のおじさんの横顔を見た。山倉のおじさんは卑忌様の像を見上げたまま、「愛をな、」と今までにも増して、甘くてとろけるような優しい声で話した。


「あんま願う人はおらんかもしれんけど、愛を願えば、ずぅっと守ってくれる神様でもあるんやで」

「愛を、ずっと……」

「ほうや。本当の愛する心を持っとる人が、欲を出さず卑忌様をお祀りするとな、ずぅーっとずぅーっと、その人のこと守ってくれはる。その人の愛した人のことも守ってくれはるんよ。だから、この神様は二対で一つ。いつも身を寄せ合ってはるんや。欲を願えば代償はそれ相応のモノを捧げなあかん。でもな、愛を願えば、無償の愛で返してくれはる。本当は、それがこの卑忌様の一番の御利益なんやで」


 山倉のおじさんが私の方に顔を向けた。「お母ちゃんの受け売りやけどな」と笑った山倉のおじさんは、最近再会した七十歳のおじさんではなく、幼い頃洞穴厨房でプリンアラモードを作ってくれた頃のように若返って見えた。


「……ちか……んっ」黒い蟲の羽音に混じり私を呼ぶ声がした。


「さっちゃん、ほな、お別れや」


 嫌だと首を振る。


「あかん。もう、お母ちゃんも疲れてはる。もう、ゆっくり眠らせたって欲しい」

「でも、山倉のおじさんは……」

「言うたやろ? 全部終わらせるんや」


「さ……ちか……っすかー?」洸太君の声がさっきよりはっきりと聞こえた。


 山倉のおじさんは洸太君の声のする方に顔を向け、ふっと笑った気がした。私の方に視線を戻し「幸せやったんや」と泣いてるような笑ってるような顔をする。


「幸せ……?」

「おぉきいなったさっちゃんにまた会えて。一緒にご飯作ったり、夕飯食べたり、なんや、本物の家族みたいで、ほんまに、ほんまに、嬉しかった」


 おばあちゃんの家で一緒に台所に立ち山倉のおじさんからポテトサラダを習った。山倉のおじさんが作る優しい料亭の味付けに、調理人の先輩として尊敬できると思った。もっといっぱい習いたいって思った。それに、山倉のおじさんは、私の分までタッパーにお惣菜を作っておいてくれた。山倉のおじさんは、昔から、私をちゃんと見てくれた。


 だから、また、おばあちゃんと三人で食卓を囲み、テレビを見て笑って、ご飯を食べて——。


「私も、楽しかったよ……」嗚咽まじりの言葉とともに涙が溢れた。「また夕飯食べようよ」本心でそう願った。


「朝がくる前に、終わらせないかんのや」


「……ちかさん、どこっすかーっ」洸太君の声がまたする。蟲の羽音に混じる声はさっきよりもさらに明瞭に聞こえた。


 山倉のおじさんは洸太君の声がした方を向き、「あれが噂のこうちゃんやね」と嬉しそうに言い、私の方にまた視線を戻した。


「もう行きなさい。さっちゃん」言いながら、腰をかがめ車椅子に座るおひぃ様、自分の年老いたお母さんの手を握った。お母さんに向かって語りかける。


「お母ちゃん、長いこと、お疲れ様やったね。最後にさっちゃんも会いにきてくれたし、ほんまに良かったなぁ。僕はそれもほんまに嬉しいんや」


「ほんま、さっちゃんありがとな」山倉のおじさんが私の顔を見上げた。身体が自然に動いて、車椅子のそばでしゃがみ、おひぃ様の骨ばっかりになった手を握った。屍人のように、冷たい、冷たい、手。でもすべすべとした絹のような手触りのする手。何か言おうと思ったけど、何も言葉が出てこなくて、自分でもよく分からない感情で、ぽろぽろ涙が頬を流れていった。


 山倉のおじさんの大きな手が私の頭を撫でる。大きくて、ごつごつした、職人さんの手だと思ったら、また涙が溢れた。この手で何度プリンアラモードを作ってもらっただろうか。何度頭を撫でてもらっただろうか。流れていく頬の涙をごしごし手の甲で拭った。


 きっと、もう、山倉のおじさんには会えない。


「もう行き、さっちゃん。地下道の出口分かるか?」

「うん……看板を外して入ってきた」

「ほこに、幸江さんが迎えにきてくれてる」


「……おばあちゃんが?」山倉のおじさんの顔を見る。


「ほうや。さっちゃんは幸江さんの大事な孫なんや。守らなかんやろ。さぁ、行き」


 促され、立ち上がり、お守りを握りしめる。


「プリンアラモード……の、おじさん……」


「ははっ、ほの呼び方、懐かしいわ」山倉のおじさんは目尻を下げて思いっきり笑った。


「ほなね、さよなら、さっちゃん」山倉のおじさんが立ち上がる。おじさんがおひぃ様の車椅子に手をかけると、キィコ、と小さな音がした。


「さよなら……、おじ……さん、ありがとう……」私は微笑んで、洸太君の声のする方を向く。

 

 もう二度と会えなくても、私はずっと山倉のおじさんのことを忘れない。


 黒い蟲が舞う中に、私は足を踏み出した。


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