病院の送迎に食材の買い出し。お風呂掃除を終えて、一息ついた午後三時。ピンポーンと玄関チャイムが鳴りドアを開けると、肩から黒い鞄を下げた洸太君が立っていた。清潔そうな白いティーシャツにジーパン。今日はサンダルではなく、靴を履いている。それと、手には小さな紙袋。


「紗千香さん全然返信くれないから、おばあちゃんのお見舞い兼ねてやってきたっす。既読スルーだったんで、忙しいのかなって思ってたんですけどね」

「あ、それ。ごめん……」


 洸太君とのLINE画面を開いていたから、既読になってしまった。それは知っていた。でも、おばあちゃんは寝ていて訊けなかったし、そのまま『怪談スペシャル』の続きを視聴して、私も十二時前には寝てしまった。


「で、どうでした?」少年のような眼差しで洸太君が私に尋ねる。


「いや、あのさ——」言葉を探していると、背後から「あらまぁ〜、さっちゃんを乗せてきてくれた子?」と、おばあちゃんの張りのある声がした。


「ちわっす。急に押しかけてすいません。おばあちゃん、お加減いかがですか?」

「朝からさっちゃんがぜぇんぶやってくれてねぇ。それにだいぶ良くなってきたよ」

「良かったすねぇ。いいお孫さんですよねぇ」

「さっちゃん、ほんなとこで喋っとらんと。ほらほら、あがってもらってぇ」

「え?」


 ——そうか。


 失敗した。おばあちゃんは観光ホテルの元女将。結婚する前は芸妓さんだったと聞いている。おもてなしをする精神は健在で、お客様を玄関先で追い返すなんてきっとできない。小さな平家。居間から玄関まで丸見えなんだから、誰が来たのか確認してからドアを開ければ良かった。


 ——既読スルーするんじゃなかった……。


 後悔先に立たず。あの時、すぐに「ごめん、無理」とか、一言でも送っておけば良かった。と、思ったけど。返信していてもこうなるような気がした。洸太くんは『居酒屋さっちゃん』で話した時も古い観光ホテルに興味津々だった。


 ドアを閉めて居間に戻ると、洸太君はおばあちゃんの向かい側に座っていて、丸いちゃぶ台の上には白い箱が置かれていた。おばあちゃんが老眼鏡をかけて箱を見る。と同時に、「あらぁ」と顔を輝かせた。


「これはこれはぁ、上等なお菓子やないのぉ」

「今日は朝から武生市たけふしに行ってたんすよ。ここの和菓子、有名なんすよね?」

「お兄ちゃん、よぉ知っとるやないの」

「スマホで検索したら一番人気だったんすよ」

「スマホって、便利なんやねぇ。わたしはお年寄り携帯やからよぉ分からんわぁ。さっちゃん、ぼうっとたっとらんと。ほれ、これ持って。お茶入れて。熱い方がええなぁ。上等な和菓子なんやから」

「あ、うん……」


 おばあちゃんから和菓子の入った白い箱を受け取る。不思議だ。さっきまでは座椅子に座る七十代のお年寄り。そう思っていたおばあちゃんが今は十歳若く見える。私と二人の時とはまるで別人。営業モードスイッチオン。そんな感じだ。


 洸太君とおばあちゃんの会話に聞き耳を立てながら台所でお湯を沸かす。


「腰の具合はいかがですか?」

「もうだいぶ良くなってきてねぇ」

「歩いたりできますか?」

「寝たきりはあかんってお医者さんに言われてるんよ」


 などなど。

 二人の会話はポンポン弾んでいる。


 ——洸太君、接客も十分できるからなぁ。おばあちゃんも接客の元プロだし。


 昨日の山倉さんは職人気質な人だった。あまり多くは喋らず。でも、優しさが全身から溢れていて。だから私は居心地が良かった。


 ——でも。


 おばあちゃんと洸太君のリズミカルな会話。そこに入り込むスキルは、私にはない。


 二人の会話をBGMに、紫陽花を模した和菓子を小皿に移し、お茶を淹れて居間に戻ると、洸太君が私に「オッケーですって」と、嬉しそうに言った。


「オッケーって?」

「ホテル、中は入ってもいいって。おばあちゃん、あ、おばあちゃんじゃなかったですね、幸江さちえさんですよねぇ〜」


「さ、さちえさん?」思わず声が上擦る。おばあちゃんは「そうそう幸江さんやて」と手をパタパタ上下させて笑う。


「こうちゃんにまでおばあちゃんなんて呼ばれたらいややわぁ。幸江さんにしといてって、さっきこうちゃんに教えてあげたんや。ほら、お茶。こうちゃんにはよ出してあげて」

「あ、うん……」


 ちゃぶ台にお茶とお菓子を置いて座ると、洸太君が「旨そう」と和菓子を口に運び、「本当に美味しいっすね!」とまずは簡単な感想を述べた。その後で、もっと詳しい和菓子の食レポ。他にどんな和菓子が売っていたかという取材報告。「また買ってきますね」のような社交辞令——私にはそう聞こえた——を、ぽんぽん次から次へと繰り出している。そんな洸太君の話を聴いているおばあちゃんは凄く嬉しそうで、なんだか複雑な感情が湧く。


 ——でも、まあ、うん……、楽しそうならいっか。それよりも、だよ。まさか、ホテルの中に入ってもいいなんて……。


 おばあちゃんは平気なのだろうか。昔の自分のお城があんな廃墟になってるのに。それを人に見せてもいいだなんて。嫌じゃないんだろうか。


 釈然としない気持ちで楊枝を摘みあげ、和菓子を切り分け口に運ぶ。アメジストのようにキラキラした和菓子は、中の白餡が確かに品の良い甘味で、スッと口の中で溶けていった。お茶を啜り、和菓子の余韻を味わっていると、洸太君が「ごちそうさまでした」と湯飲みをちゃぶ台に置き、「じゃ」と私の方を向く。


「紗千香さん、早速行きましょう。まだ雨降ってないけど、はやくしないと、また昨日みたいに雨降りそうなんで」

「え!? 今から?」

「そう、今から。雨が降る前に行きましょう」


 今日はまだ、雨は降っていない。

 天気予報は夜から雨だと言っていた。

 それにしても今から——

 

 ——というか、なんで私も一緒に?


「幸江さん、お邪魔しました。腰、お大事にしてくださいね」


 私の返事を待たず洸太君がすくっと立ち上がる。「また来ますね」と、言いながら脇に置いていた肩掛けバッグを手に取った。大きな黒い肩掛けバッグは、なんだかずしっと重そうだ。


「ほらほら、紗千香さん、はやく」

「そのうち雨、降りそうやでなぁ」

「ですよねぇ。ほらほら、行きますよ」

「あ、え? あ、うん……」


 展開の速さについていけない。

 それに綺麗な和菓子も、もっと味わって食べていたい。


 ——でも。


 二人の視線が私に張り付いている。それを引き剥がすには私が動くしかない。

 残りの和菓子を口に放り込み、ぬるくなった緑茶で胃に流し込んだ。


「そやけど、本当にきぃつけなあかんよ。天井落ちてくるかもしれんしね。それにな、まぁ……、大丈夫やと思うで、まぁええか。とにかく、本当にきぃつけて。それと、さっちゃん夕飯は——」


 おばあちゃんと夕飯の相談をして、「スマホに財布、タオル——」と、必要最低限の物を持って家を出た。


 ぬるくて湿り気のある風が頬を撫でていく。汐の匂い。海は好きじゃない。私が一緒に行く必要はあるのだろうか。車を見る。青いワンボックスカーの運転席。洸太君は、はやくはやくとオーバーな手招きをしている。


「はぁ」ため息が出た。行くしかない。雲は今日もどす黒いグラデーションで、陽の光はみえない。この様子だと、天気予報よりもはやく、雨が降って来そうな気がした。



 


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