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 おばあちゃんの家から車で二十分。山道を下って海岸線を走り、小さな漁村を幾つか通り過ぎて、目的地である『浜なみ』に着いた。


 時刻は四時過ぎ。それにしては薄暗い。分厚い雲と鈍色の海。雑木ばかりの荒れた山に一体化した廃墟。ここに『浜なみ』以外の建物はない。


『浜なみ』があるのは蛭子町えびこちょうという小さな街で、景勝地として有名な東尋坊と越前海岸の間にある。『浜なみ』は越前海岸寄り。それも一番端の、海が広々と見渡せる場所に建っている。


 景観が素晴らしい人気の宿。夏は海水浴、冬は蟹。それ以外の季節も、日本海の味覚に舌鼓を打つ常連客や釣り人が訪れ、年中暇な時期がない。——と、お母さんは自慢げに言っていた。


 でも、今は——。


 濃緑色の蔦が六階建ての『浜なみ』を覆っている。客室の窓は所々割れ、二階にある展望風呂の窓は茶色く燻んでいた。お姉ちゃんと展望風呂に入っていたことを思い出す。


 窓の外は真っ暗な海と、月。時々、海と月との間に灯りが見える。


 ——紗千香、あれ見てあれ。あれね、漁火いさりびっていうんだって。

 ——いさりび?

 ——うん漁火。ああやって灯りをつけるとね、船に魚が寄ってくるんだって。昔は船に松明たいまつをくくりつけて、火をつけてたんだって。もちろん今は全部電気だけどね。でもね、たま〜に、松明の火をつけた船があってね。あのね……、それはね……


「幽霊船なんだって」と、お姉ちゃんは私を脅かした。「幽霊船が、あの光の中に混ざってるんだよ。それだけオレンジ色の光なんだって。あ、ほら。あそこ見て、あそこに——」畳み掛けるようにそう言って、泣き出した私を見て「怖がりすぎだよ〜」とケラケラ笑ってた。


 展望風呂に纏わる嫌な記憶。

 

 いま、その窓は茶色くなっている。

 あの窓からは、きっともう海は見えない。


「紗千香さーん!」洸太君の声がして、いまここに意識を戻す。車のウィンドウを下げ「なにー?」と答えた。洸太君は『浜なみ』の玄関でしゃがみ込み「ちょっと手伝ってくださーい!」と大きな声で呼んでいる。


「幸江さんから借りてきた鍵が刺さらなくてー! ドアの隙間がなくなるように手で押してくださーい!」


 車でここに来る道中、洸太君は私に言った。


 ——廃墟だし、なんかあった時ひとりだとまずいっしょ? だから紗千香さんは車で待機。緊急時の電話係。もしくはレスキュー隊的な? ね、それなら問題ないっしょ?


 これはその緊急時なのだろうか。


「はぁ、全く」独言ひとりごちて車を降りる。外は塩分を含んだ湿気でねっとりとしていた。嫌な感じ。今日は不快指数が高い。車内はエアコンが効いていたから余計にそう思う。


 ——あ、それと。


「エンジンつけっぱなしだよー!」

「ボタン押したら切れますよー!」


 やれやれとかぶりを振って、エンジンを切ってから洸太君の元へ向かった。


 見覚えのあるガラスの自動ドア。確かにドアとドアの間には変な角度で隙間ができている。洸太君はその前にしゃがみ込み、鍵穴と格闘していた。


 私に気づき洸太君が顔を上げる。頬には滴る汗と蚊に刺された跡。眉を八の字にしていた洸太君は「あざっす!」と破顔した。人懐っこい子犬みたいな笑顔。背が高いくせに童顔で、程よく筋肉質。高校時代のあだ名は『王子様』で、校内にファンクラブもあったらしい。本人曰くなので信憑性は薄い。学校内にファンクラブ。少女漫画の世界だ。


「ん? どうかしました?」

「んーと、ほっぺ蚊に刺されてるよ」

「え? まじ? あ、本当、なんか痒い。気づかなかったすよ。ああ、それより、ここっす。ここ押してください。そしたらきっとずれてるとこ直って、鍵穴に刺さると思うんですよね〜」


 廃墟侵入肝試しとは程遠い洸太君の言い方に免じて、「しょうがないなぁ」とガラスに手を当てドアを押す。ガラスは濁っていて、家紋のように付いていた『浜なみ』の白いロゴマークも、もうほとんど消えていた。こんな古いドア。きっと簡単には開かない。そう思っていたけれど、あっけないほど簡単に足元でガチャッと解錠音がした。


「おお〜、開いた!」洸太君は親指を立てる。「じゃ、次は——」と立ちあがりドアを手で押した。ジャリジャリッ。ジャリジャリッ。小さな音を立て、少しずつ、少しずつ、自動ドアが手動で開く。ガラス越しに見える濁った世界は、舞台の幕が開くように、横に横にとその輪郭をはっきりさせていく。


 伽藍としたロビーに家具はない。

 あの緑のソファも、一緒にあったテーブルも。


 ——こんな場所だっただろうか。


 物が何もないせいか、フロントがあるロビーは記憶の中のロビーとは別物で、狭く感じる。それに、床上浸水した後の家屋のように、床の大理石には砂が溜まっている。床だけじゃない。壁や天井も一度水に浸かったように汚れている。天井からは何本も電気配線がだらりだらりと垂れ下がり、それがまた異様な空間を作り出していた。


「廃墟っすね〜。でも、マシな方ですね。もっとごちゃごちゃゴミがいっぱいの廃墟沢山ありますから」

「そうなの?」

「そっすよ。廃墟にもいろいろあって。夜逃げしたホテルだと、家具とか食器とか他にも訳分かんないもん散乱してて。個人情報満載の宿帳とか支払い票とかそのまんま放置してありますよ。あと、悪い奴らが中を荒らしてたり。幸江さんが、引っ越す前に中の物は処分したって言ってたけど、本当、ちゃんとしてから閉めたんですね。そういう廃墟は結構珍しいっすよ」

「へぇ……」

「でもおかしいな。だとしたら余計に朽ち果て方が半端ない気がするし。数年でここまでになるかなぁ?」


 隙間から内部を見渡す。蔦に覆われた外観よりも館内の方がまだマシだ。でも、人が住まなくなっただけでこんな風になるものだろうか。


 昨日視聴した実話怪談を思い出す。

 空気が入れ替わらず湿気が充満した建物は朽ちるのが速い。

 動物が棲みつき糞や死骸が腐敗を進めるとも言っていた。

 見える限り、獣の死骸はなさそうだ。


 それに、あれは——


 ロビー突き当たり。でこぼこした岩肌。あの岩肌の右に進むとエレベーター。左に進むと秘密のドアがあって、それで——、と、色づけされた館内が脳裏に浮かびあがる。


 壁と同色の白くて重たい秘密のドア。

 その先の洞穴を利用した空間。

 白々しい蛍光灯と金属製の階段。

 山倉さんがいた厨房。

 それは本当にあったのか。


 白いホイップクリーム。

 赤いサクランボ。

 お姉ちゃんに内緒のプリンアラモード。


 薄暗い厨房の椅子に腰掛けて、足をぶらぶら揺らしながら食べていた甘い記憶。

 

 あれは幼い私が捏造した記憶だったのか。

 それが妙に気になってしまう。


「紗千香さんも一緒に行きますか?」洸太君に訊かれ返答に困る。昨日山倉さんと再会して、洞穴の厨房を思い出した。その記憶が本物なのか捏造なのか。この機会を逃したら自分の目で確かめることは一生ない。


「どうします?」スマホを片手に持った洸太君がもう一度私に訊く。秘密のドアはここからじゃ見えない。もちろんその先も。


 秘密のドア。

 その先にある洞穴の厨房。

 それだけ確認して車に戻ればいい。


「少しだけなら。気になる場所が、あるの——」

 





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