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黒板を引っ掻くような不快音に、思わず顔を
イヤホンで怪談系のYouTubeを聴くのは好きだ。生々しい怪談師さんの息遣い。呼吸音ひとつで表現する絶妙の間合いには、ハッと息を飲むこともある。でも、今聴いていた『怪談スペシャル』の一話ごとに流れるジングル音はいただけない。黒板を引っ掻くようなドアの軋み音は、イヤホンをしてる時は最悪だ。
外したイヤホンから男性専用脱毛サロンのCMが小さく聴こえる。目の前にある窓のサッシ。そこに立てかけておいたスマホ画面をタップして、YouTubeのCMを飛ばそうとしたけれど、『動画は広告の後に再生されます』と小さく書かれていて、手を引っ込めた。この場合、CMが終わるまで続きは再生されない。
それにしても——。
ここに来る前。洸太君と一緒に立ち寄った元おばあちゃんの家『観光ホテル浜なみ』と、どこかリンクするような怪談噺で聞き入ってしまった。心霊スポットに出向いていく恐怖体験も怖かったけど、「なるほど。そうか」と、思った。思っただけじゃなく、無意識に呟いていたかもしれない。
人の出入りがなくなった場所は空気の入れ替えがなく、溜まった湿気のせいで腐敗が進む。それに、隙間から獣が入り込み棲みつけば、糞もするし、死ぬこともある。その死骸や糞へ群がる蠅。蠅は卵を産み、その後は——と、想像して気持ち悪い絵面が浮かび、ぶるぶるっと首を振った。
妄想は置いておいて。人が住まなくなった家が廃墟になる理由が、少し理解できた。
でも——。
——本当に数年前までおばあちゃんが住んでたんすか? 朽ち果て方が半端ないっすよ? 俺、こういうの好きで、結構廃墟系のYouTubeとか見るんすよねぇ。だから余計に思うんですよ。これは数年って感じじゃなくって、数十年って感じの廃墟っすよ。
洸太君はタオルで髪の毛を拭きながらそう言っていた。
気になって引っ越した時期をおばあちゃんに聞いてみたけれど、返ってきた答えは、「おじいちゃんが亡くなった後だから、三年前くらい前かなぁ」だった。おじいちゃんはコロナが流行する前に亡くなっている。私もお葬式には出席しているから、おばあちゃんの話は間違いない。——と、思う。
「さっちゃん」と、私を呼ぶ声がして、振り返ると、壁を支えにしてスローモーションで歩いているおばあちゃんがいた。
「何回も呼んでたんだけどねぇ」
「ごめんなさい……」
イヤホンをしてたから気づかなかった。悪いことをした。「手、貸そか?」と、そばまで行くと、「いいからいいから」と、おばあちゃんは片手をひらひらさせて、ちゃぶ台のある居間へとゆっくり向かっていく。おばあちゃんが居た位置を考えると、トイレだな、と思った。悪いことをした。便座に座る時、肩を貸してあげれたのに。
おばあちゃんが居間の座椅子に座るのを見届けてから、スマホの動画をとめて洗い物を再開した。
おばあちゃんに呼ばれて、気付けないなんて、ダメだ。
今のおばあちゃんの家は平家で、玄関を入るとすぐに台所。お風呂やトイレも台所の近くにあって、台所を抜けると突き当たりに居間、その隣に和室がある。
幼い頃のおばあちゃんの家が大きな観光ホテルだったから、あまりの違いに最初はびっくりしたけれど、でも、お年寄りの一人暮らし。無駄な部屋はいらない。このサイズが、今のおばあちゃんにはちょうど良いような気がした。
それに——。
この家に来た時。先客がいて、驚いた。おばあちゃんは一人暮らしだと聞いていた。だから、ギックリ腰で寝たきり状態ではひとりで大変だと思った。でも、実際は手助けしてくれる人、それも、男の人がいた。
どっかで見たことがあるような、おばあちゃんと同年代のおじいさん。「うちの板場で働いていた山倉さんだよ」と、おばあちゃんに紹介されて、「ああ、そういえば」と思い出した。
白い割烹着を着て、ホテルの厨房で料理を作っていた人。名ばかり板長のおじいちゃんと違って、いつも包丁を握っていた人。山倉さんは昔、私にデザートを作ってくれたことがあった。生クリームと真っ赤なサクランボが乗ったプリンアラモード。甘くて美味しくて。そして、お姉ちゃんには内緒だった。お姉ちゃんは海水浴に行っていたから。
『浜なみ』は、山肌の岩盤を一部利用して建っていた。玄関を入って突き当たり。エレベーターホールの壁がその赤茶色の岩盤だった。
エレベーターの反対側には、厨房へ続く秘密のドアが隠れていた。
秘密というのは大袈裟かもしれない。でも、幼い私にはそう思えた。鉄製の、重たいドア。そのドアを開けると、白々しい蛍光灯がついていて、洞穴を利用した、ちょっと不思議な空間があった。暗がりに金属製の階段があって、カンカンカン、と、狭い階段を登っていった先が、厨房。
思い出してみると、導線的には最悪だし、あり得ないと思う。もしかしたら、幼い頃の私が、オーバーに捏造した記憶かもしれない。
そこにいつもいたのが、山倉さんだ。
背が高くて、優しい、関西弁のおじさん。プリンアラモードのおじさん。山倉さんは、白髪頭のおじいさんになっていた。でも、背筋はピシッと伸びていて、今でも別の厨房で働いていると言った。
今日の夕飯は、山倉さんのお手製で、どれもこれも美味しくいただいた。メバルの煮付け、あおさの味噌汁、地魚のお刺身に、きゅうりの酢の物。『居酒屋さっちゃん』のお料理は家庭的な味付けだったけど、山倉さんのお料理は、料亭の味がした。
夕飯を食べながら、やけに親しげな二人のやりとりを聴くうちに、私は何となく理解した。恋をするのに年齢は関係ない。きっとそういうことなのだ。二人は長年連れそった夫婦のように、いい感じの雰囲気を醸し出していた。
——
お母さんは、きっと山倉さんのことを知らない。もしくは、「おばあちゃんの様子を見てきて欲しいの。色々と、心配なのよぉ」の、中には、山倉さんのことも含まれている。
私的には、山倉さんがおばあちゃんのそばにいてくれて、良かった。二人は幸せそうだったし、同じ調理師として、山倉さんを尊敬できる。今日の夕飯は、丁寧な仕事をした味だった。愛情のこもった、優しい味だった。
山倉さんは夕飯の後、明日も仕事だからと帰っていった。「さっちゃんが居てくれたら安心やわ」と、言って。
山倉さんの安心になれるよう、これから一週間、頑張ろうと思った。
——それなのに、おばあちゃんに呼ばれても気付かなかったなんて、ダメダメだよ。
『怪談スペシャル』の動画は、ほどほどに。おばあちゃんが寝てる時に。そんな風に自分を戒めながら洗い物を終えて、スマホ片手に居間に戻ると、おばあちゃんは隣の和室で横になっていた。
夜十時。
おばあちゃんは、もう寝るようだ。
で、あれば——と、スマホをタップする。LINEが数件。お母さんからのLINEには、《おばあちゃん大丈夫そうです。一週間手伝って帰ります》と返信し、洸太君にも、《一週間いることになりました》と返信する。
洸太君のLINEはすぐ既読になり、次のメッセージがやってきた。
《紗千香さん、おばあちゃんのあのホテル。中も見てみたいっす。勝手に入っちゃあれなんで、おばあちゃんに中に入っていいか聞いてもらえません?》
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