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「でぇ? その人影がぁ、あっこの崖から落ちたのをぉ、えっとぉ、正近まさちかさんはぁ、見たんですねぇ?」

「はい。だから、あの、はやく捜索に。もしかしていまならまだ——」

「それとぉ、そっちのお嬢さんはぁ、渡邊わたなべさん、でしたかねぇ?」

「あ、はい……」


 仄暗い『夕なぎ』の駐車場。


 人影が崖から落ちた後、洸太君は急いで警察に電話をした。五分足らずでやってきたお巡りさんは、手帳片手にのらりくらりと同じ質問を繰り返す。その手帳も、私達二人の名前を書いただけでそれ以上メモを取る様子がない。


「あそこに行けば見つかるんじゃないですか?」洸太君が腕を伸ばし崖を指す。


「僕達じゃ役に立たないから、警察とか、救助隊の人とかが行けば——」

「ほんやけどぉ、あっこには行けんのやぁ」

「でも、あそこのトンネルの中にあの半島に行く分かれ道ありましたよね?」

「ほんやからぁ、さっきも言ったけどぉ、あっこは私有地やしけぇ、その家のもんしか行けんの。ほれにぃ——」

「ああっ。もうっ!」


 洸太君が髪を掻き毟る。気持ちは分かる。目の前で人が崖から落ちた。目撃した私達は「一刻もはやく救助を」と思っているのに、背の低い太ったお巡りさんは全く取り合ってくれない。地元の人なのか、やけに語尾を伸ばす喋り方も緊迫感がなさ過ぎて気に触る。


 洸太君が手摺りから身を乗り出し「あそこの崖から人が落ちたんすよ!」と、また同じ説明を繰り返す。


「ほんならぁ、もっかい聞くけどぉ、それは男の人? 女の人?」

「それは……。どっちなのか、こっからじゃ分かりませんでした……」

「若い人? ほれとも年寄り?」

「それも、分かりません」

「どんな格好しとったんかはぁ?」

「……分かりません」


「はぁ」大袈裟に息を吐き「渡邊さんはぁ?」と狸顔がこちらを向く。ニッと笑った口元に目が行き「えっ」と言葉が詰まった。嫌悪感が背中を這い登る。それにこの質問も、もう何度目。訊かれるたび返答に困ってしまう。


 人が崖から落ちた。それは確実に見た。黒い影は確かに人の形をしていた。でも、洸太君も私も、鬱蒼うっそうと茂る木の間からふらふら現れて海に落ちた人影が、男の人なのか女の人なのか、どんな人なのか分からない。私の場合は分からないというよりも、思い出せない。思い出そうとすると浜に書いた砂絵のように黒い波が消し去ってしまう。


 黙り込んだ私に、お巡りさんはない首を傾げて「覚えてますかぁ?」と再度尋ねる。強風で顔にかかった髪を手で押さえ「分かりません」と絞り出すと、洸太君が「とにかく船であの辺を捜索してみてくださいよ」と、お巡りさんに一歩詰め寄った。


「ほんやけどぉ、さっきもうたけどぉ、暗くなるしぃ、時化しけってくるからぁ、誰も船はよぉ出さんしなぁ」

「人が崖から落ちたんすよ?」

「ほんやからぁ、それは見間違いでのうて? えっとぉ、名前はぁ、正近さんって言いましたぁ?」

「ああもうっ! またそこからっすか?」


 洸太君がまた頭を掻き毟る。「はぁ」と嘆息し「だからですね」と、また二人の押し問答が始まって、自然と足が後ずさり、海に目がいく。


 お巡りさんが言うように海は時化り始めている。湿り気を帯びた風は強くなってきたし、鉛色の海は白い波飛沫を高くあげている。きっと雨が降り始めるのも時間の問題。


 洸太君とお巡りさんの向こうに見える崖。

 あの崖から落ちた人を助けて欲しい。

 でも——


 本当は分かってる。


 私が崖から落ちた人を助けて欲しいと願うのは、死の瞬間を見てない事にしたいからだ。


 私も洸太君も本当は分かっている。あの崖から落ちた人はきっと助からない。高い場所から海面に打ち付けられ、白い波に消えたのだ。助かる見込みはない。あの断崖絶壁を見れば誰もがそう思う。だからお巡りさんの言い分も分かる。死んだ人より生きている人の方が大事。助からない人の為に、暗くて荒れる海に船を出す人はいない。それこそ、ミイラ取りがミイラになる。


「だから本当に見たんですって」

「ほんやけどぉ」


 二人の押し問答はまだ続いている。

 それを波の音が掻き消していく。

 二人の話を聴こうとすればする程に、海が私の中に入ってくる。


 ざざぁんざざぁんざざざざざぁん

 ざざぁざぁんざざぁざぁんざざざざざぁん


 寄せては返す波の音。

 耳朶に流れ込む波音は絶え間なく。

 だんだんひと続きの音になっていく。

 鼓膜が波で圧迫される。


 私は会話に耳をそばだてるのを放棄した。聞こうとすればするほど波音が耳から脳に侵入し私の心を脅かす。


 ——海はやっぱり好きじゃない。


 陰鬱な気分で二人の様子を見る。洸太君の苛立ちは見て取れる。洸太君はだんだん身振り手振りが大きくなっている。


 びゅうっ。

 一際強い海風が吹いた。


「あっ……」


 お巡りさんの帽子が舞いあがる。風に煽られた帽子はアスファルトの上に落ち建物の方へと転がっていく。胡麻塩頭が帽子を追いかけていく。洸太君もその後を追っていく。帽子はころころ転がって、ライトアップされた『夕なぎ』の玄関前で動きを止めた。


 帽子を被り直したお巡りさんと洸太君は、その場でまた話を再開している。『夕なぎ』から出てきた家族連れがその隣を通り過ぎ、ちらっと二人の方に顔を向けた。お巡りさんがそれに気づき頭を下げている。きっと顔見知りなのだろう。


「はぁー」長く息を吐いた。見知らぬ土地の見知らぬ人と記憶が曖昧な自殺騒ぎ。きっと救助の船は出ないし、二人の話は纏まらない。ひとり海の近くに居るのがいやで、洸太君のそばに——、と歩きかけた。


 ——刹那。


「けんか?」子供の声がして振り返った。


 反射的に身体が固まる。

 古風な赤い服と長い髪。

 薄暗いアスファルトの駐車場にひとり。

 

 小さな女の子が立っていた。

 



 

 








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