2_2

 歳は五歳くらいだろうか。赤い甚平じんべい姿で、赤い鼻緒はなお草履ぞうりを履いている。胸まで届く黒くて長い髪。ぱつんと切り揃った前髪の、その下から覗く大きな瞳が、心配そうに私の顔をみていた。


 女の子は舌足らずな可愛い声でまた「けんか?」と訊いた。首をかしげ、じっとこちらをみつめてる。私はしゃがんで「違うよ」と答えた。


「ほんとぉ? おねぇちゃんと、あのおにぃちゃんがけんかしてるから、だからケーサツやさんが、なかなおりさせてあげるんじゃないの?」

「ううん、そうじゃないよ」

「じゃあ、なんで? なんでケーサツやさんが、ここにいるの?」

「えっと、それはね……」


 子供に自殺現場を目撃したとは言えない。言葉を探しあぐね困っていると、背後から「みちるー!」と男性の声がした。「パパッ!」と、女の子の笑顔が弾ける。振り向くと、眼鏡を掛けた男性がいた。こっちに向かって歩いてくる。


「パパッ!」


 女の子が私の横を通り過ぎる。柔らかな髪が私の頬を掠めた。シャンプーの甘い香り。お風呂あがりなのかも知れない。


 立ち上がって親子を見た。

 親子はすぐ後ろにいた。


 パパと呼ばれた男性は「もう、ミチルは〜」と口を尖らせている。フリをしている。女の子、名前は多分ミチルちゃんは、お父さんの足にしがみつき、短パンに顔を埋めてる。その頭をお父さんは優しく撫でていた。


「どうも、うちの娘がお手間をかけたようで」軽く頭を下げられ、「え、あ、全然、そんな……」と口籠る。初対面の人はどうも苦手だ。


 でも。


 とても優しそうなお父さんだと思った。頬にできた笑い皺。細いフレームの丸眼鏡は今時で、垂れた目尻にも笑い皺ができている。洸太君と違い身長がさほど高くないからなのか、その表情はよく見て取れた。


 見たところ三十代。お風呂上がりなのか風のせいなのか。髪は乱れているけれど、これもまた今時の髪型だった。どこか都会的。そんな印象を持つ。


 足にしがみつき、短パンの裾で顔を擦っていたミチルちゃんが、「パパ?」と顔を上げる。


「どこにいたの?」

「それはパパのセリフだよ? パパ、ミチルがいなくなっちゃったから、すごく心配して探してたんだよ?」

「だって、パパ、さきにいってていいよっていったよ?」

「それは、先に車に行ってていいよって意味だったんだけどなぁ」

「みちる、パパのくるまにいったよ?」

「ほんと? じゃあミチル、パパの車はどこかなぁ?」

「えっとね、あっこ!」


 ミチルちゃんが指を差したのは洸太君の青いワンボックスカーだった。ポツンと一台。外灯の下、青色が際立って見える。目印にと、警察が来る前にそこに移動したからだ。


「あぁ。なるほど。同じ色に形。なるほどなるほど。それでミチルはここにいたのかぁ。残念、ミチル。パパの車はあっちだよ」


 ミチルちゃんのお父さんが指差した方向は『夕なぎ』の建物前で、車が何台か駐車してあった。赤白黒に混じり青い車も見える。


「寝ぼけてたからどこに車を停めたか覚えてなかったんだね。それは、うん。パパが悪かったなぁ。美知留、ごめんね。それと——」


「うちの娘がお世話をかけてしまったようで」とお父さんは私の方を向いた。急いで手を降り「いえいえ、なにも」と答える。


「パパあのね、おねぇちゃん、おにぃちゃんとね、ケーサツやさんとね、いっしょにいたの」


「え? 警察?」眼鏡と前髪の間。お父さんの眉が微かに歪む。


「だから、みちるね、けんかしてるんだとおもってね、それでね、たすけてあげようとおもったの」


 怪訝そうな顔で「大丈夫ですか?」と訊かれて、「大丈夫です」と答えた。すぐに「喧嘩じゃなくて」と続け、言葉が詰まる。


 自殺現場を目撃してなんて、子供の前で言うことじゃない。どう説明しようか逡巡していると「あの」と声をかけられた。


「もしかして、おにぃちゃんと言うのは背の高い? 白いティーシャツの?」


 洸太君のことだ。


「はい。友達で。それで、あそこに——」と指さした場所に、洸太君とお巡りさんの姿はなかった。


「あれ? さっきまであそこに……」

「あ、じゃあやっぱり駐在さんといた方ですね。中でお見かけしましたよ。露天風呂がどうとか言ってたかなぁ。大変そうでした」

「大変そう……?」

「あの駐在さんなまりが酷いでしょ? というか、あれ、わざとなんですよね」

「わ、わざと……?」

「そう。わざと訛って喋るんですよ。余所者よそものには。僕はもう慣れましたけど、慣れてない人はあの変なイントネーションと語尾にイラッとしますよねぇ。話のテンポが噛み合わないっていうか、なんというか」


 ひかえめな風が吹き、ミチルちゃんの髪の毛をもてあそぶ。ミチルちゃんのお父さんは我が子の髪を撫でながら「僕は移住組なんで」と微笑んだ。


「で、今日は観光ですか?」

「あ、いえ……、あの、ちょっと用事があって……」

「この辺にお泊まりで?」

「あの、山の方におばあちゃんの家があって、それで……」

「それは大変だ」

「え?」

此処ここは高潮警報が出ると岩戸トンネルが閉まっちゃうんですよ。山の上ってことは岩戸トンネルを抜けた向こうの道ですよね? はやく出ないとこっち側に閉じ込められますよ」

「え……?」


 急いで海を見る。

 夕闇の中、白い波が見える。

 波はさっきよりも高く飛沫をあげている。


「どうしよう……」


 トンネルが閉まればおばあちゃんの家に帰れない。おばあちゃんは腰が悪い。それをサポートする為に私は此処に来た。


 ——それなのに。


 当初の目的を思い出し洸太君の姿を探す。

『夕なぎ』の白い建物はライトアップされ不気味なほど輝いている。


 その手前。

 暗がりの中、白い洋服が見える。


 洸太君だ。

 

 洸太君はこっちに向かって走ってくる。

 洸太君もトンネルのことを聞いたのだろうか。

 洸太君は「紗千香さーん!」と私の名前を呼んでいる。


 ぽつっ——


 鼻先に雨粒が落ちた。


 ぽつぽつっ——


 足元で小さな染みができた。

 大丈夫。

 まだ降り始め。

 まだ雨粒は小さい。

 まだ間に合う。


 そう思っていたけれど——


 走ってきた洸太君は肩で息をしながら、「トンネルが、さっき閉められたって……」と、言った。




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る