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 午後七時。

 おばあちゃんは電話の向こうで「若いもんは若いもんで楽しんでぇええよ」と意味深に笑い、「ほれじゃ」と電話を切った。


 正座していた足を崩し「はぁー」と長い溜息が出る。


 男女が出先で一夜を過ごす。何かあるんだろうな、と勘ぐるのは至極当然。「泊まるとこは小さな女の子のいる家だよ」と何度も言ってみたけれど、あまり効果はなかった。おばあちゃんが洸太君と私のことを誤解していると思うと気分が沈む。


 おばあちゃんにすぐ連絡すれば良かった。


 落ち着いてから電話しようと後回しにしたせいで、夕飯ギリギリの時間になったから余計に誤解された気がする。でも落ち着いて電話しなければ上手く説明できないと思ったのだから今更仕方ない。


 廃墟化した『浜なみ』の洞穴厨房に祠のようなもの。『夕なぎ』の駐車場で見た崖から落ちた人。トンネル閉鎖。今日は色々ありすぎた。


 はぁー。肺から絞り出すような息が出る。


 おばあちゃんにだらしない人間と思われただろうか。お母さんに男性と外泊はバレるだろうか。山倉さんは私がいて安心だと言ってくれたのにどう思うだろうか。 


 あれやこれやと考えれば考えるほど気分は沈んでいく。心はまるで沈没船。流れ込む海水で胸が重たい。


 でも、どうしようもなかった。


 沈む心に溺れまいと息を吸うと、井草の香りがした。天然のアロマはどこか落ち着く香り。ゆっくり鼻呼吸を繰り返しながら、畳の目を追う。沈没寸前なこの気分を紛らわせたい。


 大丈夫。

 泊まる場所はある。

 おばあちゃんも問題ない。

 山倉さんが来てくれる。


 青い畳の縁から縁へ。細かな目を数えながら気持ちを整える。イチ。ニイ。サン。シ、と数えていくうちにどこの目を見てるか分からなくなり顔をあげた。馬鹿馬鹿しい。数を数えても気持ちは浮いてこない。


 状況を再確認しなくては。


 いまいる場所は福山さんの家。日本家屋をリノベーションした室内は、元は茶室なのか床の間には華奢な筆の掛け軸がかっている。ひょろひょろした文字はなんと書いてあるのか分からない。読めない掛け軸を眺めながらまた溜息を吐き、ここに来るまでの事を思い出す。


『夕なぎ』の駐車場でトンネル閉鎖を知った私達は、なんとか向こう側に行けないかとあれやこれや考えた。でも無理だった。蛭子町を出る道は岩戸トンネルだけで、その他に出口はなかった。幾つかあった宿泊施設は急な宿泊に対して好意的ではなく、困り果てた私達を助けてくれたのはミチルちゃんのお父さん、福山さんだった。


 助かったと思った。


 洸太君の車はアウトドア向きでシートを倒して眠る事はできた。でも、海辺の街のどこかに駐車して一晩過ごすのは正直言って無理だった。海の音と雨の音。狭い車内で洸太君と二人きり。気の合う友人とはいえ、男性と一晩車の中。私にはハードルが高すぎる。


「幸江さん大丈夫でした?」背後から声がして振り向くと、洸太君が茶室の入り口で心配そうにこっちを見ていた。


「うん」と大きく頷いて立ち上がる。


「山倉さんが来てくれるから問題ないって」

「良かったぁ。まさか帰れなくなるなんて思ってもみなかったっす。それにしても警報がまだ出てないのにトンネル閉鎖って、ちょっと災害意識高すぎやしませんか?」


「しょうがないよ。だって最近災害多いし」さっきおばあちゃんに言われた事を口にする。


「俺のせいっすよね。雨いつ降ってもおかしくなかったのに、紗千香さん連れ出して。本当、すいませんでした」

「いいよ、もう」


 洸太君は自分のせいだと反省している。お巡りさんと話してる時、トンネル閉鎖の話を聞いたと言っていたから尚更そう思うのだろう。トンネルより救助を、と躍起になっていたと洸太君は何度も私に謝った。


 過ぎた事はしょうがない。


 茶室の電気を消して廊下を軋ませダイニングキッチンに戻る。白木の一枚板でできたお洒落なテーブルに福山さんは食事の用意をしてくれていた。ミートボールの乗ったパスタに地魚のアクアパッツァ。茹で卵がのったサラダは色とりどりの野菜で食卓を華やかにしている。ミチルちゃんは子供用の椅子に腰掛けて足をぶらぶらさせていた。


「すいません、なにから何まで」洸太君と頭を下げる。福山さんはエプロンを外しながら「困ったときはお互い様ですよ」と微笑んだ。


「それにミチルも喜んでるし。ね、ミチル」


「うんっ!」ミチルちゃんの笑顔が弾ける。足を勢いよく揺らしている姿に自然と笑みが溢れた。子犬の尻尾みたいだ。


「ミチルはいつも僕と二人きりだから、お客さんがいて嬉しいんですよ。だから気にしないでください。僕も話し相手ができて嬉しいですし。その代わり付き合っていただきますよ?」


 福山さんがワインボトルを持ち上げる。洸太君が「是非是非」とピンクのワインボトルを受けとってラベルをまじまじ見つめた。


「泊まらせてもらった上に、こんな高そうなワインまで。いいんすか?」

「もちろん。僕一人でボトルを開けるのは勿体無い気がしてたから、ちょうど良かったんですよ」


「紗千香さんも呑める口ですか?」と訊かれて「……今日は、やめときます」と答えた。私に今日会った人と呑み会できるスキルはない。


 ポンッ。洸太君が小気味良い音を立てて栓を抜き福山さんのグラスに注ぐ。グラスの中、美しい泡が弾けた。洸太君は自分のグラスにも注ぎ席につく。福山さんの向かいの席が洸太君。私はその隣でミチルちゃんの向かい側。


「では」と福山さんはグラスを掲げ「新しい出逢いに」と口角をあげた。それを真似してミチルちゃんは麦茶の入ったコップを「ではっ」と私に差し出す。


 カチン。


 麦茶の入ったコップとコップが戯けた音を出す。きゃっと肩を持ち上げ喜ぶ姿が可愛くて、さっきまで沈没していた心が急浮上し始めた。


 うじうじ考えていても仕方ない。

 

 ミチルちゃんは嬉しそうだし、福山さんと洸太君の話も弾んでいる。それにお料理も手が込んでいて美味しかった。泊めて貰ってその上食事まで。福山さんには感謝しかない。夕飯後、せめて洗い物をと申し出た。その方が気が楽だった。


 洗い物をしている私の背後では、洸太君と福山さんがダイニングテーブルで楽しそうに呑み交わしている。背中で二人の話を聴きながら洗い物をしていると、「まだぁ?」と可愛い声が足元から聴こえた。ミチルちゃんが私を見上げ「さっちゃんあそぼ」と「ぼ」の口のままこっちを見ている。瞳にはキラキラ星が散らばっていた。その顔が愛くるしくて胸がくすぐったくなる。実家も職場も大人ばかり。小さな子供と触れ合う機会が今までなかった。ミチルちゃんは食事をしてる時も「あのね、あのね」と私に沢山お話をしてくれた。懐いてくれてるのかな、と自然に頬が緩む。


「もうちょっとで終わるよ、待っててね」声をかけると「うんっ」とミチルちゃんは勢いよく答えた。古風な赤い服に抱えた青い絵本。『うみぼうず』の白い文字が見え隠れしている。


 お酒を呑んでなくて良かったと思った。絵本を読む大人が酒臭くてはいけない。そんな事を思う自分にちょっと驚きながら洗い物を片付けた。


 一間続きの隣の和室に移動して、ミチルちゃんに絵本を読む。『うみぼうず』に『うさぎのぴょんた』『おばけがくるぞ』に『おおきなかぶ』次から次へとミチルちゃんは絵本を持ってやってくる。


 そのうち眠たくなったのか、ごろんと畳に寝っ転がってお話を聴いていたミチルちゃんは寝息をたて始めた。その様子に福山さんが気づき、子供用の布団を持ってきてミチルちゃんを寝かせた。布団を挟んで腰を下ろした福山さんは「ありがとうございました」と私の顔を見る。


「ミチル、すっかり紗千香さんのこと気に入ったみたいですね」

「あ、えっと……。私の方が遊んでもらったみたいで」

「嬉しかったんだと思います。いつもは僕と二人きりだし、保育園にもなかなか馴染めなくって」


「そうなんですか?」意外だ。


「なかなかね。僕達は東京から来たし。僕の血筋は元々はこの街の出なんですけどね。だからといって余所者よそものには変わりないというか。もうすぐ一年経つけれど、子供は敏感だからまだ馴染めてないところがあるんですよね。こればっかりはしょうがないんですけど」


「お茶でも淹れましょうか」と福山さんは立ち上がり「それとも、もうアルコール解禁しますか?」と笑い皺をつくりながら和室の電気を消した。


 間接照明の灯るダイニング。テーブルに戻ると洸太君はすっかり顔を赤らめていた。ワインのボトルが一本。地ビールが二本。いつの間にかお洒落な小皿にナッツも出ている。


 まるでどっかのお店みたい。


 福山さんは自宅も自分でデザインしたと言っていた。漆喰の壁と古い板張りの床。シンプルだけど重厚感もある。雑誌で『素敵なリノベーション特集』があれば取材対象になりそうだ。


「なに呑みますか?」冷蔵庫を開けた福山さんに訊かれて、「じゃあ、あの、これを」と答える。程なく茶色い小瓶とコップがやってきて、「改めまして」と三人で杯を交わした。冷えた地ビールはホップが効いた爽やかな味でするする喉を通っていく。高級な味。自分で買って呑むようなビールじゃない。思わず「美味しい」と声が漏れた。


「美味しいですよねぇ。どれだけでも呑めそうですよねぇ。それにしてもほんと助かりましたよねぇ」洸太君はかなり呑んだのか語尾がだらしなく伸びている。


「洸太君、もうその話はいいからいいから」福山さんは全くと言っていいほど顔にも態度にも出ていない。


「紗千香さん、福山さんもダイビングするんですってぇ」

「洸太君はよほど海に入りたいとみえる」

「だって俺、その為にライセンスとったんすよぉ」

「でも明日の海は無理だろうなぁ。コンディションが悪いから」

「そっすかぁ。残念っす。福山さんとならいいダイビングスポット行けそうなのにぃ。でもまあ、明日は無理っすよねぇ、海に入って死体と遭遇ってのもやだし」


 洸太君の言葉で熱を持ち始めた胃が一気に冷える。空気がピンッと張り詰めて部屋の中に重々しい気配が漂った。


 思い出したくなかった。

 崖から人が落ちたことを。


「でもね、その話なんだけど」福山さんはテーブルに肘をつき顔の前で両手を組むと、少し真面目な口調で「さっきも言ったけど」と続けた。


「あの崖のある場所はね、蛭子町の氏神様うじがみさまを祀っている場所なんだよね。だから氏子うじこである町民も許された日しか立ち入れない。今日はその許された日じゃないから、あり得ないと思うんだ」

 




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