第二章
1
「いやぁ、それにしても凄かったっすね! 洞穴を利用した厨房なんて俺初めて見ましたよ。自然の冷蔵庫的な、そういう意味合いで作ったんすかね。それにしてもすげぇ〜廃墟でした。俺、感動っす! 来て良かったぁ〜」
『浜なみ』の駐車場を出てから洸太君はずっとこの調子だ。助手席の私は適当にそれを受け流している。
海岸線を走り、蛭子町の温泉施設まで後少し。夕飯の相談をした時、「ゆっくりしておいで」と、おばあちゃんがくれた入浴券は切り取り式になっていて、ちょうど残り二枚だった。茶色く日に焼けた入浴券はやけに古臭くて、現在使用可能かどうかは些か不明だけど、今はお金を出してでもお風呂に入りたい。
「紗千香さん、撮った動画あとで一緒にみましょうね。それにしてもっすよ——」
右の耳から左の耳へ。
洸太君の話を聴き流しお風呂のことばかりを考える。
身体中がベタベタしている。嫌な汗を掻いた。それをはやく流したい。汗だけじゃない。身体中に海特有の湿気が纏わり付いている。足も不快だ。足の親指と人差し指を擦り合わせるとジャリジャリする。床にあった砂は靴の中に入り込み、どうやら靴下の中まで侵入している。ねちねちした汗と砂。海水浴の後みたいだ。
時刻は五時半。
お風呂に入っても夕飯には十分間に合う。
『浜なみ』にいた時間は意外と短かった。洞穴厨房を出て向かった先、非常階段だった場所は、木の根っこが幾重にも入り込んでいて侵入不可だった。アスファルトの隙間から芽を伸ばし咲く花もある。太陽と栄養豊富な土があれば、樹木は壁や天井を突き破る程の生命力を発揮するのかも知れない。先に行けなくて洸太君は残念がっていたけど、私はそれで良かった。祠のようなものを見つけるとか、正直言って怖すぎた。
幼い頃、建物の大きさに圧倒された『浜なみ』は、横から見ると薄っぺらかった。映画のセットのようなハリボテの建物は裏山の形状に合わせて増改築したようだった。駐車場を確保する分、建物の敷地面積は狭く、その代わり上に高くした。客室数が増えればその分収入が増える。立地的に見ても、苦肉の策だったのかもしれない。山肌の岩盤は硬い。だからそれを利用して洞穴厨房を作ったと考えれば合点がいく。一階フロアはロビーやお土産売り場だったし、洞穴に客室は作れない。
おじいちゃんなのか、叔父さんなのか。おばあちゃんのアイデアで建てた『浜なみ』ではない気がした。おばあちゃんならもっと料理人に優しい厨房にするはずだ。
金歯を剥き出して笑う叔父さんの顔が脳裏に浮かび、自然と奥歯を噛み締めた。
——自分は働かず、遊び呆けて女子供を殴る最低な奴が考えそうなことだ。
山倉さんはあそこで働いていた。各階に料理を運ぶ運搬用のエレベーターは、確かあった。でもそれは人が入るサイズじゃない。山倉さんたち料理人は、魚や蟹の入った白いトロ箱を持って金属製の階段を何度も行ったり来たりしたのだろうか。だとしたら、それだけで重労働だ。厨房は食材の運搬に便利な場所にある方が合理的——
——だよね、どう考えても。じゃあなんであんな場所に……
「で、なんて名前の温泉でしたっけ?」
思考の網に声が引っ掛かり顔を上げる。いけない。行き先を「真っ直ぐ行けばあるはずだ」なんて適当に言っていた。
車はスピードを落としている。少し先に、煉瓦色の長靴を履いた老人が腰を九十度に曲げ、ゆっくりと道路を横断していくのが見えた。その向こうには二手に分かれた道がある。海岸線は一本道だとばかり思っていた。
右は山に向かって伸びる比較的新しい道。左は少し行った先に岩を掘ったトンネル。トンネルは半円に黒い口を開けていた。
「えっとね——」鞄から入浴券を取り出して『夕なぎ』だと伝える。「じゃ、こっちですね」と、洸太君はハンドルに乗せている顎で左の道を指した。ゴツゴツした岩のトンネル上部には『ようこそ蛭子町へ』と真新しい看板が付いている。その下に『公衆浴場夕なぎ→』の看板もあった。
このトンネルは記憶にない。『浜なみ』には展望風呂があったから、敢えてここには来なかったのかもしれない。
お爺ちゃんなのかお婆ちゃんなのか分からない老人が道を渡り、片手を微かに上げた。洸太君のハイブリッドカーは静かなエンジン音を鳴らして道を進む。トンネルに入る手前で何気なく視線を向けると、老人は多分、お婆ちゃんだった。レトロな黄色い風呂桶をお腹に抱えている。『夕なぎ』のお風呂帰りなのだと思った。
——やっぱり古い公衆浴場なんだ。
ヘッドライトに照らされたトンネルは思ったより長く、中でまた二手に分かれていた。左の道は暗闇。右の道はぽっかりと灰色の口を開けている。
「こっちですよね?」
「多分、明るいし?」
トンネルを抜けると空と海と大きな建物があった。半島のように海に迫り出した場所。広々と海が見渡せるその場所に『公衆浴場夕なぎ』は建っていた。整備された駐車場は広く、建物は比較的新しい。入り口の看板には『展望露天風呂』や『室内温水プール』『食事処』と書かれていた。
駐車場に車を進めながら「これってスーパー銭湯じゃないっすか」と洸太君が驚く。私もおばあちゃんから貰った入浴券が年代物だったから、古くて小さな公衆浴場だと思い込んでいた。それに、『夕なぎ』の向こうには家々が見える。山に伸びる道はこの集落を迂回していたのだと気づく。
駐車場に車を停めた洸太君が「へぇ」と声を漏らす。
「ナビで見ると、あの辺が蛭子町の中心なんですね」
ナビ替わりのスマホには『夕なぎ』の先に道路を示す線が幾つも伸びていて、その真ん中に『蛭子町役場』のアイコンも浮かんでいた。海沿いには宿泊施設のアイコンや学校のアイコンもある。
「さてと、じゃあ行きますか」洸太君がエンジンボタンに手を伸ばす。車内に流れていた音楽が消え、次いでピッピッと電子音が小さく鳴った。「露天風呂かぁ。雨もまだ降ってないし最高っすね!」洸太君がスマホと鞄を持って車を降りる。パタンと運転席のドアが閉まった後で「私は露天風呂には行かないな」と
生温かい風。汐の匂い。『夕なぎ』の向こうには、今にも降り出しそうな曇天の下、
そういえば——、と来た道を振り返る。
——あのトンネルのもう片方はどこへ続いているんだろう。
視線を動かすと、通ってきたトンネルの岩はさらに海へと迫り出して小さな半島になっていた。トンネルの左の道へ進むと、きっとあの半島に出る。この辺の海岸はでこぼこと岩が海に飛び出ているから別に不思議な光景じゃない。でも。
——道があると言うことはあそこにも人が住んでいる?
目を凝らす。頭に木々を茂らせた岩の半島。隆起した横縞の地層はまさに断崖絶壁で、波が打ち砕け一定のリズムで泡飛沫が立っている。きっとここよりも風が強い。海から吹き上げる風が岩山に茂る木立を大きく揺らしているように見える——
「え?」不意に声が出た。
目を凝らして見てみる。
気のせいか。
いや。
また動いた。
ふらふらとゆっくりではあるが何かが動いている。
獣?
それとも——
——人だ。
すぐに考え直す。
あんな場所に人がいる筈ない。
でも——
影はゆっくりと海に向かって進んでいる。無意識に息を止め凝視しているうちに、影は木々の間を抜け、どう見ても人だとわかる影になった。
——危ない。
心臓が早鐘を打ち始める。自殺。飛び込み自殺。あの人影は自殺しようとしている人だ。
——止めなくては。
咄嗟にそう思うけれど、喉が開かない。
声が出せない。
足も地面に張り付いて動けない。
歩いて行く。
人影が。
断崖絶壁の端へ端へと。
揺れながら確実に——
なのに私は。
固まって見ていることしかできない。
目の前で人が死のうとしているのに。
何もできない。
「嘘だろっ」洸太君の声がした。その瞬間パチンッと意識が弾けた。停止していた肺に空気が入る。洸太君を見る。洸太君は海の方へと駐車場を走りながら何か言っている。叫んでいる。私も反射的に身体が動いた。硬直が溶けた足を動かして私もその後を追いかける。
洸太君は叫んでいる。私は必死に足を動かしている。洸太君が駐車場の手摺りを跨ぎ、また叫ぶ。洸太君はあの人影を止めようとしている。できることなら私も叫びたい。でも、息が切れて声が出てこない。
それに間に合わない。
間に合う筈がない。
人影がいる場所は海を隔てた向こう側の岩山。ここから叫んでも波の音に掻き消されて聞こえる筈がない。それに洸太君の立っている場所も危ない。それ以上先に進んだら洸太君も落ちてしまう。手摺りの内側で洸太君越しに人影をみる。
洸太君が叫ぶ。
波が声を打ち消す。
洸太君がまた叫ぶ。
半島の先に立った人影は一瞬動きを止めた。
洸太君が振り返り私に向かって頷く。私も頷き返す。あの人は洸太君の声が聞こえたのかもしれない。洸太君はまた人影に向かって「やめろー」と叫んだ。
目を凝らす。
岩山の木々が風で大きく揺れている。あの人影がいる場所はここよりも風が強い。止まっていた人影がふらふらと身体を揺らし始めた。
ダメだ。
落ちる。
そう確信した瞬間。
人影はひらひら舞うように崖から落ち、白い泡に喰われて消えた。
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