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一宮から高速に乗り敦賀インターへ。そこからは国道八号線を直走り海岸線を目指す。しばらく走るとトンネルを抜け、海が見えてきた。
雨が降りそうな灰色の重たい空。
鉛色した日本海に泡立つ白波。
幼い頃は毎年夏に通っていた道。おばあちゃんの家へと向かう道。窓の外を見ていると、幼い時の記憶が蘇ってきた。
お父さんが運転する車の後部座席には、お姉ちゃんと私がお揃いのワンピースを着て座っていた。おばあちゃんからのプレゼントのワンピースは、蒼色で、白い蝶が舞っている柄だった。普段買って貰えないような余所行き服。薄くて軽い生地だった気がする。
車のトランクには水着や浮き輪、水中眼鏡にクーラーボックスが入っていて、おばあちゃんちにいく道中、お姉ちゃんは楽しそうに助手席のお母さんに話しかけていた。
——お母さん、今日久里山に行くよね? わたし、今年もあの沖にある岩まで絶対泳ぐんだぁ。お父さんも一緒に泳ぐよね? あぁ〜、楽しみだなぁ〜。はやくおばあちゃんの家、着かないかなぁ〜。
久里山海水浴場はおばあちゃんの家から車で十五分の場所にあった。砂浜ではなく小石がゴロゴロしている海水浴場で、水晶浜のようにメジャーな海水浴場ではなく、ちょっとマイナーな海水浴場だった。地元出身のお母さんに言わせると、砂浜よりも水が澄んでいて、魚が沢山いるらしい。実際、久里山海水浴場には子供用に岩で囲んだプールのような場所があって、潜ると岩の影に小魚が沢山いた。
私はその子供用に囲まれた場所でしか遊ばなかった。お姉ちゃんみたいに足が全くつかない海へと泳ぎ、岩によじ登って沖から手を振るとか、絶対に無理だった。いつだったか、一度無理やり浮き輪をつけられて「いくよ!」と引っ張っていかれたこともある。でも、足のつかない海の中。もしも誰かが足を掴んだら……と、想像すると、どうしても無理だった。
『
『犬山順治の夏休み怪談スペシャル』にテレビのチャンネルを変えたのはお姉ちゃんだった。その番組の中で、『海で死んだ人が、泳いでいた人の足を掴んで海底に引き摺り込む』みたいな怪談話をやっていた。それがあまりに怖すぎた。怪談系のYouTubeを好んでみる今の私なら、「よくある系じゃん」なんて軽く流せた気がする。でも小学校低学年の私には恐ろしすぎた。
——紗千香の怖がり〜!
あの日、お姉ちゃんは笑いながらそう言って、海に引き摺り込んだ私の手を離し、お父さんと一緒に岩山まで泳いで行った。お母さんは石ころだらけの浜辺でバーベキューの準備をしていて、泳いで行かなかった私を見て、「浮き輪があるのに、紗千香は
その瞬間。
私は海水浴なんて大嫌いだと思った。
そういえば一度だけ、お母さんの気まぐれで水晶浜に行ったことがある。有名な海水浴場は若者が多くて、お店屋さんもいっぱいあった。足元の砂はさらさらしていて、海水温度も高い。なにより海に入らなくても砂遊びができた。海水浴が水晶浜なら、行ってもいいと思ったかもしれない。でも、二度と水晶浜にはいかなかった。だからいまだに私は海水浴が嫌いで、海は苦手だ。
お母さんが「臆病ねぇ」と言った翌年の夏休み。
私は無駄な抵抗と知りつつも、「おばあちゃんの家には行きたくない」と駄々をこねた。しばらくするとおばあちゃんからプレゼントが届いた。あの、お姉ちゃんとお揃いのワンピースだ。ご丁寧に「これを着て見せに来てね!」とメッセージカード付きだった。
行かない選択肢は、なかった。
お姉ちゃんはとても喜んでいたし、それに、おばあちゃんが悲しむ。
あのワンピースを着た夏以降、海の記憶がない。あるのはおばあちゃんの家での怖い体験くらいだ。
もしかしたらあれが最後かもしれない。
お姉ちゃんが中学生になると、部活や塾で予定が合わず、結局おばあちゃんの家に行かなくなった。数年前に亡くなったおじいちゃんのお葬式も、武生市の葬儀場だった。
そう考えると、おばあちゃんの家に最後に行ったのは、お姉ちゃんが六年生の時になる。私は三年生。今年で私は二十六歳だから、かれこれ十七年間行ってない計算になる。
それなのに、車窓を流れる風景はあの頃の記憶のままだった。
見覚えのある建物。
大きな観光ホテルだった建物。
建物の向こうには砂浜が見える。
——砂浜近くのホテルなんて、昔は賑わっていただろうに……。
バスが何台も停めれる広い駐車場には雑草が生茂り、窓ガラスの向こうには破れた障子が見える。廃墟。まさにそう呼ぶにふさわしいと思った。この道を十七年前に通った時、あのホテルはまだやっていただろうか——。
ぼろぼろになった廃墟ホテルを通り過ぎると、小さな漁港が現れた。白い船が何艘か漁港に浮かんでいる。緑色の海面が見え、さっきまでよりもぐっと海が近くなった気がした。
車は小さな漁村を通り過ぎ、また海岸線を走る。越前・河野潮風ラインは、ぐねぐねと山の形状に合わせて伸びている。
海と空と山と、道路。
波が岩にぶつかって白い泡を吹く。
幾度となく繰り返す泡しぶきを見ていたら、やっぱり海が怖いと思った。
切れ間なく聴こえる波の音。
耳の奥へと侵入し脳を侵食する波の音。
波の音は私の心を襲いに来る。
夜の海は真っ暗闇で終わりがなく、月明かりに照らされた海面がゆらゆらと動いていた。海は大きな生き物みたいだった。世界中どこにでも行ける巨大なバケモノ。黒いアメーバのようなバケモノは防波堤を乗り越えて、私を連れにくる。私の口をその黒い身体で塞ぎ込み、ザザザザァと海へ引き摺り込んでいく。そんな妄想が浮かんで、私は海が怖かった。
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