元同僚の洸太こうた君から『呑み行かないっすか?』とLINEが来たのはお昼を過ぎた頃だった。


 お母さんの電話を受けた後、おばあちゃんちのことを考えながらスマホ片手にぐだぐだしていた私は、すぐに『行く』と返信していた。


 一人暮らしのアパートに引き篭もっていては、社会からどんどん置いていかれる。ルームライトの中で死んでいる虫達みたいにはなりたくない。どっかでそう思う自分がいた。光を目指し、閉じ込められて死んでいく。そもそもあの虫たちはなぜ光を目指したのか。食べるものがあるわけでもない。考え出したら気になって、スマホで『虫が光に寄る理由』を検索した。


〈 夜に活動するなどの昆虫達は、月明かりに対して一定の角度で飛ぶようDNAにプログラミングされている。月は遥か遠くにある為、自分がいくら動いても近づくことはできない。ひまわりが太陽の光を求め花の角度を変えるように、虫達も月明かりに向かって飛んでいる。そうすることで自分の今いる位置を確かめているのではないかと、一説では言われている。

 そう考えると腑に落ちる。

 人間が作った人工的な光を月明かりだと勘違いした虫達は、光に対し一定の角度で跳ぼうとして、その結果、電灯の周りをぐるぐる飛び続けることになる。目指す月にはいくら飛んで行っても届かない。届かないからこそ、自分の位置を見失わなかった虫達。だがしかし、手近な明かりに気を取られることで、同じ場所をぐるぐる飛ぶ羽目になり、抜け出せない無限ループに陥る。

 人も虫も、手近なところでなんとかしようと思うのではなく、定めた目標を追求した方が、幸せなのかもしれない。 雑学コラム:『虫は電気を月だと思っている?』 〉


 なるほど。

 分かったような分からないような。


 自分の位置を確かめるために遥か彼方の月明かりを目印にするはずが、一番近くの手っ取りばやい明かりを目指したために死んだ。あのルームライトの中で死んでいた虫達はそういうことなのか。


 ——そう思うと、なんか、ごめん……。


 別に私が悪いわけじゃないけれど、私が部屋の電気を点けなければ、あの虫達はあんな場所で死ぬこともなかった。もしかしたら満月のような丸い形も良くなかったのかもしれない。


 夜八時。

 待ち合わせのコンビニ前。

 薄紫の明かりを見ながら、やっぱり丸い形は関係ないなと思った。


 パチバチッ

 パチバチッチッ


 小さな虫が青白い光を放つ。命が爆ぜる様子を眺めながら、出かける前に調べた『虫が光に寄る理由』を思い出していると、「ご無沙汰っす」と、背後から聴き慣れた声がした。


「急にすいません」

「ううん、どうせ暇してたし」


 洸太君はラフなティーシャツに短パン姿で、日焼けしていた。年相応の若者に見えるのは白い割烹着姿じゃないからだ。それに、短く刈り込んでいたはずの髪の毛は、お洒落な髪型に整っている。私の心が読めたのか洸太君は、「俺も仕事辞めたんすよ」とさらりと言って、「じゃ、行きますか」と歩き始めた。


「辞めたの?」

「はい。もういいかなって思ってたんで」

「そうなの? だって、あんなに頑張ってたのに」

「もういいんすよ。親父みたいな板前になりたいって思ってたけど、コロナで実家の店も閉めちゃったし。今うちの親父、どこで働いていると思います? 高級老人ホームですよ、老人ホーム。京都で修行して、店構えて頑張ってたのに。料理屋畳んで、老人ホームの厨房が行き着く先だった。って思ったら、なんか俺冷めちゃって。まぁ小さな店だったし、借金がないわけでもないし。働かなきゃいけないんで、就職先があっただけ良かったんだと思いますけどね。でも俺的には、目指す場所が見えなくなったんですよね。それに、もう自分が跡を継がなきゃって責任もなくなったんで」


 洸太君は実家のお店を継ぐために調理学校に入り、そして、私と同じ職場で修行を積んでいた。調理学校には二年間通う製菓調理コースと、一年間通う調理師コースがある。私は製菓調理コース、洸太君は調理師コースで、一年年下の洸太君と私は同じ年に卒業し、名古屋市に店を構える日本料理店『かわで』に就職した。いつか実家のお店を継ぐために、厳しい職場で叱咤されても頑張っていたのに——。


 ——それがコロナのせいで、実家のお店がなくなったなんて。


「大変だったね」声をかけると、洸太君は「自由になった感じっす」とくったくなく笑い、「こっちっす」と、寺町商店街と書かれた看板下を潜った。


 夜の寺町商店街はそこそこな賑わいで、店先に置かれたテーブル席には顔を赤らめた人も結構いる。ここは古い商店街だけど、街づくりメンバーが頑張っているらしく、活気がある。

 昼間はお洒落なカフェに雑貨屋目当ての若者達。夜はイタリアンバルに焼き鳥屋、ジビエ料理やワインの専門店に来る大人達。昼も夜もバランスよく集客できている商店街で、市のホームページにも観光地として紹介されている。焼き鳥を焼く香ばしい匂いに鼻先を動かしながら歩いていると、目的の居酒屋へ到着した。


『居酒屋さっちゃん』の暖簾を潜る。

 三十席ほどの店内は結構な混み具合で、テーブル席に空きはなく、家庭的なお惣菜が並ぶカウンター席に二人並んで座った。『居酒屋さっちゃん』は洸太君の調理学校時代の同級生、片桐さんがやっているお店だと聞いている。洸太君も私も来るのは初めてだ。


「ようやく来れましたよ〜」洸太君がカウンターの中の片桐さんに声をかける。「あら、まあ!」と、片桐さんは作業の手を止めて「こうちゃんじゃない!」と、わざわざカウンターの中から出てきた。


 頭に藍染のバンダナを巻いた初老の女性。初老と言ったらきっと怒られてしまうけど、片桐さんは六十歳で調理学校に入学し、一年かけて調理師免許をとったおばさんだ。長らく闘病生活だった旦那さんを見送り、その後で第二の人生を歩くことにした。と、在学中に片桐さんから何度も聞いた。


「まあまあ、久しぶり。あれ、今日仕事は?」

「あ、俺辞めたんす」

「まあまあ、そうだったの。本当、いろいろ大変だったもんねぇ。うちもよく潰れずに持ち堪えたなって思ってるわ。本当に大変だった。あら、ご一緒の彼女は、あれ、見たことあるわよ。えっと、確か名前は——」

「あ、渡邊わたなべです」

「そうそう、渡邊さっちゃん! さっちゃんだったわよね?」

「はい、紗千香です」

「紗千香ちゃん。そうそう、紗千香ちゃんでさっちゃん。懐かしいわぁ。さっちゃんも今日は仕事お休み?」

「あぁ、実は私も仕事辞めてて……」

「えっ! そうなの! じゃあ今は何もしてないの?」

「あ、まぁ……。そうです、ね……」

「やだ。本当!? ちょうど人が足りなくって募集してるのよ。良かったらすぐにでもうちにこない?」


「え?」予想外の展開に固まってしまう。


 片桐さんは「昼も夜もたぁいへんなの!」と大袈裟な手振りで話を続ける。


「コロナが落ち着いたでしょぉ。そしたらほら、お客さんがどっとやってきて。インマウンドよ、インマウンド。外国のお客さんも多いのよぉ」


 インバウンドのことだなと、脳内変換しながら狭い店内に視線を動かすと、確かに店内には外国から来たっぽいお客さんがちらほらいた。


「娘がインスタでお店の紹介をしてくれてるんだけど、それがさ、ほら、日本の家庭的な味が楽しめる居酒屋って、なんか外国のホームページで紹介されたみたいでねぇ。うれしい悲鳴なんだけど、コロナの時に始めたお昼のお弁当販売も続けてるから、もう、忙しくって忙しくって。さっちゃんなら調理学校出てるし安心だもん〜。もうねぇ、片っ端から若い子たちにLINEしたんだけど、みんな仕事してるみたいでねぇ〜」


 なるほど。

 日本の家庭的な味が楽しめる居酒屋。

 それもカウンターにあるメニュー表を見る限り、価格もリーズナブルだ。「名前もさっちゃんだし! ちょっと考えといて!」と変な共通点を強調し、片桐さんは仕事に戻って行った。


「さっちゃんからLINE届いたとき、パッと浮かんだんすよね。紗千香さん今、無職じゃんって」

「あ、それで——」

「俺は実家暮らしだし、しばらく飲食店いいやって思ってるから」

「なんか、ありがと……」

「いやいや。ま、とりあえず、ビールでも頼みますか。すいません、生二つ!」


 ——気にしてくれてたんだ。


 洸太君は面倒見がいい。「板前の修行なるもの厳しくって当然だ」な、何時代だよと思うパワハラ的な職場でも、愚痴も溢さず働いていたし、後輩への気配りもできていた。反対に私は自分のことで精一杯だった。与えられた仕事を失敗なくこなすこと。毎日それだけを考えて働いていた。


「この辺のおすすめ適当に頼みますか」

「あ、そうだね」


 タイミングよくビールジョッキを持ってきた定員さんに、洸太君が注文を始める。どて煮にポテサラ、味噌おでんにだし巻き卵。カウンター上にある大鉢料理はどうやらお惣菜の盛り合わせで頼めるらしく、それも一緒に注文した。青菜のお浸しに肉じゃが。ひじきの煮物にがんもの含め煮。どれも家庭的で、なんだか心がほっとした。ここ最近、コンビニ弁当という日も多かった。


 料理のオーダーを一通り終えると「では」とジョッキを鳴らす。


 久しぶりの生ビール。炭酸きつめの冷たい生ビール。家に引き篭もっていては味わえない旨さで喉を潤すと、「ハァ」と吐息が漏れた。洸太君の誘いにのって家から出てきて良かった。お財布の中身は心配だけど、『居酒屋さっちゃん』の価格帯ならきっと問題ない。この店で働く。それも良いかもしれないと、もう一度店内を見渡してみた。


 確かに繁盛している。


 テーブル席は多国籍なお客さんで埋まっているし、カウンター席も満席。今暖簾を潜ったサラリーマン風のお客さんは満席なのを見て、残念そうに首を振り帰って行った。それに、ホールスタッフの女性のお腹はどことなく大きくて、もしかしたら妊婦さんなのかもしれない。と、そこまで観察して気づく。


 ——すぐに働くなんて無理だった。


 ぎっくり腰で動けないおばあちゃんを手伝いに行かなきゃいけない。それに、その手伝いがどれくらいかかるのか、未知数だ。


「ダメじゃん」と勝手に口から言葉が漏れる。洸太君がビールジョッキをカウンターに置き、「何がすか?」と訊いた。


「あ、えっと……。さっきの話。ほら、すぐにでも働けないかっていう——」

「ああ、ダメなんすか?」

「いや、働きたいなって気持ちはあるけど、ちょっと家庭の事情で……」


 正直すぐにでも飛び付きたい。片桐さんは気さくなおばちゃんだと知っているし、お節介だけど心根の優しい人だ。それにお弁当もやってるということは、接客じゃなくて、調理の方で働けそうだと思った。


 ——でも。


「おばあちゃんがね、ぎっくり腰になっちゃって。それで、手伝いに行かなきゃいけなくて。それがいつまでかかるか分からないんだよね」

「え?! それは大変じゃないすか。大丈夫なんすか?」

「やぁ……。よく分からないけど、実家のお母さんからは寝たきりっぽいと聞いてる」

「それは手伝いに行ってあげないと」

「うん……」


 ちょうど運ばれてきたお惣菜盛り合わせに箸を伸ばしながら、「行きたくないんだよねぇ」とつい本音を漏らす。肉じゃがの入った小鉢から人参を摘み上げ口に入れると、素材本来の優しい甘さに家庭的な濃い味付けが相まって美味しかった。


「なんで行きたくないんすか?」

「おばあちゃんち、怖い記憶しかなくってさ」

「怖い?」

「そう、怖い。今はもうやってないけどね、海沿いの古い観光ホテルをやっててさ、怖い記憶しかないんだよね。夜中に誰も乗ってないエレベーターが動くとか……」

「へぇ! 興味ある」

「えー。やだよ。本当にやだ。それに車がないと行きにくい場所で、私車持ってないし」

「え? 場所はどこっすか?」

「越前海岸の近くなんだけど……」


「え、まじ?」と、洸太君はスマホで検索し始めた。それを横目に、今きたばかりの味噌おでんを小皿にとる。赤味噌が芯まで染みた大根を突きながら「やだなぁ……」とまた心の声が漏れたところで、せっかくのご飯に失礼だと思い直した。美味しいご飯は楽しく食べなくては。箸を動かし口に含んだ大根は『ザ・名古屋飯』な味がして、白いご飯が食べたくなる。どうせなら天むすでも注文しようかな、と、メニュー表に手を伸ばしたところで、洸太君が信じられないことを言い出した。


「俺、一緒にいこっかな。車あるし、乗せてきますよ」


 


 


 










 

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