第一章
1
『いけない儀式』を視聴して、私は身震いをした。
一人暮らしのアパート。深夜にこんなものを見始めた自分を呪いたい。時間にすれば多分五分程度の怪談噺。黒い頭巾を被った海蛍なる怪談師の巧みな話術で、たった五分だったのに、すっかり『いけない儀式』の世界に没入してしまった。
閉ざされた村。
そこに根付く風変わりな信仰。
人肉の粉をありがたがって飲むなんて、想像するだけで
それに——。
YouTubeの怪談スペシャル。次の話に行く前に、再生ボタンを止めて正解だった。次の怪談師は元プロレスラーというガタイのいい男性で、顔にマスクをつけている。骸骨のような剥き出しの歯。吊り上がった目を縁取る赤い色。撮影する為の小さな照明がほんのりと蒼白く、それも
『夜泣き坂』
——夜、その坂を歩いていると、ひたひた、ひたひたと、誰かが裸足でついてくるような音が聴こえ、振り返ると、腰から下がないお婆さんが泣きながら両腕で立っていて……、的な?
まだ視聴してもいない怪談を勝手に妄想し「今日はここまで」と、スマホ横のスイッチを押してブラックアウトした。深夜に怪談はやっぱりダメだ。それになんだか気分も悪い。さっき視聴していた『いけない儀式』が実話怪談ということは、この日本のどこかに人肉を粉にして飲む人達がいるということ——。
「うわぁ。無理……」
無理だと口に出したらさらに胃のあたりがむかむかしてきた。見るんじゃなかったと思いつつ、でも、実話怪談のYouTubeは嫌いじゃない。むしろ好きな方かもしれない。怖い怖いと震えあがる感情の昂りは、ジェットコースターに乗っている時の感覚に似ている気がする。ガタガタと車体を揺らしながら空に向かってゆっくり進み、動きを止めた後、急降下する時の、あの、きゃーの感じが癖になる。それでもやっぱりこれ以上見るのはやめておこうと思った。それに、今日は朝からずっと雨が降っている。
——幽霊は水気を好むと、どっかで誰かが言っていたような……
雨の日の怪談噺は結構多い。冷たいモノが
「そんなことを言えば、このビールも贅沢品か」
缶の中、微かに残る金色の液体を口に含むと、苦いだけで全くもって美味しくなかった。そろそろ真剣に仕事を探さなくてはいけない。そう思ってはいるけれど、なかなか重い腰は上がらない。その理由はきっと実家のお母さんだ。
務めていた日本料理店が中国系企業に買収されると知らされたのは、二ヶ月ほど前のことだ。
老舗料理旅館を母体とした懐石料理店。調理学校を卒業してから私はずっとその厨房で働いてきた。三歳年上の姉と違い、私の頭はそんなに良くない。もちろん両親もそう思っていたはずだ。だから姉の時と違い、私に大学進学は勧めてこなかった。その代わり「手に職を」と、勧められたのが調理専門学校だった。
別にそれで良かった。
料理をすることは嫌いじゃないし、大学卒業後、華々しくキャビンアテンダントになった姉と違って、私の性格は接客業向きじゃない。どっちかと言えば、黙々と何か作業する仕事の方が向いていると自分でも思っていた。
就職して五年間。私は私なりに真面目に務めてきた。でも今は無職だ。一円もお金を稼げない無気力なただの肉だ。このアパートだって来月の家賃まではなんとかなるけど、早急に仕事を探さないとまずい。実家がある街まではそう遠くはないけれど、それでも出戻るのは絶対に嫌だ。
アルコールがまわったのか、頭がぼうっとしてきた。というか、考えるのをもうやめたい。ごろんと床に寝転がると、白くて丸いルームライトが真上にあった。
中心に小さな黒い粒々が見える。
あれはきっと虫の死骸だ。
あの虫達は光に吸い寄せられてあそこへ行き、そして出れなくなって死んだんだ。いつからあそこで死んでいるんだろう。そんなことを思っていたら、気分がさらに萎えてきた。
希望の光を目指した先が出口のない死だったとは——。
このまま無気力のままでいたら、そのうち社会からはみ出して、誰にも必要とされない存在になっていく。そんな自分が容易に想像できて、ルームライトの中の虫と自分の姿が重なる。
——これでも真面目に一生懸命やってきたのにな……。でも、私にやる気が起こらないのは、お母さんのせいだ。
そう思ったら今度は頭の中の靄がどっかに吹っ飛んで、グツグツと黒い怒りの泡が湧いてきた。別に運営会社が中国系企業に変わっても、私たち従業員は働き続けることができた。そりゃそうだ。その方が買収後もサービスの質を落とさずに運営できる。買収した側もその方がいいに決まってる。
でも、それを「やめときなさい」と言ったのは、お母さんだ。
「就職先の運営会社が中国企業に変わる」と言った私に、「そんな、中国人の下で働くなんて絶対にやめときなさい」とお母さんは言った。「専門学校だって何百万もかかったのよ」と、怒りまじりの声で付け加えて。そう言えば、パート先のスーパーで中国人と揉めた事があった気がする。そんな愚痴をいつだったか聞いたことがある。
「トイレットペーパーを全部持って帰ってくのよ!」だっただろうか。なんだったかはもう、忘れてしまったけれど。
それにしてもあの時の言い方はコロナウィルスのように刺々していた。中国人だって日本人だっていろんな人がいる。みんながみんな悪い人ってことはない。
それに、中国系の会社なんて今時日本中にゴロゴロある。コンビニもないような田舎に住んでいるせいなのか、ここら辺ではコンビニの定員さんだって多国籍なのに。私は職場を辞める必要なんてなかった。だから、今、私が無職なのはお母さんのせいだ。
——とはいえ、お母さんの言う通りにしたのは、結局自分なんだけど。
「…………」
「よし」なんとなく空元気に呟いて、気分を無理やりねじ曲げた。そのまま起き上がって冷蔵庫へ向かう。近所のコンビニの見切り品コーナーにあった缶チューハイ。確かそれがまだ一本残っているはず。と、冷蔵庫を開けて手にした缶チューハイのラベルには『紫蘇ふりかけのあの味』と小さな文字で書かれていた。
「…………」
失敗した。
紫色だから葡萄味。そう思い込んで買ってしまった。
「美味しいんか? これ?」独り言を言いながら一口飲んだ缶チューハイは、確かにあの紫蘇ふりかけの味で……。もういいやと、ぐびぐび一気に飲み干した。アルコール度数は9パーセント。とりあえず飲んでしまえば葡萄も紫蘇も同じような物だろう。それに『紫蘇ふりかけ』は紫蘇の中の紫蘇だ。紫蘇といえば『紫蘇ふりかけ』だ。なんて、どうでもいいことを考えてみた。
どうせ明日も仕事はない。日がな一日、スマホ片手に仕事を探してぐだぐだと時間を過ごし、気分転換に怪談スペシャルの続きを見ればいい。あの動画はかなり長いから、全部見終わる頃には、きっと再就職先も決まっているはず——。
飲み干した缶をローテーブルに置き、シングルベッドに寝っ転がると胃の粘膜にアルコールが染み込んでいくのが分かった。お腹の奥が熱くなる。アルコール度数の高い血液が身体中を巡っていく。目を閉じて浮遊する感覚に身を委ねると、私の脳味噌は電源を落とし、そして、お母さんからの電話で無理やり再起動させられた。
『
朝八時。お母さんは寝起きで頭の働かない私に開口一番そう言うと、こっちの都合も聞かずに長々と用件を話し、『じゃあよろしくね!』と言って、これまた勝手に電話を切った。
「え? 私まだ、一言も話してないんだけど……」
呆気に取られた。お母さんはいつも勝手だ。耳に当てたスマホが頬を熱したせいか。それともジメジメした湿気のせいなのか。寝っ転がったまま電話に出ていた私の頬はじっとりと汗をかいている。滲んだ汗で頬とスマホがくっついていた。そのままの体勢で考える。
さっきの話を断ることはきっとできない。
お姉ちゃんはもうすぐ出産で、お母さんは東京にしばらく行ってしまう。
無職で暇なのは家族の中で私だけだ。
頭では分かるけど。
でも、嫌だ。
それに私は、怖いのだ。
海辺の街の、おばあちゃんの家が。
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