第五章

「いやぁ、なんともなんとも、本当に助かりました。まさか、バッテリーがあがるだなんて、思ってもいなくて」


 福山さん宅のダイニングは、汗臭い熱気が充満し、思わず鼻を覆いたくなる。頭に黒いタオルを巻いた入道住職は、するするとタオルを解き、顔の汗をそのタオルで拭った。私は入道住職のファンではあるけれど、それは動画の世界だけで、リアル住職は苦手だと思った。


 体臭が、おじさん臭い。


「はぁー、それにしてもあの警察めっちゃムカついたわ」夢子さんが椅子に背を預け、何度目かの愚痴を吐く。夢子さんは話すたび、すえたアルコール臭を撒き散らしている。自分もビールを飲んでいるから人のことは言えない。でもそれでも分かるくらいに、夢子さんの吐く息は酒臭い。


 ——それに。


 そっと和室の襖を閉め、もうちょっと静かにして欲しいと微かな怒りが湧く。すぐ隣の和室ではミチルちゃんが眠ってる。このまま何事もなく朝を迎えたいと神経をすり減らしていたのに、この人たちの声はでかい。


 福山さん宅のダイニングテーブルには、入道住職と夢子さん、幽霊みたいな社長さんと洸太君が座って、バッテリーがあがった経緯などを話している。正確に言えば、あがる手前ギリギリでここに辿り着いた、なのだけど。話を聞いていて、そりゃバッテリーもあがるわけだ、と思った


 エンジンを止めてエアコンをつけ、スマホを充電し、さらに車は冷蔵庫完備。ついでに言えば、パソコンの電源も車から取っていたという。自業自得。本当に迷惑な人たちだ。


「紗千香さん座りません? 俺、立ってても良いっすよ」


 立ち上がりかけた洸太君に無言で首を振る。私は、夢子さんたちがやってきて、それぞれに麦茶を出した後は、和室の襖に背中をくっつけて立っている。一緒に座って会話に入るのはちょっと無理だと思ったし、後ろめたくて、胸がざわざわしている。


 この家の持ち主である福山さんは不在。なのに、知らない人を勝手に家にあげるとか、ダメだと思う。


 夢子さんたちが来る前、洸太君には「他所の家に勝手にダメだよ」と忠告した。でも、返ってきた答えは「大丈夫っすよ」だった。「お近づきになるチャンスですって。それに、すぐ引き取ってもらうし、本当に泊まったりはしないっすよ」と。


 洸太君は楽観的過ぎる。それに、泊まっていかないというのは本当だろうか。この先の時間を思うと、胸がざわついて落ち着かない。


 ——でも、それでも。


 洸太君がお近づきになりたい理由は、「自分のYouTubeチャンネルを成功させて、私との結婚資金を貯めるため」だと聞くと、それ以上は何も言えなかった。だから、せめて、ミチルちゃんが起きることなく寝てて欲しい。そう、心の中で何度も何度も祈っている。


 しかし、酒臭い夢子さんは相変わらず饒舌だし、洸太君もそのテンションについていっている。もう少しなんとかならないものかと、洸太君に視線を投げると同時に、「あれ?」と、夢子さんが唇に人差し指を当てた。


「誰か、携帯鳴ってることない?」


 全員が一同に口を閉じ、耳をそばだてる。ダイニングに、バイブレーションの振動音が微かに響いている。


「あ、私じゃないよ、ほら」夢子さんがド派手にデコレーションされたスマホケースを取り出して、画面を見せる。「わたくしでもないですね」入道住職も、黒革のスマホを取り出した。幽霊みたいな社長さんも首を振る。「俺でもないっすね」洸太君の言葉で全員が私の方を向いた。


 私は手元にスマホがない。冷蔵庫横の壁掛けフックにかけたポーチの中に入れっぱなしだ。


「えっと……」言葉を詰まらせながら急いで冷蔵庫前まで行き、ポーチに触れる。ポーチの中では、スマホが小刻みに震えていた。振動音が、やけに大きく感じられ、すぐにスマホを取り出し、画面を見る。


 刹那、さぁっと嫌な感触が頭頂部から流れ落ちた。着信はおばあちゃんからだ。手の中では、『おばあちゃん』と画面表示したスマホがブルブルブルブル振動している。


 ——どうしよう。出たくない。


 画面を見ながら固まっているうちに、スマホは振動を止めた。ほっとするも、またすぐに着信があり、震えだす。


 おばあちゃんには、今日蛭子町に来ていることは言ってない。時刻は十時半を過ぎている。いつもなら、おばあちゃんは寝ている時間だ。

  

 ——もしも、おばあちゃんに何かよくないことがあって、それで私にかけてきているのだとしたら。


 おばあちゃんは一人暮らし。そう思うと、電話に出ないわけにはいかない。


 覚悟を決め、「ちょっと、すいません」足早に薄暗い廊下に出て、「もしもし?」と、スマホを耳に当てた。


『さっちゃん、夜遅ぉにすまんなぁ』


 おばあちゃんの声が聞こえる。声からして、体調不良で電話をかけてきたわけではなさそうだ。


 ほっと胸を撫で下ろす。でもすぐに、心臓がバクバク波打ちはじめた。息を吸い、「うん、大丈夫だよ」と、通話口を手で覆って小声で答える。


『あんなぁ、ちょっと聞きたいんやけどぉ、ええか?』

「え、うん、どうしたの?」

『うん……、それがなぁ……』


 おばあちゃんは『えっとなぁ……』と、変な間を取りながら話をする。胸がきゅうっと縮み上がっていく気がした。イケナイことをして、これから叱られるような、そんな緊張感が全身を支配して、手が汗ばむ。


『えっとなぁ、まさかとは思うんやけど……』

「うん……」

『いま、どこにおる?』


「え?」身体が硬直する。「えっと……」言葉が詰まり、次の瞬間「家だよ、家」嘘を吐いていた。


『ほんまかぁ?』

「うん……、家に、いるよ……」


 ごめんなさい、と、心で呟く。


『ほんなら、名古屋におるんやなぁ?』

「うん、もちろんだよ」

『ほうかぁ……』


 心臓が締め上げられていく。平静を装おうとすればするほど、喉元を掴まれているような息苦しさを覚える。


 短い沈黙ののち、『こうちゃんは?』おばあちゃんが洸太君の名前を口にした。


 スマホを握りしめる。自然と眉根が寄っていき、中庭に面した歪みガラスに映る自分の顔に焦点が合った。亀のように、首が肩に竦んで、叱られる準備をしている情けない顔。ガラスから顔を背け、ダイニングの引き戸に目を移した。


 光の筋が縦に薄く漏れている。中からは、夢子さんと洸太君の楽しそうな声が聞こえてくる。カタカタ、背後でガラス戸が微かに揺れ、生暖かい風が頬を撫でた気がした。よくない妄想が四方八方から襲ってくる。『こうちゃんやけど』また、洸太君の名前が出てきて息を飲む。


『……あんなぁ、もしかしてやけど……、そこに、一緒におらんよねぇ?』

「うん……、もちろんいないよ……」

『ほんまにかぁ?』

「うん、本当だよ、いるわけないよ。やだなぁ、おばあちゃん、なんで、そんなこと聞くの?」

『うん……と、なぁ……。おらんなら、えぇんや。変なこと訊いて、さっちゃん、悪かったなぁ』


 カタカタ、また微かに窓を揺らす音が聞こえた。もしかしたら、どこか隙間が空いているのかもしれない。でも、いまそれを確かめる気にはなれない。


 電話の向こう、おばあちゃんは無言だ。


 スマホに耳を強く当て、様子を窺う。おばあちゃんは電話の向こうで沈黙している。まだ、何か言いたそうな気もして、私から次の会話を切り出せない。


「そうなんだぁ」扉の向こうから夢子さんの声が聞こえ、微かに漏れるダイニングの明かりをつい睨んでいた。「ダメっすかね?」何かを尋ねている洸太君の声も聞こえてくる。二人は楽しそうに、何を話しているのだろうか。ここからでは会話の詳細な内容までは聞き取れない。


 スマホを当てた耳に、おばあちゃんの溜息が聞こえた。『あんなぁ……』沈黙していたおばあちゃんが話し始め、意識をスマホに戻す。


『見たって人が、おってな……』

「え……? 見たって、えっと、何を……?」

『こうちゃんと、さっちゃんをなぁ、見たって、連絡くれた人がおって』

「えっと、それは、あの、どこで……?」

『トンネルの、向こう側やぁ。さっちゃん、まさか、ほんなとこに、おらんよねぇ?』

「おらんおらん、そんな、トンネルの向こう側になんて、いないよっ」


 知らず知らず声が大きくなっていた。小さな咳払いをひとつする。  


 おばあちゃんは、多分気づいている。気づいているけど、私が嘘を吐いているから、それ以上追求してこない。そんな気がして胸が苦しい。


 本当のことを言おうかと、悩む。でも、今更本当のことを言えば、私は嘘吐きな人になってしまう。嘘吐きだと、おばあちゃんに思われるのは嫌だと思った。先週手伝いに行き、私は面倒見のいい、できた孫になってるはずだ。


 ——でも、嘘はやっぱりダメかも知れない。


 おばあちゃんの顔が浮かんで、嘘吐きになりたくないと思った。今なら間に合うかもしれない。話してしまおうか、どうしようか逡巡していると、おばあちゃんは大きな溜息を吐き、『あの御守りやけどなぁ』と話を変えた。息を整えて「御守りって、こないだくれた赤いやつ?」できるだけ普通を装い訊き返す。


『ほうやぁ、あの御守りや。ちゃんと毎日持っとるか?』

「うん、持ってるよ。虫除けなんだよね?」

『ほうや。蟲避けや。大事な大事な蟲避けや。絶対手放したらあかんよ』

「うん、分かった」

『ほんで、誰にも御守りのことは言ったらあかんでなぁ』

「うん、言ったらダメなんだよね?」

『ほうやぁ、言ったらあかん。雪江にも、あっちゃんにも、誰にもあかん。あれは、おばあちゃんが、ずぅっと大事に預かってたもんやって、言うたやろ?』


「あ、うん……」覚えてる。お金と御守りを鞄の底から見つけた次の日、お礼の電話をかけて、御守りのことをおばあちゃんに訊いた。おばあちゃんは、「代々その家の誰かが預かって、受け継いだ人は、その存在を誰にも言ってはいけない大事なもんや」と、確か、そんなことを言っていた。


『さっちゃんやで、渡したんや。雪江でも、あっちゃんでもない、さっちゃんやで、渡したんや。さっちゃんなら、蟲に惑わされんと思ったから渡したんや』


「うん、その話は、覚えてるよ」お母さんでもお姉ちゃんでもない。私だから渡してくれた。それがなんだか嬉しくて、あれからずっと大事に鞄に入れて持ち歩いている。でも、いまなぜ、そんなことを——。


『ほんやでなぁ……』おばあちゃんは言葉を切った。沈黙が続き、気まずくて「おばあちゃん?」訊き返す。


『あぁ、うん……。ほんだけやぁ。あんなぁ、もしも、もしもなんやけどぉなぁ——』


 おばあちゃんは、私が名古屋の自分の家にいることを前提とした話し方で、『近づいたらあかんよ。蟲が這い寄ってきたら、取り憑かれて喰われてしまうでな』と言った。


「分かったよ……」

『約束してぇよ。絶対やでなぁ』

「約束するよ」


 おばあちゃんは『ほんなら、夜分に悪かったなぁ、おやすみ』と最後は優しく言って、通話を終えた。


 ほぅ、と、息が漏れる。強張った肩の力も息と共に抜けていく。


 ——取り敢えずは、これで良かったのかな。……それにしても。


 虫除けだと言って渡された御守り。おばあちゃんは御守りのことを『幸福をもたらす』とも言っていた。『虫除け』と『幸福』。二つの意味が噛み合わないような気がするのは、気のせいだろうか——。


 不意に、ギシィー、と床の軋む音が背後から聞こえ、反射的に固まった。


 いま、確かに床が軋んだような気が……。


 ギシィー

 ギシィー

 ギシィー


 ゆっくりしたスピードで、床の軋む小さな音が足裏から響いてくる。


 ——誰かがこっちに近づいてくる?


 でも、誰が。


 ダイニングから出てきた人は誰もいない。扉の前で、扉の方を見ながら通話していたのだから、誰も出てきていないことは私が一番知っている。


 生温く湿り気を帯びた廊下。静かな足音がだんだん私に近づいてくる。振り返る勇気はない。でも、もしかして——、と、福山さんの顔が浮かんだ。そういえば、前回泊まりに来た時も、福山さんはそうやって床を軋ませ、背後まで静かに近づいてきた。


 ——福山さんかもしれない。


 私が知らないだけで、洸太君と福山さんは連絡が取れて、福山さんが帰ってきたのかもしれない。もしもそうなら、また酷い顔を見られてしまったと、恥ずかしい気持ちも湧いてくる。


 ごく、喉がなる。

 大丈夫、きっと福山さんだ。


 ゆっくりと振り向き、薄暗い廊下、目を凝らす。廊下の先の闇の中、目が慣れてだんだんそのモノの像が結ばれていく。


 闇の中、人影が見える。


 縦長の、黒い人影は、玄関の方からゆっくりとこちらに近づいてくる。


 違う。

 福山さんの影じゃない。


 怖気が背筋を駆け下りていく。後ずさろうとして、身体が金縛りになったように、動かない。ゆらりゆらっ、揺れる黒い人影に目を凝らす。見たくないのに、目を逸らしたいのに、黒い人影を凝視してしまう。


 黒い人影は、長い黒髪を微かに揺らし、こちらに向かって歩いてくる。私のいる位置までほんの数メートル。俯き加減の、その人影の顔は見えない。いや、黒い髪の隙間から、白い肌が微かに見えたと思った。


 ——その刹那。


 黒い人影は立ち止まると、ゆっくりと頭を擡げ、長い黒髪の隙間から、血の気の抜けたその顔を露わにした。



 

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