頷くしかなかった。それ以外の選択肢は、どこをどう探しても見つからないと思った。


「本当っすか?! 本当にっすか?!」

「しぃー、声が大きいよっ!」


「あっ」慌てて口を塞いだ洸太君は「やっべ」襖の向こうに目をやって、「大丈夫そうっすね」と肩を竦めていた。その様子に笑えたし、ちゃんといつも通りの私たちで、意外となんとかなるかもしれないと思った。


 それに。


 改めて椅子に座り直し、私の手を握って「大事にします」と言った洸太君の手は、指先の皮がごつごつ硬くなっていた。焼き台に立つ姿や、魚を捌く姿や、栗の鬼皮を剥く姿を思い出し、改めて、洸太君のことが好きだと思った。


 ——いつか、店をやるなら紗千香さんと。


「いいと思うよ、うん」


 ふふふっ、笑みが漏れた。私たちは気が合うし、二人とも調理師免許を持っている。だからきっと、うまくやれる。


 私、いま、幸せかもしれない。


 幸福という名の浮遊感が千鳥足で全身を歩きまわっている。少し酔ったのかもしれない。だからなのか、妄想が膨らむ。


 もしも——、と思う。


 洸太君が言うように、この先ずっと別れることなく一緒にいられたら。そのうち結婚して、お姉ちゃんのように可愛い赤ちゃんを産んで、住居一体型の店舗で育児をしながら洸太君と一緒に店をやる。住む家は、福山さんの家のような家がいい——、と、部屋の中を見廻しながら、妄想が未来へ未来へと進み、そういえば、洸太君の実家は店舗と家が一体型だったかも知れない、と思い出す。もしかして、洸太君の親と同居になるだろうか。でも、その方が家賃は浮くし——、『お金』の二文字が頭に浮かんで、はっと正気に戻る。


 現実はそんなに甘くない。


「二人とも無職だった……」


「無職」と口にした途端、一瞬にしてどん詰まりのような暗澹たる気持ちが湧いてきた。私は『居酒屋さっちゃん』で働くと言っても、バイト採用。洸太君はというと、まだ当分仕事はしないと言っていた。


「結婚とか、無理じゃない?」ネガティブ思考が出てしまう。いやいや、頭を振る。「まだ結婚しないし」当たり前だ。今日付き合い始めたばかりなのだから。それに、お金がなければ結婚なんてできない。洸太君だって、それは分かってるはずだ。今は、そんなことよりも、洸太君が私の彼氏になった。そのことを喜ぶ、というか、この状況に慣れること。そこからだ。


 ——それにしても。


 廊下へ続く白木でできた引き戸を見る。

 洸太君はまだ戻ってこないのだろうか。


 手を握られていい雰囲気——と思うのは私だけではないはず——だったのに、洸太君のスマホがポケットの中で震えて、その電話に出てから洸太君は戻ってこない。中庭に出て話している相手は、夢子さんだ。


「もぉ」苛立ちが腹の底からふつふつと小さな泡になって喉元まで上がってくる。こういう気持ちをヤキモチと言うのかも知れない。でも、もう五分以上は経っている。「三年分の片思いが実ったっす」なんて言っておきながら、すでに私のことをほったらかしている。


 様子を見に行こうか、と腰を浮かせ、やっぱりやめよ、と腰を落とす。ヤキモチを焼いてるなんて思われたら癪に障る。


 ——でもなぁ、夢子さんはアイドルばりに可愛いし。


 思っていたら、引き戸が縦長の黒い口を開けた。「すいません、ちょっと長くなっちゃって」洸太君が部屋の中に入ってくる。目を逸らす。「いいよ、別に」つい尖った口調になってしまう。


「紗千香さん、なんか怒ってます?」

「ううん、全然。で、夢子さんなんだって?」

「あ、あぁ、ちょっと困ったことになってるみたいで」


「中涼しいっすねー、外、蒸し蒸しっすよ」洸太君が隣に座り、テーブルにスマホを置いた。ブラックアウトした画面が上だ。


「で?」

「あー、なんか、車の調子が悪くって、バッテリーかもとか言ってて。それで、俺の車から電気取らせてもらえないかなって」

「え、じゃあ、今から夢子さんたちのところに行くの?」


「それも考えたんすけど」洸太君は言いにくい話なのか、ちょっと考えるような素振りをしてから、「実は——」と話し始める。


「途中で警察がやってきて、話が中断したんすよね」

「警察?!」

「覚えてます? あの訛りの酷いお巡りさん。きっとあの人っすよ。で、待ってたけど、まだ時間かかりそうだったんで、一旦通話切って戻ってきました。でもこれって、チャンスだなって」

「チャンス?」

「そっすよ。俺、仕事辞めるちょっと前から考えてたんすよ。YouTubeやろうかなって」

「ユーチューブ?!」


 私には思いつかないアイデアで、声が上擦ってしまう。洸太君は「そっすよ」と笑う。


「今時誰でもYouTubeで一獲千金狙える時代じゃないっすか。いずれ紗千香さんと店をやるにしても、お金いるし。で、俺、結構いろいろ調べてたんすよね。俺がYouTubeやるなら何系かなって思って。で、今日の話っすよ」

「今日の話?」

「ほら、カレー食べながら教えてもらったじゃないっすか。プロデュース力が大事だとか、事務所に入ってると強いとか」


「あぁ」そんな話を洸太君は根掘り葉掘り訊いていた。それは、そういう理由だったのか。


 ——でも、YouTubeって、それも怪談系の?


「あ、今、怪談系のやるのかって思いました?」

「あ、うん、だって、夢子さんたちの事務所はそういう事務所なんでしょ?」


「ちっちっちっ」洸太君が人差し指を振る。


「足掛かりっすよ。まずはYouTube業界に入り込んで、勉強するんすよ。もちろん、最終的には、紗千香さんと一緒に実家の店を復活するってのが目標です。だから、夢子さんたちの事務所に入って、実績積みながら自分は自分で、いつかやる店の宣伝兼ねて、料理系の動画配信しようかなって」

「なるほど。洸太君ならすぐにでも料理系はいけそうだよね」

「そそ。俺、調理師なんで。魚捌き動画とか、レシピ動画とか。俺、こう見えて喋るのも得意なんで」

「こう見えるも何も、洸太君の会話力は半端ないと思うよ」


「でしょ? 結構見た目もイケると思いません?」洸太君が自分の顎にブイサインを当てる。


「ビジュ的にも問題なくないっすか?」


 複雑な気持ちだ。洸太君がモテることは調理学校時代から知っている。自称、高校時代ファンクラブを持つ男は、あながち嘘ではないと思う。洸太君が、いつか人気YouTuberに。でも、それだと、売れ始めたらそのうちファン交流とかもするのだろうか。それはなんだか、モヤる。


「なんか、やだなぁ」

「あ、それってヤキモチっすか?」

「なわけっ」

「妬いていいんすよ。だって、紗千香さんは俺の、彼女になったんですもんね」

「あっ、あのねー」

「なんすか?」

「別に」

「照れてるし」

「照れてないし」


 洸太君の口から「彼女」と言われると、ドキッとしてしまう。洸太君は私の心が読めるのか「安心してください」と胸を張った。


「俺、顔出しする気はないっすよ」

「俺、見た目オッケーみたいに言っておいて?」

「ははっ、ちょっと言ってみただけっすよ。それに、狙うは海蛍チャンネルっすね」

「海蛍チャンネル?」

「そっすよ。海蛍チャンネルを復活させたいって、今日、夢子さん言ってたじゃないっすか。そこ、狙えないかなって思って。黒頭巾でボイスチェンジャーなら、中身が俺でも大丈夫っしょ? 登録者数もすでに多いし、そこ狙えたらおいしいなって思って」


 そんなに上手く行くだろうか。

 いや、洸太君ならあり得る気もする。


「そんで、お金貯めて、紗千香さんにもう一度ちゃんと言おうと思って」

「言うって、なにを?」

「それは、あれっすよ。無職でプロポーズとか、ダメっすよね。ほら、お姉さんの旦那さんは、エリートなわけだし……。さっきは、一生一緒にいて、別れなきゃいい、なんてかっこいいこと言ったけど、それって、すげぇ無責任だと思うし……」


「だから」椅子に座り直し、居住いを正した洸太君が「紗千香さん」と名前を呼ぶ。自然に私も向き合うように居住まいを正した。もう一度、電話で中断していた続きのやり直しが始まるようで、急に緊張してきて、膝の上で手を握る。洸太君が私の手に自分の手を重ねる。ごく、唾を飲み込んだ。


 洸太君が意を決したように息を吸う。


「稼げる男になれたとき、もう一度、俺——」

 

 ——ブウブブウゥーブウブブウゥー


 ビクッ。反射的に身体が動く。テーブルに置いていたスマホが震えている。タイミングが悪すぎて心臓が跳ね上がり、振動音が鼓動と被る。洸太君は「いまっすかぁー」溜息混じりに言って、スマホを手にした。首を傾げ「?」の顔をしてから、こちらに画面を見せる。


 画面に出ているLINEのアイコンは、夢子さん。でも普通の通話ではなく、ビデオ通話だ。


「紗千香さんすいません。これ、出ていいっすか?」 


「え、出るしかないんじゃないかな……」言いながらそっと椅子をずらし、洸太君から距離を置く。「私は映りたくないからさ」ビデオ通話に映るのは避けたい。ビデオ通話なんて、親しい人としかできない通話だ。


「じゃあ、押しますね」

「うん」


 人差し指を唇に当てて「音量を下げて」と口パクし、反対の手を上下させた。洸太君は理解したようで、頷くと、スマホの横ボタンを指で押してから、通話ボタンをタップする。


『もしもしぃー?』


 夢子さんの甘ったるい声が聴こえる。

 大丈夫。音量的には問題ない。


『映ってるよねぇ?』

「あ、はい映ってるっす」

『超絶めんどくさいことになってるんだけどぉ、ちょっといい?』

「大丈夫っすよ。どうしたんすか?」


 カメラに映らないように気を付けて首を伸ばし、画面を覗く。薄暗い画面には、青白い光に照らされた夢子さんの顔が映っている。どうやら車内ではなく外で通話しているようだ。夢子さんの後ろに街灯のような光が映っている。


 違う。

 街灯じゃない。

 あれは、懐中電灯の光だ。


 懐中電灯の光の後ろには、数人の人影が見える。


 入道住職や幽霊みたいな社長さんだろうか——、と、目を凝らし、そうではないと思った。どちらの影にも似ていない。


『警察がぁ、どこの家に泊まるのかって聞いてきて、超うるさいわけ。で、洸太君にかけたんだけどぉ、ちょっと説明してくれる? もうさぁ、何回説明しても理解してくれなくってぇ』


 もしも同じお巡りさんなら、話は通じないと思った。福山さんも「他所者にはわざと訛って喋り、相手をイラつかせる」と言っていた。私たちが『夕なぎ』の駐車場で話している時も、全然話が前に進まなかった。私たちは、崖から落ちる人影を見て相当焦っていたのに——。


 ——そうだった。


 あの崖から落ちた人影はどうなったのだろうか。あの時は見間違えたと言うことで納得したけれど、何かが引っかかる。今日はいろいろありすぎて、記憶の糸があちらこちらに絡まっている。


『あぁあ、あなたはぁ、あん時のぉ』お巡りさんの訛った声が聴こえる。「あ、覚えてましたか、そっすそっす」洸太君は普通に返している。会話を聴きながら、頭の中、絡まった記憶の糸を解いていく。


 崖から落ちた人影は見間違いだと思った。

 でも、どこかで今日——


 ——真っ黒くてねばねばしとって。

 ——酷い悪臭が辺りに漂っとって。

 ——まさか人間の水死体やとはなぁ。

 ——蛭子町のなぁ、おひぃ様やぁ。

 ——あっこはちょっとおかしな町でなぁ。

 ——氏神様を祀っとるんやけど。


「おいっ!」背後からした男性の声色まで、記憶の糸を一気に巻きあげる。あれは、鯖の浜焼きを食べたお店だった。


『ほんじゃぁ、そこに泊まるってことでえぇんやねぇ?』


「え?」と、会話が耳に引っかかる。

 ——ここに、夢子さんたちが泊まる?


「そっすね、そういうことっすよね」

『ほんやけどぉ、福山さんはぁ、困ったもんやねぇ。この街に住んどるんならぁ——』


 電波が悪いのか、お巡りさんの嫌味な声が途切れた。洸太君の持っているスマホ画面は真っ暗になっている。音も聞こえてこない。


「電波悪いんすかね、もしもーし? もしもーし? 見えますかー?」


 洸太君がこっちを向きスマホを見せて首を振る。「一旦終了しますわ」と、画面をタップする、その刹那。


『約束は絶対に守ってもらわないと』


 地獄の底から響いてくるような、低くて恐ろしい声が、聞こえた気がした。


 

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