「——幸せに暮らしましたとさ。おしまい」


 スタンドライトの明かりが灯る、薄暗い和室。洸太君の声が物語の終わりを告げた。


 ミチルちゃんの小さくて規則正しい寝息が耳元で聞こる。寝息に混じり、「ようやく寝たみたいですね」洸太君の囁き声がした。ミチルちゃんの胸をとんとんしていた手を止めて「うん」と小さく答える。


 洸太君の両手がゆっくりと絵本を閉じる。その手が、視界の隅から消えていく。ミチルちゃんの隣で横になり肘枕をしている私の視線は、ミチルちゃんの胸の上、自分の手に張り付いたままだ。小さな鼓動を指先で感じている。微かに畳の擦れる音がして、洸太君が仰向けから体勢を変え、私のように肘枕をつきこちらを向いた。


 ダイニング隣の和室には、布団が三枚。真ん中には赤い甚兵を着たミチルちゃんがお腹にタオルケットをかけて眠っている。


 ミチルちゃんはお風呂からあがって、少し遊んだあと、急に「パパは? パパは?」とぐずり出してしまった。ぐずり始めたミチルちゃんは、さすがの洸太君もお手上げ状態で、苦肉の策が、三人で布団を並べ、眠るまで絵本を読むという選択だった。


「こうちゃんもさっちゃんもいっしょにねんねぇーねんねぇー」涙ながらに言われたら、こうするしかなかった。ミチルちゃんは福山さんと二人暮らし。毎日一緒にいたはずのパパが今日は不在なのだから、無理もないと思った。ミチルちゃんは、まだほんの五歳なのだ。


 ——とはいえ、ミチルちゃんが寝息を立てている、いま。さすがにこの状況は気まずい……。


「紗千香さん」低くて静かな声が私を呼ぶ。洸太君を見られない。視線をあげられない。あげたらきっと、目が合ってしまう。ミチルちゃんの子供布団は小さいし、手を伸ばせば洸太君に触れる距離にいる。そう思うだけで、勝手に意識が暴走して、指先で感じる小さな鼓動に自分の鼓動がだんだん重なっていく。


 居心地の悪い沈黙。その沈黙を破るように小さな嘆息音が聞こえた。次いで、スゥ、息を吸う音。喉で咳をするような微かな音。洸太君の身体が音と共に微かに揺れた。


「えっと……、あっち行きます? まだ九時頃だと思うし」


 ほっと息を吐く。このままここでこうしてるのは限界だった。すぐに「うん」と頷いた。「じゃあ……」スタンドライトの調光を暗く設定し、そっと洸太君が起き上がる。私もミチルちゃんに触らないように静かに起き上がった。


「隙間開けて見えるようにしておきましょうか」襖を閉めながら小声で洸太君が言い、「そだね、安心だもん」と、襖を少しだけ開けてダイニングに戻った。


 椅子に腰掛けた洸太君は、「はぁー、これで朝までなんともなければオッケーっすよね」と伸びをする。体勢を戻して「絵本持って読み聞かせるって結構腕にくるっすよ」と、肩をまわした。洸太君は普段通りだ。「分かる。確かに辛いよね」緊張していた身体が緩んでいく。


「喉乾きません? なんか出しましょうか?」

「いいよ、座ってて。腕だるいでしょ?」

「あざっす」


 冷蔵庫を開けた私の背中に「麦茶がいいっす」と声がかかる。「ビールじゃなくて?」振り返る。


「俺は麦茶でいいっすよ。紗千香さんはビールにしたらどうっすか? 疲れたっしょ」

「え、うん、まぁ……」


 確かに疲れた。体力よりも、精神的に。それもかなり。何かあってはいけないと神経を擦り減らしていたし、その他の理由も、ある。


「どうしよっかな」

「大丈夫っすよ。一本くらいなら。ミチルちゃんは朝までぐっすりだろうし」

「福山さんも寝たら起きないって言ってたもんね」

「そっす。俺が泊まってる時も一度も起きませんでしたよ。その辺は、超いい子っす」

「そっか……、じゃぁ、そうしよっかな」

「緑の瓶で、銀色のラベルの地ビールがオススメっす。紗千香さん、きっと好きな味っすよ」


「へぇ」冷蔵庫の中を見る。洸太君の言っている地ビールの瓶はすぐに見つかった。銀のラベルには黒い鳳蝶が描かれている。ホワイトエールと書かれているからきっと爽やかな味だ。ピー、冷蔵庫の警告音が小さく鳴って急いでドアを閉め、また開けて欲しいものを取り出す。


 麦茶を入れたグラスと空のグラス。小振な瓶ビールを持ってダイニングテーブルの上に置いた。座ろうとした瞬間、洸太君がカタン、と音に気をつけて立ち上がる。


「俺もそっち側座るっす。そうすればミチルちゃんの様子二人で見れるっしょ?」


 洸太君が隣の椅子を引き腰掛ける。並んで腰をかけ、確かにこれなら二人でミチルちゃんの様子を見ていられると思った。しかし、距離が近い気が——、いやいやと、改める。車に乗ってる時と変わらない。


「ほい、紗千香さん」淡い色をしたビールがグラスで弾けていく。手に取ると洸太君がこっちを向いて「とりあえず、お疲れ様でした」とグラスを掲げた。カチン、小さく音を跳ねさせ、ビールに口をつける。洸太君の言う通り、私好みのホップの効いた味わいで、美味しいと思った。するする喉に入っていく。もう一口と思ってグラスを傾け、そのまま一気に飲み干してしまった。薄張りグラスが小さいから仕方ない。


 洸太君も麦茶を飲み干したようだ。立ち上がり「俺、絵本読んでたから、超喉乾いてて」と、麦茶の入ったピッチャーを持って戻ってきた。


「それにしても、結構大変だったっすよね」椅子に腰掛ける。「本当だね」胃の中にアルコールが染み込んでいく感覚を味わいながら、手酌でグラスを満たす。隣の和室。襖の隙間から見えるミチルちゃんを見ていると、ようやく肩の荷が下りたような気がしてきた。


「あれっすよね。思った以上に大変だったつーか」

「本当、それ」

「お風呂とかも大変だったんじゃないっすか? 叫び声聞こえてきましたもん」

「あ、あぁ、あれはね、ミチルちゃんがお湯に潜って海坊主ごっこをして私を驚かせてたんだよね」

「はははっ、なんすかそれ?」

「ミチルちゃんがお湯に潜ってて。それで溺れたかと思って慌てたらね、海坊主だぞぉーって出てきて驚かされちゃった」

「ホラーっすねぇー、ミチルちゃん、やるなぁ」

「もぉっ、やるなぁじゃないよっ。本当にびっくりしたんだから。それにね、」

 

 言いかけて、痣のことを話すのはやめた。


「それにね?」

「ううん、なんでもない。めっちゃびっくりしたってだけ」


 身体に痣があったなんて、他人が勝手に言わない方がいい。そんなこと、身に染みて知っている。今はだいぶ薄くなったけど、私のお臍の周りにも同じような痣がある。それが恥ずかしくて、子供の時は学校のプールが嫌いだったし、今でも銭湯があんまり好きじゃない。他人がいて洋服を脱ぐ時は、できるだけタオルで隠している。


「でもあれっすよねー」洸太君がしみじみした声で話す。


「子供って可愛いけど、大変っすね。俺、もっと気楽に考えて引き受けてたっす」

「私もだよ。反省。でも、ご飯作るときは楽しかったね。記念撮影したりして」

「そっすね。喜ぶとこ見るとやっぱ嬉しいすよね」

「だから、子供っていいなとも思ったなぁ」


 言った後で、心の隙間に風が吹き、「お姉ちゃんが赤ちゃん産んだんだよね」言葉が口をついてでる。


「あぁ、写真見せてくれたっすよね。先週でしたよね」

「うん、もうみんなさぁ、可愛い可愛いってメロメロで。私も本当に可愛いなって思ったんだけど」

「だけど?」


「今日ミチルちゃんと一緒にいたら、羨ましいなって嫉妬しちゃった」つい本音が漏れる。


「嫉妬っすか?」


「まぁ、うん。そうかな」と、ビールをまた喉に流し込んだ。


「うちのお姉ちゃんってさ、私と違って華やかだし、なんでも予定通りことが進むっていうか。上手に生きてるなぁって思うんだよねぇ。私みたいに頭も悪くないし、大学行って、なりたい職業になって、なのに、相手を見つけたらさっさと手に職捨てて結婚しちゃって。相手もエリートだし、子供まで産んじゃってさ」

「紗千香さんだって悪くないじゃないっすか?」

「えー、全然違うって。私、頭悪いもん。大学行ってないし、専門学校卒だし」

「や、そういうことじゃなくって——」

「はぁー、私には手の届かない世界だよ」


 薄張りの小洒落たグラスを傾けビールを飲み干す。「なんでっすか?」空いたグラスにビールを注ぎながら洸太君が訊いた。


「だってね、子供を産むためには相手がいるし、人見知りだから相手が見つかるわけもないし——」


 しまった、と口に手を当てる。いつもの調子で深く考えず思ったことをそのまま口から出していた。とりあえず間を持たせるために、ビールに口をつける。でも、次の言葉はみつからない。手の熱でビールが飲み頃を過ぎていく。気まずいな、と、思った分だけ変な沈黙がやってくる。体温と同化してしまったグラスを静かに離した。


 耳元で麦茶を飲み下す音が聞こえる。コト、洸太君の持っているグラスが机に当たって音を出す。視線が行き場をなくし、麦茶入りのグラスを凝視した。


「紗千香さんってあれですよ」


「……うん」麦茶を見たまま答える。


「俺にはなんでもずけずけ言うし、全然人見知りじゃないっすよ」

「……と、友達だから。それに、後輩だったし、同僚だったし……」

「じゃあ、もしも俺と付き合ったら、急によそよそして、人見知りになっちゃうんすか?」

「えっと……、どうかな、なってないから分かんないし……」

「今までみたく気楽に話すこと、できなくなるって思うんすか?」

「えっと」

「付き合ったりしても、中身は変わらないんだから、きっと、居心地が良かったり、楽しかったりするのって同じだと思うんすよね」

「でも、それは友達だから気が合うってことかもしれないじゃん……。それに、付き合ったら、いつか別れるわけだし……」


 言ったら悲しくなってきた。付き合ったら必ず別れる時が来る。なんでも話せる気軽な関係を手放して、友達でもなくなってしまう。それは、嫌だ。


 麦茶の入ったグラスが視界から消える。ごく、耳元で音が聞こえ、空になったグラスが視界に戻ってくる。沈黙で、肺が潰れそうだ。


 何か言わなくては。

 会話を切り替えなくては。


 逡巡していると、「別れなきゃいいんすよ」と、低くて優しい声が頭上から降ってきた。


「付き合っても、別れなかったらいいんすよ。そう思いません?」


 視線をあげた。洸太君もこっちを見ていた。視線を逸らそうとして、逸せない。真剣な眼差しに射抜かれて、動けない。二人の間の空気が、ピアノ線のようにピンと張っている。何本も、何本も張っている。もう、逃げれないような気がした。


 洸太君が息を吸う。


「別れたりしないんですよ。ずっと、一生、絶対に。俺、もしも紗千香さんと付き合えたら、ずっと、一生、絶対に、何があっても別れないって思います。

 それにみんな、付き合ってから相手の嫌なとこ見つけだして、それで、別れるんですよ。

 でも俺、違いますよ。今更幻滅するところなんてありません。俺、紗千香さんが酒飲むとぐちぐち愚痴を吐くこと知ってます。自分に自信がなさすぎて、うじうじ一人で考えて極端に落ち込むことも知ってます。結構めんどくさいとこ知ってますよ。だから呑みに行って、紗千香さんが生ビール三杯以上飲もうとすると、俺やめときましょって止めてきましたし」


 そうだったのか、と、恥ずかしくなる。「でもそういう洸太君だってお調子者気質が増幅するよ」と言いたくて口を開きかけ、やめる。いまは、きっとそういう話じゃない。


「でも、いいとこはもっと知ってます。俺、一緒に働いてたから、紗千香さんが毎日真面目にコツコツ積み上げてく姿を知ってます。優しいところも、一度引き受けたら逃げ出さないことも知ってます。だから、ダメなとこも知ってるけど、それを打ち消すくらい、いいところも知ってるつもりです」


「だから、」洸太君の声が途切れる。


 息を止めて、受け入れる覚悟を探す。正直、これ以上は、もう無理だと思った。先週久しぶりに再会してから、本当は自分でも薄々分かっていた。洸太君の気持ちも、自分の気持ちも。ただ、自信がなくて、「好き」という気持ちに蓋をして、気づかないふりをしていた。


 傷つきたくなかった。考えたくなかった。無職になった、ひとりきりのアパートで。


 でも、もう、同じ職場じゃない。職場恋愛禁止だとか、気の合う友達だからとか、曖昧に誤魔化して、なぁなぁにやり過ごしていける時期は、過ぎてしまった。


 洸太君が大きく息を吸う。


「俺と、付き合ってください」

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る