黒髪の間から覗く顔は、白粉で塗り固められたように血色がなく、顔だけが闇に浮かんでいる。とても普通の人間には見えない。市松人形のように切り揃った前髪と、大きな瞳。この世に恨みでもあるのか、目の周りは泣き腫らしたように赤くなっている。頬がヒクヒクと小刻みに痙攣し始め、奥歯をぎゅっと噛み締めた。


 薄い唇が微かに動き、息を飲む。


「あのさぁ」


 喋った。それもかなり、不機嫌な言い方だ。チッ、舌打ちする音を聞き、縮みあがっていた心臓が一気に血液を噴射した。血流の周り始めた脳味噌が、高速回転で現状を理解する。


 目の前の少女は人間だ。

 黒い長袖長ズボンの、ただの人間だ。

 幽霊ならば、こんな感じ悪い態度をするはずがない。


 ——え、でもそれじゃあ、この子は誰?


 勝手に人の家に上がり込んで来て、「あのさぁ」なんて、不審者すぎる。最近は若い子が強盗に入る事件も多い。スマホを握り締め身構える。


「ちょっと、聞いてる?」不機嫌さを増した声が廊下に響く。取り敢えず刺激しないように無言で頷き返した。


「トイレ、行きたんだけど」

「え……?」

「だからぁ、トイレって言ってんの」


「トイレ?」訊き返したその刹那、廊下に漏れていたダイニングの明かりがスっと広がり、扉の隙間から夢子さんがツインテールを揺らしてニョキッと顔を出した。


「なになに、どうしたのぉ?」夢子さんが廊下に出てくる。その動きに合わせて、場所を少し移動した。少し離れた場所で、少女を観察する。ダイニングの光に照らされた少女は、見たところ十代。よくよく見てみれば、泣き腫らしたような赤い目の縁は、流行りの地雷系メイクだったと気づく。


「ねー、ちゃんとぉ、お邪魔しますって言って入ってきたぁ?」夢子さんが少女の顔を覗き込む。黒服の少女はバツの悪そうな顔をして、小さな声で「言ったけど、返事なかった」とぶっきらぼうに答えた。


「そぉ? ならいいけどねぇ」夢子さんがツインテールを揺らして顔を上げる。


 なんだかモヤる。なにが「いいけどねぇ」なんだろうか。ここは福山さんの家。夢子さんの家でもなければ、私の家でもない。それに、玄関から「お邪魔します」なんて聞こえてこなかった。それとも、おばあちゃんと電話していたから、私が気づかなかっただけなのか。


 だとしたら、申し訳ないことをした。

 いやいやと、かぶりを振る。


 ——そうだとしても、舌打ちはないよね?


 自然と小鼻が膨らんでしまう。

 私は別に悪くない。


「で?」夢子さんが声をかける。少女は俯いたまま「トイレ行きたくって」と小さな声で答えた。


「あと、お腹減った」

「もぉ、だからぁ、お昼一緒にカレー食べよって言ったのにぃ〜」


「お腹減ったんすか?」洸太君の声がして首を動かす。いつの間にか、開いた扉から洸太君が廊下を覗いていた。


「ご飯ならあるっすよ。あと、ポテサラくらいならまだ少し。よかったら食べます?」

「え、本当ぉ? この子さぁ、ゼリーばっかり飲んでて昼も夜も食べてないんだよねぇ」

「いっすよいっすよ。ちゃちゃっと俺、用意しますよ」


「ほらぁ、ありがとうございますはぁ?」夢子さんが少女の肩を叩く。一瞬ビクッと身体を震わせた少女は「えっと、あ……」と小さく声を出し、「りがとうございます」と早口で言い切って、ついっと横を向いた。


 爪先がもじもじ動いている。よく見ると心なしか、黒いズボンを履いた膝も擦れ合っている。よっぽどトイレに行きたいのかもしれない。トイレを我慢しているのは可哀想だ。行きたいのに行けない辛さはよく分かる。夢子さんは「私も食べたぁい」なんて甘い声を出し、洸太君とダイニングに戻って行ってしまった。


 ——しょうがない。


「えっと、トイレ、行きますか?」


 無言で頷く少女をトイレまで案内して、私もダイニングに戻った。早速冷蔵庫を開けている洸太君と交代する。ダイニングテーブルに背中を向けて、ポテトサラダを小皿に盛りながら、それにしても——、と思った。


 YouTubeで見てたけど、夢子さんも入道住職も、実際に会ってみると印象がかなり違う。特に夢子さんだ。図々しいと言うか、なんと言うか。車のバッテリーを充電しに来ただけのはずが、ちゃっかりご飯まで食べると言う。さらに言えば、私が電話していた間に、夢子さんは地ビールまで飲んでいる。


「あの子が言ってた拾った家出少女っすか?」洸太君が尋ねた。そう言えば、そんなことを言っていたかも知れないと、背中で聞き流す。


 どうでもいい話だ。


「そうなのぉ。美蝶子みちこちゃんって言うんだけどね」

「ミチコちゃんっすか。可愛い子っすよね。まだ若いんすよね?」

「十五歳って言ってたかなぁ」

「十五歳って、中学生じゃないっすか。で、東京まで家出したんすか?」

「そそ、新宿で、友達が拾ってきたんだけどね」


 コトン、瓶がテーブルに当たる音が聞こえる。軽い音だったから、地ビールはもう空なのかもしれない。


 それにしても「家出少女を拾ってきた」なんて言い方が悪い。「保護した」とか、もっと言い方があると思った。それに、家出して新宿に行くだなんて、最近の若い子は——、と、そこで記憶に何かが引っかかった。


 そういえば、さっきの子、見たことあるような。


 長い黒髪、人形のような地雷系メイク。どこかで、一度——。


「じゃあ、あの話って——」耳に入り込んでくる会話をシャットアウトして、記憶を辿る。


 確か、あれは——、脳内で記憶が巻き戻し再生されていく。私の苦手な地雷系メイク。黒い口紅。洗面器に届きそうな黒髪。あれは、確か、トイレの中だ。先週おばあちゃんと行った武生駅近くのショッピングモール。そのトイレの中で見た、黒服の少女に似てる気がする。


 いやいやまさかと首を振る。地雷系メイクは誰でも同じような顔になる。そんな偶然があるわけ——


「じゃあ、あの子は蛭子町から新宿まで行ってたってことっすか?」


「え?」菜箸を持っていた手が止まる。ということは、やっぱりあの時の女の子で間違いないような気がする。ここから東京に行くには武生駅からだ。あの時の少女は、スーツケースをガラガラ鳴らして、武生駅に消えて行った。


 背中で聞き流していた会話に耳を傾ける。「はい、はいはいはい」入道住職が相槌を打っているけれど、何に相槌を打ってるかまでは聞いていない。


「じゃあ、あの子が?」

「そうですそうです。彼女が今回の——」


 ——ガタ。

 引き戸の方から音がして会話が止まった。


「ほらぁ、そんなとこ突っ立ってないで」夢子さんの声で振り返る。半分開いた引き戸の向こう、薄暗い廊下にミチコちゃんと呼ばれた少女が青白い顔で立っている。


「ほらぁ、開けっぱなしだと、エアコンの風が逃げちゃうでしょぉ? もぉ、ほらほら」夢子さんが手招きし、「あっ、ここ座って」と、洸太君が席を譲った。ミチコちゃんが中に入り引き戸を閉める。洸太君の座っていた椅子——夢子さんの向かい側——に座ったタイミングで、茶碗と小皿、麦茶を入れたグラスを運んだ。


「ポテサラ激ウマだよ。ポテサラは俺の彼女、自慢の一品」


 洸太君の発言に「ん?」と眉を顰めた。今、洸太君はさらっと「俺の彼女」と言った。いや、それもだけど、先週山倉さんにレシピを教わったポテサラは、手が込んでいるけれど、自慢と言えるほど作り込んではいない。


 洸太君を見る。洸太君も私を見てウィンクした。本当にもう。そういう仕草はちょっとずるい。可愛く思えてしまう私も単純だ。


 不意にミチコちゃんの隣、幽霊みたいな社長さんが音も立てず椅子から立ち上がる。「どうぞ、お二人で」と、自分が座っていた椅子を私と洸太君に差し出した。


「僕は、そろそろ車に戻ってます」

「エンジンかけっぱなしじゃないとダメだよぉ」

「はい。あと、一時間くらいでしょうか。時間になったら呼びにきますので」

「それまでに機材チェックしといてくれる?」


「もちろんです」と言い残し、ボサボサの髪の毛の幽霊みたいな社長さんは、車に戻って行った。


「せっかくなんで、紗千香さん」洸太君が椅子の端に座り、私の座る場所をあけてくれている。少し気恥ずかしいけれど、断る理由もない。そっと腰掛けると、背中に洸太君の体温を感じた。じんわり温かい。


「いやぁ、ういういしいですねぇ」向かいの席の入道住職が目を細める。すかさず夢子さんがその腕にしがみつき「わたしたちだってラブラブよぉ」と戯れ始めた。昼にも見た光景だ。


「はい、はいはいはい、夢ちゃんは、ちょっと呑み過ぎですよ」

「あ、ビールまだありますよ?」

「じゃあ、もう一本貰っちゃおうかなぁ」

「いえいえいいえ、もうやめときます。ね、夢ちゃん」

「もぉ〜、大丈夫だよぉ。全然酔ってないってばぁ」


 洸太君はビールを取りに立ち上がる気配がない。よかったと安堵する。福山さんちのビールを勝手に出しているのは気がひける。それに、さっき社長さんは「あと一時間」だと言っていた。だから、この人たちはあと一時間後にはここから居なくなる。そう思うと、あと少しだと、この状況も我慢できる。


 ——それにしてもだよ。


 視界の端で、黙々と白いご飯を口に運ぶミチコちゃんを覗き見る。


 本当にそんな偶然あるのだろうか。まさか、あの時の子がこの子なのだろうかと、まだ信じられない気持ちでいる。さっきの話から推測すると、ミチコちゃんは、この町——蛭子町——の子、ということになる。


 お茶碗をテーブルに戻したミチコちゃんは、今度はポテサラに箸を伸ばす。ひとくち口に運び、箸を口に入れたままピタッと動きが止まった。ゆっくり顔がこちらを向く。箸を咥えたままの口元が、苦いものでも食べたかのように歪んでいる。


 口に合わなかったのかもしれない。


 でも、ベーコンをカリカリにして、茹で卵も白身と黄身を別々にして、丁寧な仕事をしたつもりだ。手間暇かけた山倉さん特製レシピは、自分で言うのもなんだけど、間違いない味。


 不意に夢子さんの「え、めっちゃ美味しいじゃぁん!」という大きな声がダイニングに響き、はっと視線を和室の襖に向けた。ポテサラを食べた夢子さんはさらに「え、彼女、味付け上手ぅ」と褒めてくれる。


 でも、正直言って迷惑だ。隣の部屋ではミチルちゃんが寝ている。大きな声はやめて欲しい。


 やっぱり一息なんてつけない。


 神経が夢子さんの声に反応してピリピリしはじめた。今すぐにでも、帰って欲しい。そう苦々しく思い始めた時、洸太君が「一時間後ってことなんすよね?」と、夢子さんに話を振った。










 



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