よたよた歩く黒マントの後ろをついて行き、靴のまま古い木戸が開け放たれた部屋に入る。足先に何かが触れた気がして視線を向け、心臓を鷲掴みにされたようにゾッとした。


 足元に、まるで人が消滅してしまったかのように脱いだ服が置かれている。立ったまま脱いだような茶色のズボン。黒革のベルトが腰の形のまま丸まり、先っぽは死んだ蛇のようにへたりと床に伸びている。その上には赤いチェックのトランクスが太ももの形を保ったまま二つの穴を開け、少しずれた場所に白いポロシャツがくしゃりとへしゃげて落ちていた。


 視線を巡らす。窓のない板張りの部屋は簡素な造りで、脱いだ洋服が無数に置かれている。行灯が四隅に置かれ、その様子をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 ——まさか、この部屋に入ると身体がなくなって……


 よからぬ妄想が頭を擡げる。


 ——刹那。


「ふんっしょ」老人の枯れた声がすぐ近くでして、鷲掴みの心臓がそのまま抜き取られたかと思うくらい、血の気がひく。


 恐る恐る声がした方を見ると、こちらに背を向けた黒いマントがもぞもぞっと動き、「ほぉぅっ」掛け声のような声を出した後で、ぱさりと派手な柄シャツが床に落ちた。


「紗千香さん」洸太君が隣に立ち、フード越しに囁く。


「ここで服を脱いでくみたいっすね。でも俺たちは脱がずにそのまま行きましょう」


 もちろんだ、と無言で頷く一方で、自分の身体が消えなくて良かったと、非現実的な安堵感で吐息を漏らした。


 ——でも。

 氏子達の黒マントの下はいま、全裸。


 気持ち悪さと嫌悪感が湧き上がる。美蝶子ちゃんの顔が浮かび、なんとしてもお夜伽儀式を阻止してやると、決意を固くした。


 ノロマな氏子にスピードを合わせる必要はもうない。洸太君と二人、部屋を出ていく氏子の後に続く。


 部屋を出て、裸電球のぶら下がる薄暗い板張りの廊下を歩いていく。緩い坂を登るような廊下はどこまで行くのか分からない。黒い頭がポツポツと列をなして上へ上へと向かって行く。廊下の幅は地下道よりは広く、私と洸太君は並んで歩いた。


 念のためフードの内側から鼻先のマントを掴み、顔が見えないように隠す。ふと視線を向けると、先を歩く黒マントの足は裸足だった。私も洸太君も靴は履いたままだ。できるだけ音を立ててはいけない。足音がしないように気をつけて進む。


 すぐ前の二人組は中身が老人ではないようで、比較的スタスタ足を進め、時々「ほんやしけぇ」「はよしめぇ」と、訛りの酷いお巡りさんのような聴き慣れないイントネーションの声を出していた。


「地元の氏子みたいっすね」洸太君が私の耳元で囁くように話しかける。「うん」と声にならないくらいの声で返し、二人の後をついて行く。


「うらぁ、ユウサクさんが福山さんちの子供でえぇげって言った時はどうしようかと思ったけどなぁ」

「ほれなぁ、ほやほや、ほやてぇ。孫と同い年っちゅうのはなぁ」


 洸太君と視線を交わす。無言で頷きあい、前を行く黒マントと距離を詰めた。俯いて背を丸め、耳を澄ます。


「ほやけどぉ、見つかってよかったげな」声の感じは若くない。五十代か六十代か。「ほうやてぇ。まぁさか、逃げとったとはなぁ。山さんの責任重大やてぇ」さっきの声と同じくらい声帯が衰えた声は、私の目の前を歩いている。


「ほれやしけ、連れ戻したくれぇじゃ氏子にゃなれんて」

「ほうやて。あのでっけぇのと小綺麗なネェちゃんがなんで知っとるんか不思議やったわ。うらぁ代替わりしたんはついこないだやぁ。それまでなんも知らんかったぁ」

「うらもやぁ〜。まだぁ五年くれぇやでぇ。せやしけ、ユウサクさんも追い返したんじゃろ。ユウサクさんもうらと同じ頃に代替わりやで。ほれにぃ警察に誘拐犯呼ばわりされたら余所者はほら諦めなしゃあないてぇ」

「ほんやけどぉ、山さんはもうあかんのとちゃうかぁ。そろそろお役目もわけぇもんと交代せなならんやろぉ」


「オメ、知らねぇのか?」洸太君の前、黒マントが声を低くする。声が小さくなった気がして耳をさらに攲てる。


「山さんは最後のやって」

「最後の男の子ぉ?」

「ほうやてぇ。しかも山さんは嫁をもろうとらんしけ。ほれがぁ問題やぁゆうて、何年か前にうらぁ田中の爺さんからここで聞いたでなぁ」

「田中はうちの本家なのに、うらはそんな話は聞いとらんて。なんやぁ面白ないわ」

「ほらぁここに来た時だけしかこの関係の話はできん禁忌やで。破ったら蟲に喰われるからな」

「しかしまぁどこもかしこも後継問題なんやなぁ。うちのせがれ——」


 前を行く二人の氏子が角を曲がる。洸太君が背後を確認するような素振りを見せてからスピードを落とした。私もそれに倣う。


「今の話って夢子さんたちのことっすよね?」洸太君は囁き声でいい、私は無言で頷いた。今の話からすると、夢子さんたちはここには来ていない。美蝶子ちゃんを連れ戻して氏子詣に参加させてもらうという計画はどうやら失敗に終わったのだ。


 ——でも、美蝶子ちゃんはここにいる。


 洸太君と目配せしてから角を曲がる。曲がった先も廊下だった。今度は上りの廊下ではなく、右側が板壁、左側は木でできた大きな引き戸が左右に開け放たれていた。


 前を歩いていた二人が暗い部屋に消えていく。それに続き、同じように部屋の中に入った。


 お寺の本堂のような場所だと思った。氏子達は真ん中に通路を開け、数名ずつ並んで座っている。さっき前にいた二人組が腰を下ろすのが見えて、その隣まで進み洸太君と腰を下ろした。私の右は通路で赤い毛氈が真っ直ぐにお堂の奥へと伸びている。


 むっとする熱気。どことなく生臭い男の体臭が充満している。ここにいる人たちの黒マントの下は全裸だったと思い出し、嫌悪感と気持ち悪さがさらに全身に広がって行く。


 薄暗い部屋には両サイドの壁際に和蝋燭が無数に灯っていた。蝋燭の数は一体何本あるのか。片側だけで数十本はあるように思える。どこからともなく吹く風に大量の炎が揺らめき、壁に映る黒い影をゆらゆらと動かしている。

 

 ざわざわとした囁き声。時々咳払いや、ごそごそと身体を動かした時に出る衣擦れの音。この部屋の中ではもう洸太君と喋ることができない。そう思った。マントの下で鞄の上からおばあちゃんのお守り袋を握り締める。


 通気性の悪いマントの中は蒸し風呂のように暑く、俯きぎみな頭から汗が流れ、額を伝い、頬からぽたりぽたりと落ちていた。口の中はカラカラに乾ききっている。鼻筋を流れ落ちてきた汗が唇に触れて、舌を出し舐めとると、ねっとりと苦い味がして、かいている汗は暑さのせいだけじゃないと思った。


 恐る恐る視線をめぐらす。この中に手錠をかけられた美蝶子ちゃんもいるのだろうか。誰の顔も見えない。お堂の中に黒い影が無数に座っている異様な光景が網膜に焼き付くだけだ。


 ざざザッ……ざざッ…… ざざザッ……ざざッ……


 私の直ぐ横をノロマな黒い影が通り過ぎて行く。腰を曲げた背の低い黒影は赤い毛氈の上を前へ前へと進み、ひょいと左に折れた。そのままよたよたとゆっくり左に進み、そこで座ったのかマントを被った頭が消える。次に来た背の低い氏子も前へ行き、左に進み座る。年配者は一番前、コンサートでいうところのアリーナ席に座るのだと思った。のろのろ歩く氏子達は右に左にと座っていく。


 正座している太ももや足首にスニーカーの底が当たりだんだん圧迫感が辛くなってきた。足をずらして痛くない位置に調整する。


 不意に、ガタカタッ、タッ、と、背後で木戸が揺れる音がして背中が硬直した。


 ガタカタッ タッ 


 反対側の木戸も揺れている。どうやら全員が揃い、お堂の扉が閉まるようだ。

 

 ガタッ、ン


 木戸の触れ合う音が聞こえ、背後に人が座る気配がした。二人ほどいるだろうか。通路を挟んだ向こう側には誰も座っていない。


「本当に大丈夫なんやろか……」囁くような中年男性の声が後ろから聞こえる。聞いたことのない声だ。「……に組みあわ……だ……んやし……」直ぐに別の声が背後から聞こえたけれど、意味までは理解できなかった。


 チリーン……

 チリーン……


 澄んだおりんの音がし始めて、ざわついていたお堂内の音がピタリと止む。いよいよかと恐怖が背中を這い上がり、お守りを強く握り締める。


 カバンの中からお守りを取り出して直接握れば良かったと後悔する。でももう今更カバンのファスナーを開けれるような空気感じゃない。


 チリーン……

 チリーン……


 お鈴の音が鳴るたびに場の空気が張り詰めていく。音の余韻が細い蜘蛛の糸のようにお堂の中に張り巡らされていく。逃げ場などどこにもない。動けば一瞬で見えない蜘蛛の糸に絡め取られてしまう。そんな妄想が頭を擡げる。


 ——刹那。


 びゅうぅ〜


 お堂の奥から生臭い風が吹き、蝋燭の炎が消えそうなほど大きく一斉になびいた。


 ぼぼぼっぼっ ぼぉっ

 消えかけた炎が復活の音をあげる。


 ——ナニかが、来る……。


 動物的本能が警告音を出している。蒸し風呂のようだと思っていたマントの中では、歯の根が合わぬほどの寒気を覚え、全身が凍りつくように固まる。


 ——もう、お堂の中に来ている……。


 シュッ ごぉぉおーん……

 シュッ ごぉぉおーん……


 分厚い金属を皮のボールで思いっきり叩くような不気味な音が何度か響くと、氏子達の黒い影が一斉に前後に揺れだした。氏子達は、お経のような呪文のような、見えない誰かと交信しているような、なんとも言えない声をぶつぶつぶつぶつ発している。


 背中にさわさわする感触がして、声が出そうになるのを必死で堪える。あの足のうじゃうじゃ生えた虫を思い出して、一瞬で全身が総毛立った。背中に何かが触れる感触は振り子時計のように規則性を持って私に触れてくる。背後に座っている人のフードをかぶった頭が触れていると理解しても、まだ身体が凍りついていた。


「……のじぃさま」頭が背中に近づくたび、ぶつぶつと話す声が聞こえる。


「……あしがなくなった……ことじゃ……ひいみ……またあし……えてきての……」


 お堂のあちこちで同じような抑揚のない声がする。氏子達が話しているのはお経でも呪文でもない。どちらかといえば物語、それも昔話のような——。


「ふろう……のめば……むしが……みは……にゃ……のろい……じゃて……」


 ——蟲に……呪い……


 聞こえてくる単語から連想する怖い話。恐ろしさに身がすくむ。でも今なら——、と、震える手で急いでカバンのファスナーを開けて、お守りを弄った。ペットボトルのお水が邪魔をしてなかなかお守袋まで指が届かない。焦る気持ちで指を奥へ奥へと押しやると、シャリ、指先に柔らかい感触を感じた。お守りだと即座に理解して掌に握り込む。そのままファスナーを元に戻し、お守りを胸の前で両手で握り込んだ。


 目を瞑り、時が過ぎるのを堪える。足は痺れを通り越し、存在感をなくしていく。


 どれくらい経ったのか検討もつかない。


 氏子達の声がだんだん小さくなっていく気がして、うっすら目蓋を持ち上げると、お堂の中は最初よりも薄暗くなっていた。


 壁際にあった蝋燭の火が、誰かの声が止む瞬間に消える。偶然だろうか。


 ——あっ、また……


 耳を澄まし目を凝らす。声がひとつなくなるたび、炎も消えていく気がする。何度か同じ光景を目にして、入道住職の声が脳裏に蘇った。


 ——卑忌様に纏わる恐ろしい話を、子孫に怪談話として聴かせたのでしょう。

 聖書や仏教の教本に悪魔や地獄が書かれているように、卑忌様への畏怖の念を……


 蟲に喰われて死んだ、海蛍さんの声も。


 ——ですので、わたくし的には、『百物語は降霊術なのか否か』と訊かれたら、迷わず「降霊術の類だ」と、答えます。


 お堂はどんどん暗くなる。壁際の蝋燭はもうほとんど残っていない。


 蝋燭は残り一本。

 氏子の声が止んだ。


 ふっ


 聞こえるはずのない、最後の炎が消える音が聞こえた気がした。


 ——刹那。


 ぼぼぼっ ぼぼぼおぉう


 お堂の奥で、消えた蝋燭の火を全て集めたような、大きな炎が燃えあがった。


 


 







 


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