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大きな赤い和蝋燭に照らされたお堂の奥は、舞台のように氏子達が座る位置より数段あがった位置にあり、その真ん中に卑忌様の像が鎮座していた。
二本の蝋燭に挟まれた卑忌様の像は、護符に描かれていた通りのお姿で、頭から蝶のような触覚と大きな羽を生やし、太い腹から先は足ではなく昆虫の尻尾のように細長かった。異形の神、卑忌様は二対いて、その尾を絡ませ一対であるかのようにも見える。黄金で作られた卑忌様の目は二対とも眼窩が剥き出しの穴で、蟲に喰われた老婆の顔を彷彿させた。
炎に照らされた悍しい卑忌様の像から目が離せなかった。身体が金縛りにあったように動かない。卑忌様の何も入ってない伽藍堂の瞳に意識が吸い取られていくようで、身体の感覚が抜け落ちていく。力の入らない掌からするするとお守りが滑り落ちた気がした。
ぶぉぅごうぅふぶぅおぉぉぅう
おぉぉぅうおぉうぅ
お堂の中に気味の悪い音が静かに響き始める。地獄の底から悪霊が這い出てくるような、掠れた重低音の笛の音。屠殺される前の獣の叫びにも似た、ひび割れて引きつった笛の音が耳の奥深くまでじわじわと侵入してくる。
卑忌様の像から目が離せない私の網膜に、黒い影が映り込む。卑忌様の二対の像、その絡まり合う尻尾の間から、黒い影は、羽化する
黒い影は女性のようだと思った。しなやかに腕を広げ、腰を伸ばし、黒い羽衣のような羽を優雅に揺らして像の前でくるりと廻る。その姿はまるで踊っているようで、あまりの美しさに恐ろしさを忘れ息を飲んだ。
「おぉ」と、あちこちから声が上がる。「若い子はえぇなぁ」卑しい声がして、夢から覚めたようにはっとする。若い子。あの黒い影はもしかして——。
黒い影が動きをとめる。黒い鳳蝶のような人影はこちらに背を向けて、卑忌様の像に向かって腕を広げ、大きな羽のような着物の袖をはためかせた。
笛の音がやんだ。
ざわめきもやみ、お堂の中が静まり返る。
黒い影が、ゆっくりと黒い衣を翻しながら振り返る——。
黒い薄衣を羽織った女性は、美しい黒髪をさらさらと胸まで垂らし、顔に金色に輝く卑忌様のお面をつけている。お面の目は丸く黒く塗りつぶされていた。炎の生み出す陰影で、黒い目をした黄金のお面は悲しく微笑んで見える。
黒い薄衣を纏った女性は、卑忌像の鎮座する壇上から氏子のいる場所へと段差を降りた。真ん中の通路に敷かれた赤い毛氈の上を静かにゆっくりと進み、こちらまでやってくる。歩く度、薄い衣の袖がふわりと揺れて、まるで薄暗いお堂の中を優雅に泳ぐ黒い蝶のようだと思った。
でも。
「堪らんなぁ」
「はよぉ抱きたいわ」
「おぉおえぇ身体をしとる」
あちこちから囁くような下劣な声が沸き始め、ぎりっと奥歯を噛み締めた。美しい姿に一瞬でも見惚れていた自分が許せないと思った。
あの女性はきっと美蝶子ちゃんだ。静かにこちらに向かって通路を進んでくる美蝶子ちゃんは、今、見せ物にされている。花魁道中のように、お夜伽儀式の前のこれはお披露目なのだと気づく。
「許せないよ……」誰にも聞こえないように呟いた。「絶対になんとかする」決意を込めるように手を握り、手の中にお守りがないことに気づいた。いつの間にか、お守りをどこかに落としてしまった。マントの中を手で弄ると、お守りは太腿の上に引っかかるように落ちていた。すぐに拾い上げ握りしめる。
卑忌様のお面をつけた美蝶子ちゃんが私の横を通り過ぎる。揺れる長い袖は、暗がりでも分かるほど透けて見えた。開花した百合のような、甘美で妖艶な残り香が通り過ぎた後の毛氈の上に漂う。通路の最終地点でユーターンし、また壇上に戻るのか、美蝶子ちゃんがまた私に近づく気配がした。
頭から被っている黒マントの鼻先を摘み、イスラム女性のブルカのように目だけ出して、通り過ぎる瞬間に顔を上げて美蝶子ちゃんの顔を見た。
お面の下、白くて細い顎先にきらりと光る雫。ぽたり。赤い毛氈に雫が落ちるのを目で追い、気づく。
美蝶子ちゃんは裸足だった。
美蝶子ちゃんが通り過ぎた後の赤い毛氈には、落ちた雫が吸い込まれ、みるみるまに黒い染みとなっていた。視線を通路に這わせると、赤い毛氈にできた黒い小さな染みは、ぽたぽたと美蝶子ちゃんが歩いた軌跡を辿ってできていた。
——美蝶子ちゃんはお面の下で泣いている。
これから美蝶子ちゃんに起こることを想像し、胸が苦しくなった。想像してはいけない。絶対に。そう思うのに、想像してしまう。氏子達の黒マントの下は全裸。嫌悪感が背筋を這い上がる。
——腕の中で白くて細い腰が動くたび、黒い蝶が腹の上で舞ってるみてぇでなぁ。
ラジオ怪談で聞いた様子を思い浮かべてしまう。そんなこと、絶対にさせてはいけない。知らず知らずのうちに私の頬も涙が伝っていた。滲む視界で美蝶子ちゃんの姿を探す。壇上の上に戻った美蝶子ちゃんは、黄金に鈍く輝く卑忌様の像の横を通り過ぎ、奥の闇へと吸い込まれるように消えていくところだった。
「あの奥へ行けばいいってことっすね」洸太君の声が耳元でした。本当は今すぐにでも立ち上がって追いかけたい衝動に駆られる。でも、それは不可能だと思った。今立ち上がれば、ここまできたことの全てが台無しになる気がした。
——まずは、感覚がなくなってしまった足を動かせるように……
もぞもぞとマントの中で足をずらし、いつだったかおばあちゃんに教えてもらった足の痺れを取る方法を試す。正座して爪先立ちができたら、立ち上がることができる。元芸妓で旅館の女将。毎日着物を着ていたおばあちゃんはそう言って教えてくれた。スニーカーを履いたまま、言われた通りに爪先を床に立て、かかとの上にお尻を乗せる。じんわりと熱い血液が爪先に、足の裏に流れ始め、足はだんだん感覚を取り戻していく。
また、あの断末魔の叫び声のような掠れた笛の音が聞こえ始めた。お堂の中のざわめきが、次第に小さくなる。誰もが口をつぐんだ。それを待っていたかのように、恐ろしい笛の音がやむ。
一瞬の静寂。それを破るように、
キィコ……キィコ……キィコ……
小さな椅子が軋むような音が、お堂の奥の方から微かに聞こえた。
カタ、ガタッ、キィコ……カタカタ……
ローラーを転がしているような音もする。音は少しずつ大きくなっていく。
お堂がまたひそひそ声でざわめき始めた。どこからか、「どうしたんや」と囁く声が聞こえる。
キィコ、キィコ、金属が軋むような音と、カタ、カタ、ゆっくりと何かが床を転がる音は確実に大きくなっていく。
「おひぃ様のおでましや」背後で声がした。
「みんなは今年のをまだ知らんのじゃ……うらぁ怖くてよぉみんぞ」背後で別の男の声がした。
前に座る氏子の頭が動き、隣の氏子に「あんなん見たらもぉ堪らんてぇ」と小声で言っている。話しかけられた氏子の頭が頷き、「おひぃ様よりそれを目当てにきとるんやでなぁ」と返しているのが聞こえた。
「最低」と心で吐き捨て、お守りを握りしめる。
キィコ、キィコ
カタ、カタ
床を転がる音はだんだん大きくなっている。その音に比例して、お堂の中のざわめきも大きくなっていた。
「紗千香さん」洸太君が耳元で囁く。首を動かすと洸太君が顔を寄せて「なんか、おかしいですよ」と蚊の鳴くような声で囁いた。
「俺の隣の人が、まだお神酒は出ないのかって言ってました」
「おみき……?」声を潜め訊き返す。
「どうやらいつもはお神酒を飲んで、おひぃ様にお参りした人からお夜伽をしに奥の院に行く流れのようです」
「お夜伽をしに奥の院……てことは……」
「美蝶子ちゃんが向かった先がきっと、奥の院っすね」
卑忌様の黄金の像の向こう、あの暗闇の先に、氏子がおひぃ様とのお夜伽儀式を行う奥の院がある。
——お神酒を飲み、おひぃ様にお参りしたあとにお夜伽に……
「え……?」違和感が疑問符になって口から溢れた。
おひぃ様は美蝶子ちゃんだと思っていた。入道住職は生き神様であるおひぃ様とのお夜伽儀式と言っていた。でも、今の洸太君の話だと、お夜伽儀式をするのは美蝶子ちゃんで、おひぃ様は別にいるということにならないか。
「じゃあ、おひぃ様って、誰……?」洸太君に訊くと、「さぁ……」洸太君は首を傾げ、「とにかく、いまは動けませんよ」と言った。小さく頷き洸太君から顔を離す。
——おひぃ様は、美蝶子ちゃんではなく、別にいる……?
入道住職の話と違う。さっき前を歩いていた氏子は言っていた。「ここに来た時だけしかこの関係の話はできん禁忌やで」と。だとすれば、何年か氏神詣に来ている氏子でも知らないことがある。
入道住職の仕入れた情報。
美蝶子ちゃんの話。
その信憑性について考えたこともなかった。そういうことなのかと、全て鵜呑みにしていた。いや。違う。確か美蝶子ちゃんは言っていた。「お母さんはもう歳で赤ちゃんが産めないから、本当のおひぃ様になっちゃう前に、赤ちゃんの美蝶留を連れて逃げ出した」と。
——本当のおひぃ様になる前に……
「おいっ、あれ、見てみぃ」お堂の中、どこからか声が飛んで、思考を止めた。「なっ、なんやあれはっ」別の場所からも声が飛ぶ。ざわざわとがやがやと、お堂の中が急に煩くなり始め、卑忌様の像に視線を向けた。
——刹那。
「……ぇ?」予想していなかった光景に声が漏れる。
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