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「
車のエンジンをかけて洸太君が楽しげに言う。なかなかできない体験と言ってしまうその性格が、プラス思考で羨ましい。
「まあ、あのおっさんはちょっとムカつくっすけどねー。それ喰ってはやく帰れなんて、普通客に言いますか? ま、でもさっちゃんのこともあるし、一夜干しの仕入れ先だと思ったら文句は言えなかったんすけどねー。それにしても、もったいなかったっすねー。まだサバ残ってましたもんねー」
運転する洸太君の話を聞きながら、鳶がサバを持っていってくれて良かったと思った。水死体の話を聞いた後でサバの浜焼きを食べる気にはなれない。その水死体が、もしかしてあの崖から落ちた人なのでは——、と、どうしても考えてしまう。
何処かから流れ着いた、水死体。『金丸水産』は蛭子町の崖からそう遠くはない。それに、大嫌いだった叔母さんに聞いたことがある。海岸にはいろいろなものが流れ着くと。その中にはもちろん身元不明の遺体もあって、損傷の激しいものもあったと。漁船の網にかかった遺体は、引き揚げると魚が群がっていたとも。
——ほらぁ、さっちゃん。この魚もなぁ、もしかしたら人の死体を食べた魚かもしれへんのやでぇ。
思い出すと胃が迫り上がってくる。焼きたてで美味しいと思って食べていたのに、さっき食べたサバの生臭さだけが強調して、鼻腔に這い上がってくる。指で鼻先を押さえ、ふぅーと静かに口から息を吐き出した。それでもまだ生臭い気がしてペットボトルの緑茶を口に含む。添加物の変な甘みが気持ち悪い。飲むんじゃなかったと後悔して、今度は膝に置いた肩掛けポーチのファスナーを開けた。赤色の奥から白いミントタブレットのケースを取り出す。
私の様子に気づいた洸太君が「大丈夫っすか?」とこっちを見た。
「うん、ちょっと気持ち悪いなって思って」ペパーミントの粒を口に放り込みガリリッと奥歯で噛み締めた。一気に清涼感が口の中に広がっていく。もっとはやくこれを食べれば良かった。
「洸太君もいる?」
「あざっす。気持ち悪いの分かりますよ。水死体の話っすよね?」
「あ、」水死体というか、サバの後味というか——。
「……うん」洸太君の手にミントタブレットを握らせた。
叔母さんの話をまた思い出す。人間の死体に群がる魚。その魚を食べる自分。噛み砕いたミントタブレットをさらに噛み締め、それでもまだ足りない気がして、もう一粒ミントを口に入れた。
「黒くて粘つく水死体っすもんね。すぐに人の死体だって分からなかったって、おばさん言ってましたよねー。でもそんなことってあるんすかね? 海岸に遺体が流れ着くってことは今までもあっただろうし。あっ、それもだけど、あれっすよ。蛭子町のおひぃ様ってのも気になりますよねー」
洸太君は運転しながら「次のおひぃ様って言ったましたもんね。ということは——」と考察を始めている。「うん……」とだけ返し、窓の方に顔を向けた。この話の流れからすると、「幸江さんに訊いてみてください」と言われかねない。おばあちゃんに連絡を取るのは嫌だ。LINEで訊くような話じゃない気もするし、電話で話すと、今居る場所が近すぎて、つい余計なことを言ってしまいそうだ。
車はまた海岸線を走っていて海が見える。瞼を脱力し遠い目をして焦点をぼかした。洸太君の声を耳から追い出し、車内に流れるポップソングに集中する。
アップテンポなアイドルの曲を頭の中で一緒に歌い、朝の情報番組のテーマソングをサビメロだけ脳内で歌って、切ないラブソングのバラードが流れ始めて、ああ——、と思った。私も夢中で観ていたドラマの主題歌はどこまでも切なくて胸が苦しくなる。恋愛に奥手な主人公が自分に重なって、一人きりのアパートで何度泣いたか分からない。手を伸ばせば届く距離にいるのに、その手を握れない。一番泣けたシーンを思い出し、自然と息を止めた。鼻の奥が急にツンとしてきて、なんでなのか洸太君の方を向いてしまう。馬鹿みたいだ。泣けるドラマを思い出して、人恋しくて洸太君を見るなんて。
「大丈夫っすか?」前を向いたまま洸太君が言う。「気分良くなりました?」洸太君はいつも優しい。「うん、多少は……」と少しだけ嘘を吐いた。
「良かった。あ、そろそろ『浜なみ』っすよ」
「ほら」と、洸太君がハンドルから右手を離し前方を指さした。本当だ。裏の山に飲み込まれてしまいそうなほど緑に覆われた『浜なみ』の建物が見える。はやく通り過ぎてしまいたいと、また顔を窓の方に向けた。それなのに車のスピードが落ちていく。
「駐車場に車がありますね」洸太君の声がして視線を駐車場に向けた。黒塗りの大型なバンが停まっている。『浜なみ』の建物前には男の人が立っていた。黒いティーシャツに短パン姿。どことなく普通じゃない雰囲気が漂っている。
「不審者っすかね。不法侵入とか。知ってる人っすか?」
「え? いや、分かんない……」
洸太君のハンドルを持つ手が右に廻っていく。「うそ、行くの?」と訊いてるうちに車は駐車場の中に入っていく。黒塗りのバンにスキンヘッドにサングラス。絶対危ない気がする。「ねえやめよ」止めるけど、洸太君はその黒い車の隣に停車した。
「大丈夫っすよ」洸太君はシートベルトを外しながら言う。
「不審者じゃないか、確かめてくるだけっすから」
「でも——」
「ほんとほんと、それさえ確認したらすぐ戻ってくるっすから」
「あっ」と声を出す間も無く、洸太君は車を降りて男の人の方へ走って行った。
黒いティーシャツの横に、白いティーシャツが並ぶ。洸太君が男性に声をかけている。男の人は洸太君と同じくらいの身長で横幅もあるから相当身体が大きい。背筋にひやりと嫌な予感が滑っていく。頭の中で良くない妄想がどんどん膨れていく。あの人はどう見ても普通じゃない。堅気じゃないというか、なんというか、怖い人に見える。力も強そうだ。もしも、洸太君が殴られたりしたらきっと一溜まりもない。でもだからといって、私が行ったところで何の役にも立たない。膝に置いた肩掛けポーチを開けて、もしものために、スマホを握る。
『浜なみ』の玄関前。二人は何か話している。二人が向き合った。洸太君が男の人の方に手を伸ばした。男の人も洸太君に手を伸ばした。まさか妄想通り喧嘩が始まるのかとスマホを握って身構える。
二人は互いに手を伸ばして——、
——握手をしているようだ。
はぁーと大きな溜息が出る。スマホから手を離すと、掌がぐっしょり濡れていた。ジーパンで手汗を拭きながら二人の様子を窺う。とりあえず悪い人ではなさそうだ。
握手を終えた洸太君がこっちに向かって手を振っている。それはちょっと意味が分からない。洸太君が今度は手を大きく動かして、おいでおいでと、私を呼んでいる気がする。降りてこいということか。
——え、でもその人、誰?
初対面の人は苦手だ。
それに身体も大きくて怖そうだ。
降りるべきか、降りないべきか。
いっそ気づいてないフリをするべきか。
逡巡していると、待ちきれなかったのか洸太君が車に向かって走り始めた。白いティーシャツがどんどん車に近づいてくる。すぐに運転席のドアが開き、洸太君は「紗千香さんすごいっすよ! あの人、有名人でした!」と、嬉しそうに言った。
「ゆ、有名人?!」
「そっすよ。とにかく、降りてきてくださいよっ」
「え、でも——」
「はやくはやく、エンジン切りますね!」
「えぇっ?!」
洸太君は車のエンジンを切り、肩掛け鞄を後部座席から取り上げると、「来てくださいねっ!」と言い残して『浜なみ』の建物前へと、また走っていった。
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