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急な展開に頭の情報処理能力が追いつかない。輪郭が曖昧な薄曇りの車外。洸太君の白い背中が小さくなるにつれ、エアコンが切れた車内は不快指数が上がっていく。
行くべきか、行かざるべきか。
この後に及んで迷っていると、洸太君がこっちを向いて手をブンブン振っているのが見えた。
「しょうがないなぁ……」深い溜息を吐き、肩掛けポーチを持って車を降りる。ぬめっとした水分量の多い空気が一瞬にして身体を包み込み、顔を歪めた。空気の密度が濃い。湿気が身体に纏わり付き、まるでしょっぱいスライムの中を泳いでいくようだ。
「紗千香さーん!」洸太君が私を呼び、「はいはい」と小さく手を振り返した。隣の男性はこちらに背を向けて『浜なみ』を見ている。洸太君はあの人のことを有名人と言っていた。体型からしてアイドルや俳優ではなさそうだ。であれば、お笑い芸人か。そんなことを考えながら足を進め、『浜なみ』の建物前に到着する。近くで見ると、本当に大柄な男性だった。黒い背中が『浜なみ』をバックに聳え立っている。
「紗千香さんっす!」洸太君が大柄な男性に声をかけた。男性は、「はい、はいはいはい」とこちらを振り返り、「こんにちは」と頭を下げた。私も「こんにちは」と、小さく答える。スキンヘッドの男性は、近くで見るとさらに迫力があった。かけているサングラスもカマキリを彷彿させるデザインで、顔の大きさに微妙にあっていない。
「ね、有名人っしょ?」洸太君は言うけれど、私は全く分からない。男性は「いやはや、お恥ずかしい」と、頭を撫でながら照れくさそうに笑った。その声が柔らかい。二重顎に三日月型の口元。黒いサングラスで目は見えないけれど、悪い人ではなさそうだ。
洸太君が「俺、いつも見てるんすよね!」と嬉しそうに話す。男性はかすれた低い声で「いえいえいえいえ」と遠慮がちに手をひらひら振り、「あぁ、これはこれは、大変失礼いたしました」と、サングラスを外してスキンヘッドの頭をまたつるりと撫でた。
一瞬間を置いて、「あっ」と声が出る。と同時に、今度は別の意味で身体が硬直した。蝋人形のように「あ」と固まった私の目の前で、大柄な男性はサングラスをティーシャツの襟に引っ掛けると、胸の前で合掌し、「初めまして。わたし、
一気に心拍数が飛び跳ねる。昨日も『怪談スペシャル』で入道住職を見ていたばかりだ。
「すげぇっすよね! 俺、めっちゃファンっすよ! 紗千香さんは入道住職知ってますか?」洸太君が私に訊く。もちろんだと思いながらも、無意識にふるふると顔を動かしていることに気づき、急いで顎を上下にこくこく動かした。失敗した。横に顎を振るなんて、入道住職に失礼だ。
「いやいや、わたしのことなど知らなくて当然ですよ。ただの、寺の坊主ですからね」恵比寿顔がさらに破顔して私に微笑む。入道住職はこれでもかと目尻が下がっていて、心拍数がさらに上がってしまう。一瞬でも危ない人だと思った自分を叱り飛ばしたい。入道住職は危ないの真逆にいるような人だ。洸太君は興奮気味に「そんなことないっすよ!」と話を続ける。
「さっきも言ったっすけど、俺、チャンネル登録してるっす!」
「いやいやいや、そんなそんな、えぇ、はい。ありがとうございます」
入道住職はまた照れ臭そうに頭を下げる。動画と同じ、低姿勢で礼儀正しい人だ。裏表がないその様子に好感度がさらに爆上がりしてしまう。
「登録者数も五十万人突破したって、こないだ特別企画してらっしゃいましたよね! 羨ましいっす! だから俺、すげぇ感動ですよ。まさかこんなとこで会えるとは思ってなかったっす!」
「ははははは。そんなそんな」手をひらひらさせて入道住職は笑っている。目が線になっていて可愛い。それに、耳朶もふくよかで本当に恵比寿様みたいだ。
「で、なんでここにいるんすか?」洸太君が図々しく尋ねる。
「えー、実はですね、たまたまここを通っておりまして。そしたら凄い建物があるなと思いましてね。勝手にお邪魔してしまって、申し訳ないなと思いながらも、どうしても車を降りる衝動が抑えきれませんでして」
「ですよね! ここすげぇっすよねー。なかなかこんな廃墟ないっすもん」
「えぇ、はい。もうそれは、本当に。これだけ大地に飲み込まれるということは、余程何かおありだったのかと思いましてね」
洸太君がチラッと私の目を見て、反射的に首を横に振る。「えっと——」と洸太君が言葉を一瞬濁し、「そっすよねー」と入道住職と会話を再開した。ほっと胸を撫で下ろす。それと同時に『怪談スペシャル』で入道住職が話していた『お説法怪談』を思い出した。お話の舞台がやけに『浜なみ』の立地に似ていた怪談噺。ぞくりと嫌な気配を感じ、唾を飲み込む。
——でも、たまたま通りかかったって、さっき言ってたし……
「よくここ来るんすか?」洸太君が入道住職に訊き、耳を
「今日はこの後どっか取材とか行くんすか?」洸太君は興味津々でさらに尋ねる。本当に洸太君は図々しいと思いながらも、私も聞き耳をさらに尖らせた。
「えぇ、はい、はいはいはい」入道住職は頷いてから「そうなんですよ。この先の街へね。ちょっと呼ばれておりまして」
「この先の街っすか?」
「えぇ、そうなんです。蛭子町って言う場所なんですけどね」
「え、蛭子町っすかっ!?」洸太君の声が上擦る。私も一瞬どきっと鼓動を止めた。
「えぇ、はいはい。そうなんです。あ、もしかして、蛭子町をご存知ですか?」
「や、ご存知も何も、俺達も今からそこに向かうんすよ」
「そうでしたかぁ。それはまた奇遇ですねぇ」
「今日はそこで取材なんすか?」
「ええ、いや、まぁ、なんと言いますか、依頼がありましてね」
「依頼っすか!」洸太君が興味丸出しの声をあげる。と同時に、背後から「まだぁ?」と甘ったるい声がした。「えっ」と一瞬固まる。この甘々ボイスには聞き覚えがある。まさか——、と、ゆっくり振り向くと、髪の毛をツインテールにしたお姉さんが立っていた。原色をちりばめたカラフルなタイツに黒いミニスカート。びっくりするほど顔が小さい。この人は——
「やっべ! 夢子さんすよね? 怪談師の?!」洸太君が驚きの声をあげる。私も知ってる。昨日も視聴していた。このアイドルばりに可愛い人は『怪談スペシャル』にも出ている現役の声優さんで、怪談師の夢子さんだ。思わず胸に手を当てる。心臓が日本海の荒波くらい激しく波打っている。いつも見ているYouTuberさんが、目の前に、二人も——。
夢子さんは洋服から出ている白い二の腕をペチンと手で叩き、「もう、蚊もいるしぃ」と口を尖らせた。尖った唇がぷるぷる艶々している。その顔が可愛い過ぎてつい見惚れてしまう。
「はやくしないとぉ、ランチタイムが終わっちゃうよぉ?」
「あぁー、そうでしたね、ランチタイム。そうでしたそうでした」
「すいませんねぇ」と頭を撫でる入道住職に、洸太君が「あの、もしかして」と興奮気味に尋ねる。
「それってもしかして、ダイビングショップの近くにあるカフェっすか?」
「はい、はいはい。えぇ、そうなんです、そうなんです。なんでも魚介たっぷりの、美味しいスープカレーがあるとかで」
「俺、そこ知ってますよ! まじ旨いんすよね!」
「そうですか、いやはや、であればその場所をご存知で? いやぁ、実はですね——」
入道住職はそのカフェに辿り着けず、「この道を通っていて『浜なみ』を見つけた」と言った。「ああ、あそこカフェの入り口、ちょっと分かりにくいんすよねー」洸太君が私の方をチラチラ見ながら言葉を返す。洸太君はパチパチ瞬きを繰り返し、何かを訴えている。
——その表情。
まさか——。
有名人と一緒にランチなんて、私には無理だ。眉毛をひくひく動かして「無理、やだ、ダメ」と洸太君にテレパシーを送る。洸太君は私の心を読めたのか、うんうん頷いている。良かった。通じたようだ。洸太君はスマホをポケットから取り出した。きっと場所を細かく教えるつもりなんだ。——と、そう思っていたけれど。
洸太君は私に向かってグッと親指を立てた。
「俺達も昼まだなんすよね。だからご一緒していいっすか? 俺、道、案内しますよ!」
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