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「うわぁ、まさに廃墟っすね」


 車のスピードを緩めながら嬉しそうに洸太君が言う。駐車場がある右方向へハンドルを切り始め、「やめて」と声が出た。


「ちょっとだけ。ちょっとだけ、写真撮らせてくださいよ。俺、こういうの結構好きなんですよね〜」

「でも——」

「すぐっすよ、すぐ」


 洸太君は駐車場だった場所に車を停めると、ナビに使っていたスマホを充電器から抜き取り、車を出て行った。助手席の私はもう止める術がない。それに身体が固まって動けなかった。


 洸太君が車から離れて行く。Bluetoothで車内に流していた歌声がプツプツと途切れ始め、代わりにポツポツとフロントガラスに雨粒が数滴落ちた。曇天の雲は限界を超え始めたようだ。


 ひとりきりの車内。建物から顔を背け、フロントガラスの雨粒を見つめた。鳥肌をかき消すように腕をさする。


 やっぱりおばあちゃんの家は怖い。

 でも——。


 複雑な感情が湧く。


 夏休み。家族連れでいつも満室だったおばあちゃんのホテル。ビーチサンダルを突っかけてフロントを走っていく子供の笑い声。小麦色に焼けた人々が「また来年も来ますね」と車に乗り込む様子。そして、お客さんの車が見えなくなるまで手を振るおばあちゃんの姿——。


 怖いとは違う、おばあちゃんの家の記憶。閉じていた引き出しから思い出が溢れ出し、胸が詰まった。


 数年前まで、ここにおばあちゃんが住んでいた。お母さんはそう言っていた。お母さんはこのことを知っているのだろうか。自分が生まれ育った実家が、廃墟と化し、見るも無残な姿になっていることを——。


 ——だから、来たくなかったのか。


 お姉ちゃんはまだ赤ちゃんを産んでいない。だから、私に電話をかけてこなくても、お母さんは、自分で来れたはず。


 おばあちゃんが今住んでいる家に行く為には、海岸線のこの道を必ず通らをなくてはいけない。反対から行くとなるとかなり大廻りだ。廃墟と化した実家。お母さんは、これを見たくなくて、私に頼んできた。そんな気がして、さらに複雑な気持ちになる。


 夏は海水浴。冬は蟹。昭和の好景気、お母さんは裕福な家のお嬢様として育ってきた。私はそれを知っている。


 ——あんな派手な生活して。いつか落ちぶれるわ。紗千香、憶えときなさい。人生山あり谷あり。今は良くてもそのうち必ず谷底に落ちる日が来るんだからねぇ。コツコツと。コツコツと。自分自身の力を蓄えて、能力以上のことを求めたらあかんのや。


 一緒に暮らしていたお婆ちゃんは、縁側で私にそう言った。私はお婆ちゃん子だったから、それを何度も聞いた。お婆ちゃんは質素倹約で厳しいけれど、本当は優しい人だ。それに絶対にお姉ちゃんと私を比べたりしなかった。お母さんとお婆ちゃん。性格が合わない嫁姑は、仲が悪い。


 ——あんたはお婆ちゃんとお母さん、いったいどっちの味方なの?


 嫌な記憶だ。私はどっちの味方でもない。どっちも大事な家族なんだから。


 ひとりきりの車内。フロントガラスの雨粒に視線を張り付けながら、あの質問にどう答えるのが正解だったのかと、そんなことを考えていた。水滴の中は歪んだ世界で、ぽつりとこそだけ異質に見える。小さな点に吸い込まれるように、記憶が過去へとさらに遡る。


 お母さんのお母さん。おばあちゃんのことは大好きだった。優しくて、いつもにこにこ笑っていて。お年玉も、親戚の誰よりも高額だった。


 ——でも。


 おばあちゃんの家が怖い。

 その理由は——


 あの頃に感じていた嫌悪感や、やるせなさ。恐ろしさや悲しみ。それがだんだん蘇ってくる。思い出の引き出しがどんどん開け放たれていく。


 私は叔父さんのことが大嫌いだった。

 

 お母さんの弟、叔父さんは派手好きで、いつも高級外車を乗りまわしていた。パンチパーマの叔父さんは、品の悪い金色のネックレスをいつもジャラジャラ首からかけていて、全然働かない人だった。


 それに叔父さんは暴力を振るう人だった。 


 意味の分からないことですぐキレて、叔母さんや自分の子ども達を殴っていた。私は叔父さんが急にキレるのが怖かった。キレる理由が分からなかった。従兄弟達が可哀想だと何度も思った。でも、見ていることしか出来なかった。叔父さんを止めることは誰も出来なかった。おばあちゃんもおじいちゃんも。姉である私のお母さんも。そして、私のお父さんも。それが嫌だった。


 叔父さんは、大きくて凶暴な犬を飼っていた。茶色くて丸々と太ったライオンみたいな犬は駐車場の隅に鎖で繋がれていて、歯を剥き出しにしていつも吠えていた。


 ——この犬はなぁ、そんじょそこらじゃ手に入らねぇ、たっけぇたっけぇ犬なんじゃ。


 叔父さんはそう言ってたけれど、可愛がっているところを一度も見たことがない。世話をするのはいつも叔母さんだった。


 私はその大きな犬も怖かった。


 叔母さんは「さっちゃんほら、怖くないよ」と犬の側で笑ったけど、その引き攣った笑顔も怖かった。目の周辺が青黒く腫れていて、その時の叔母さんは、お化けみたいな顔だった。


 殴られて平気なの? 

 なんで笑ってるの?


 そんな叔母さんも叔母さんで、気味の悪い人だった。ガリガリに痩せていて、変なことを言う人だった。


 ——わたしねぇ、霊が視えるんやぁ。ほらぁ、あっこ見てみぃ。さっちゃん、わかるかぁ? 視えへんかぁ? おるやろぉ? あっこに、赤いべべきた女の子。


 ホテルの一階ロビー。エレベーター手前の誰も座ってない緑色のソファを指差して、叔母さんは当時小学生だった私にそう言った。応接セットのソファ。そこには誰も座っていなかった。でも叔母さんは、怖がる私に向かってこう言った。眉根を寄せて、内緒話でもするように。


 ——あんなぁ。うちの前にある階段で海へ降りるとこわかるか? あっこのテトラポットで、小さい女の子がこないだなぁ、死んだんやぁ。隙間に落ちたみたいでなぁ。ほんで、その子の霊が叔母ちゃんについて来てなぁ、ほんで、いまはあっこにおるんよ。


 話し終えると叔母さんは、嫌がる私の手を掴み、ソファに引っ張っていこうとした。私は必死に抵抗し、その場から猛ダッシュで逃げ出した。


 ——思い出したら胃がむかむかしてきた。


 あれは私を怖がらせる為の嘘だと知ったのは、だいぶ経ってからだった。教えてくれたのはお姉ちゃんだ。「あの話、叔母さんの嘘やって。信じたの? 怖がりやなぁ」と、お姉ちゃんは笑って言った。今から思えば、お姉ちゃんと叔母さんはグルだった気がする。あの時、叔母さんの横でお姉ちゃんは笑って見ていたから。それに、『犬山順治の夏休み怪談スペシャル』を私に見せたのもお姉ちゃんなのだから。


 私が怪談に嵌り始めたのは、あんな意地悪に屈しない為だ。もうお姉ちゃんに馬鹿にされたくない。そうか、それがきっかけだったんだ。そして今は怪談系YouTubeに嵌まっている——、と。


 ——そういうことだったんだ。


『おばあちゃんの家が怖い』のは、暴力的な叔父さんと、お化けみたいな叔母さんが嫌いだったからだ。それと、それを見て見ぬふりする他の大人達も。


 それに——。


 ——今は良くてもそのうち必ず谷底に落ちる日が来るんだからねぇ。

 

 お婆ちゃんの言葉を思い出す。

 雨粒から視線を剥がし、運転席に顔を向けた。今なら向き合える気がする。


 運転席の窓ガラスの向こう。

 洸太君の姿は見えない。

 でも。

 おばあちゃんの家だった建物は見える。


 廃墟だ。

 ぼろぼろで朽ち果てている。


 シートベルトを外し、運転席に身を乗り出して、窓の外、観光ホテル『浜なみ』だった建物を観察する。


 砂浜の近くにあった廃ホテルとはレベルが違う。あのホテルはまだ建物の原型を留めていた。なのに、いま目の前にある建物は、窓ガラスが所々割れ、背景の山から伸びる蔦で覆われている。まるで山に飲み込まれているみたいだ。 


 白かった建物は薄めた墨汁を天辺から流したような、どんよりとした色だ。建物の上、『浜なみ』と書かれた水色の看板もがくんと斜めに傾き、いつ落ちてきてもおかしくない。夏の青空の下、入道雲のようにそびえ建っていた『浜なみ』の姿は、見る影もなかった。叔父さんと叔母さんの顔が浮かび、ざまぁみろと、心の中で呟いてから、はっと我にかえる。すぐに「おばあちゃんごめん」と口にした。


 ここは、おばあちゃんの家でもあった。おばあちゃんが、頑張って切り盛りしていた観光ホテルだった。


「おばあちゃんごめんなさい」


 もう一度、さっきよりはっきりと口に出したけど、後味の悪さが胸腺に残った。罪悪感の滲みとして——。


 ぽつ。

 視界の隅でフロントガラスに雨粒が落ちた。

 ぽつ。

 ぽつ、ぽつ。

 小さな雨粒は次第に大きな粒となり、

 パラパラパラパラパラ——と、頭上で音が弾け始めた。雨はゲリラ豪雨のように一気に強く降り始め、窓の外、『浜なみ』が霞んでゆく。これ以上見ないで欲しいと、おばあちゃんの家が言っているような気がした。


『あ……のひ……め……——』


 雨音に混じり、途切れ途切れの音声が突然車内で聞こえ始めた。カーステレオからぷつりぷつりと聞こえるメロディ。今流行の、良い悪魔が悪い悪魔を殺していくアニメの主題歌だと理解できるようになった頃、洸太君が「ひぃー雨やばっ!」と言いながら運転席のドアを開けた。頭からティーシャツまでぐっしょり濡れている。この雨だし当然か。


「雨もやばいけど、廃墟っぷりもやばかったっすわ〜」


 後部座席に手を伸ばし、ガサゴソ弄ってタオルを引っ張り出した洸太君は、髪の毛を拭きながら私に訊いた。


「紗千香さん、あの建物。本当に数年前までおばあちゃんが住んでたんすか? 朽ち果て方が半端ないっすよ?」




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