第40話 回想②

 僕たち家族は、三日間の休日を使って京都観光を楽しんだ。初めて訪れる古都京都は、当時の僕にとって全てが新鮮だった。古い建物が並ぶ街並みや、圧倒されるほど荘厳な寺社仏閣たち。まるで時代劇の中に迷い込んだような感動を覚えている。

 でもその時の僕は、両親と一緒に居られればそれでよかった。美しい建築物群も、お母さんお父さんの隣で眺めるとより輝いていた。三人でいっぱい思い出を作った。僕の脳裏には、あの日の楽しい思い出が色褪せることなく焼き付いている。僕の人生において、間違いなく一番幸せな時間だった。

 だからこの時、あの悲劇に見舞われるなんて想像も出来なかった。


 銀閣寺にて。

 

 「せきちゃんっ、おてて繋がないと迷子になるわよ~!」


 「ちょ、ちょっとお母さん!」

 

 行き交う人混みの中を突き抜けるような、高く溌溂な声が響いた。何人かの観光客は、無意識に声のする方を振り向く。自然とその声を発した母親と、呼ばれた関介に視線が集まった。まさに夏休みの真っ只中。それも京都という、人が集まる観光地だ。多くの視線を当てられた関介は、顔を真っ赤にして母親の元へ足早に駆け寄り、ぷくっと頬を膨らませた。元凶の母親は、視線が集まっている事に気が付いてもいなかった。


 「どうしたの、そんな血相変えて」


 「他の人が見てる前でその呼び方やめてよぅ!」


 なおも頭の上にクエスチョンマークを浮かべる母親。そんな微笑ましい親子のやり取りを、少し離れた場所から女子大生の三人グループが、温かい目で見つめていた。


 「あの子可愛いね」

 「ねっ。見た感じ小学生かな? お母さんにいい子いい子されてて、見てて癒される~」


 彼女らは口々に言い合い、キャッキャと盛り上がっている。見つめているその少女が実は少年で、尚且つ剣道の中学生チャンピオンだと聞かされてもきっと信じないだろう。

 彼女らの熱視線はどうやら関介に届いたらしく、振り向くとばっちり目が合ってしまった。みるみるうちに頬が上気し、大きな瞳が潤んでいく。唇を嚙みしめ、うぅと口の隙間から小さなうめき声が漏れた。女子大生との間に気まずい空気が漂うなか、女子大生グループはバツが悪そうに、観光客の中に消えていった。


 「お待たせ。思ったより混んでて、って関介は何してるんだ」


 チケット売り場から遅れて帰って来た父親が、呆れた様子で二人に声を掛けた。あははと苦笑いで返す母親。その胸元に顔を埋め、不貞腐れる関介。事情を知らない父親は首を傾げながらも、関介の頭を優しく撫でた。すると嫌そうに首を振って、父親の手を退かした。


 「さっきお姉さんたちに可愛い可愛い言われたのが嫌だったらしくて、それから拗ねちゃったの」


 「拗ねてない!」


 泣きそうな声で叫ぶ関介。その姿こそ拗ねている証拠なのだが、中学生の関介にはまだまだ自覚できていなかった。そんな我が子を、両親は愛おしそうに見つめるのだった。


 結局、終始不機嫌のまま銀閣寺を回った関介は、お土産売り場の外のベンチに腰かけていた。自分の事を女の子と勘違いしていた女子大生にも、子ども扱いする両親にも苛立っていた。中学生という多感な時期の関介にとって、自分を否定される言葉は受け入れがたかった。どんなに少女のような容姿だとしても、心も身体もれっきとした男の子なのだ。

 両親がお土産を見ている間、暇な時間ができた関介。唇を尖らせ、足をばたつかせながら、二人が戻ってくるのを待った。まだまだ機嫌の戻らない関介は、ポケットからスマートフォンを取り出し、つまらなさそうに眺めた。するとメールアプリに、数件の通知が来ているのが目に入った。なんと無しにアプリを開くと、それは母親からだった。つまらなさそうな顔で銀閣を眺める関介の写真と、それを穏やかな表情で見つめる母親の写真が送られていた。不貞腐れた自分の顔を客観的に見て、関介は思わず吹き出した。


 「ふふっ、面白い顔。それにお母さん、すごく楽しそう」


 スマホを見つめ笑みを溢す少年を、傍を通りかかった人が不思議そうに二度見をした。スマホをポケットに戻すと、居ても立っても居られないといった様子で勢いをつけて立ち上がった。そしてその勢いのまま両親のいる土産屋とは反対の方向へ駆けていった。


 「あれ? せきちゃんは? もしかして迷子かしら!」


 関介が発った後、両手にお土産を下げた両親がやって来た。そこにいたはずの関介が消えており、あからさまに狼狽する母親。お土産をその場に投げ捨て、ベンチ周辺を見渡すも見当たらなかった。どうしよと何度も呟く母親の肩に手を置いた父親は、落ち着いた様子で諭した。


 「慌てすぎだよ。大丈夫、どうせトイレに行っただけだって。それに携帯だって持ってるじゃないか」


 ハッと我に返った母親は、急いでスマホを取り出し、関介の番号へ電話を掛けた。着信音がざわめきの中に響き渡る。着信音が何度かループした後、無機質な女性の声で、相手の携帯電話は出られない状態であると告げられた。その瞬間、母親の顔がさっと青ざめ、ふらふらとした足取りで近くのベンチに腰掛けた。これには落ち着いていた父親も、険しい表情で考え込んでしまった。二人の間に重たい緊張感が漂い始めた。その間にも楽し気な観光客の声は止むことをせず、関介の足音は遠くなってゆくばかりだった。


 「立派だなぁ、銀閣寺。いや待てよ、僕がいるのも銀閣寺で、目の前の建物も銀閣寺。お寺の中に同じ名前のお寺、不思議だ」


 両親の心配を知らない関介は、そんな呑気な独り言を呟いていた。勉強が得意でない関介は、社会の授業で習った知識で、辛うじて銀閣寺という言葉だけは知っていた。ただいつの時代に建てられたのか、そもそも誰が建てたのかすら知らない関介には、銀閣の持つわびさびなど到底理解できていなかった。それでも銀閣周りの池に沿ってぶらぶらとしながら、様々な角度から銀閣を眺めた。

 その時、関介は頭にほんの違和感を覚えたと思うと、それは電撃のような痛みへと変わった。苦しそうに額を押さえると、池の周りに張られた柵を片手で掴んだ。


 「っつ! 頭っ、痛い……」

 

 顔も上げられず、暫く水面に映る銀閣を見る事しか出来なかった。背後では、観光客の歩く気配を感じる。なのに何故か、関介に声を掛けるものはいなかった。

 

 「痛い、いた……くない」


 どれだけ俯いていたか分からないが、ふと気づいたときには、先ほどまでの頭の痛みは煙のように消えていた。ようやく顔を上げた時、ふと忽然とした違和感を覚え、慌てて背後を振り返った。

 関介は言葉を失った。今まで波のように蠢いていた観光客の姿が消えていたのだ。代わりに残ったのは、圧倒的な静寂だけだった。頭を叩いてみても、頬をつねってみても痛みが残るだけで、今関介が見ているのは紛れもなく現実だった。


 「はっ、お母さん……お母さん! お父さん!」


 関介は無意識のうち両親を呼んでいた。その叫び声も、林のざわめきに消えていった。晴れた空には、白い雲が無数漂っていた。

 その時、地面を踏む音が微かに聞こえ、思わず姿勢を低くする関介。柵の陰から見守ると、正体は二人の人物だと分かった。一人は父親よりも少し年上に見える、初老の男性だ。その隣を歩くのは、関介と同い年ほどの少年だった。二人は仲のよさそうに談笑し、関介まであと少しと迫っていた。隠れる場所も逃げる場所も無い、関介はただ息を殺す事しか出来なかった。

 二人の足音が、関介の耳元に近づいてくる。目を瞑りできる限り身体を小さくして、柵に身を寄せた。


 「和尚、昨夜不思議な夢を見たのだ。私の目の前に、見たことも無い姿をした同い年ほどの男が現れたのだ。ただその者は何も言わず、直ぐに幻のように消えてしまったのだ」


 「夢とは、まだ来ぬ先の日を映すと聞いたことがある。もしや、その者にまた出会うやもしれぬな。その時尋ねてみるがよい」


 「そうだな。何故か分からぬが、私はその者と仲ようできる気がしたのだ。いつかまた、その者に会いたいな」


 二人は関介に気づくことなく、直ぐ隣を通っていった。目を開けた関介は、彼らの後ろ姿を見送った。二人とも頭を丸め、袈裟に身を包んでいた。

 ほっと胸を撫で下ろした関介は、ふと池へと視線を移した。反射する水面には、向かい側の銀閣を映しているだが、何故か顔を近づけても関介を映すことはなかった。


 「どうして、僕の顔が……っつ! また頭、いたっ!」


 先ほど引いたはずの頭痛が、再度降りかかってきた。しかも今度は、さっきと比べ物にならないほどの痛み。自然と涙が溢れだした。あまりの痛みに声も出ず、口の隙間から嗚咽を溢す事しか出来なかった。

 関介の意識が徐々に遠のいていく。まるで深い海の中に引きづり込まれるように、ぐるぐるとした視界は、段々と黒くなっていき。


 その後僕は、お母さんの声に起こされた。泣きながら何度も僕の肩を揺するお母さんを見て、どうしようもなく涙が溢れたのを覚えている。だけど、肝心のあの銀閣の前で見た内容は思い出せなかった。ぼんやりと、誰か二人が喋っていたような気もするけど、それが夢かどうかも分からなかった。

 記憶を辿る旅は、もう少しで山場に入る。銀閣を最後に、僕らは帰路についた。その道中での出来事だ。僕の記憶の中の、黒く塗り潰した暗い過去。僕はまだこの記憶を、克服できそうにはなかった。

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