第23話 河東一乱 ①

 雲一つなく平和に澄み渡った駿府の青空に、騒乱の雷が降り注いだ。改めて、戦国の世に平和なんて無いのだと思い知らされる。あの日の未明、目の前に突き刺さった日本刀を思い出して、頭の奥がずんと傷んだ。戦争は人を殺す。夥しい血液を流し、田畑の作物を腐らすのだ。僕はこの目で見ている、人が人を殺める瞬間を。赤く染まった視界の中で、何を思ったのかまではもう覚えていなかった。

 承芳さんは顔を真っ青に染め唇を震わせていた。きっと僕なんかより北条さんの怖さを知っているのだろう。どうやら僕たちは、決して敵に回してはいけない人に喧嘩を売ってしまったようだ。とは言っても、僕には北条さんが何故怒っているのか見当もついていない。承芳さんに聞いてみても、分からないと呟くだけだった。まるで見えない何かに追いかけられているような、そんな薄気味悪さを覚える。ただ一つ分かっているのは、戦争が起きるという事実だけだった。


 雪斎さんの指示のもと、承芳さんと一緒に広間へ向かうと、既に大勢の家臣の面々が揃っていた。中には顔見知りの親綱さんや、よく稽古の時に会う朝比奈泰能さんなど中々の武人揃いだ。それだけに今回の騒動の重大さが分かる。

 

 「皆の衆、既に届いていると思うが、北条が我らの領地へ侵略してきておる。状況は一刻を争う。皆は速やかに戦の支度を始めてくれ」


 雪斎さんが壇上から皆に向けて言うと、ばらついた喧騒が一瞬黙り込んだ。一斉に視線を向けられてもなお、雪斎さんは毅然とした態度で皆を見据える。その強い視線に緊張感が伝わってくる。

 すると不意に一人の男が拳を床へ叩きつけ、肩を震わせながらいきり立った。


 「どうして今になって北条が我らを攻めるのだ! 北条とは同盟中ではなかったのか!?」


 それは同盟を破棄した北条さんを責めているようで、同盟を結ぶことを決めた雪斎さんや承芳さんを責めたてるように聞こえ、胸の中に鋭利な感情がうごめいた。


 「そうだ! もとはと言えば、雪斎殿が武田と同盟などせねば此度の事には!」


 「だから私も同盟に反対だったのだ!」


 僕はふつふつと湧き上がる感情を抑えるように、ふっと大きく息をつく。隣の承芳さんの様子を窺うと、丁度目があった。彼はやれやれと大袈裟に手を振って、諦めたように笑った。そんな表情をしてほしくない。雪斎さんも承芳さんも悪くないはずなのに、どうして我慢しなければいけないんだ。

 僕の気配を感じ、承芳さんが僕の肩に手を置き首を横に振った。この人はどこまでも優しい人だ。自分を悪く言う人に何も言い返さないなんて。だけど僕は……承芳さんの手を払い除けると、ぐっと手に力を込めて立ち上がった。

 

 「どうしてそんな事言うんです! 同盟を結んで武田さんと仲良く出来たから、駿府が平和になったんでしょう? もし同盟を結ばないのなら、貴方の力だけで武田さんを食い止める事が出来たんですか?」


 承芳さんはあり得ないと言った様子で目を見開き、僕の名前を気の抜けた声で呟いた。


 「なんだぁ小娘? 義元様のお気に入りだか何だか知らねぇけどよ、俺に盾突くって事がどういう事か分かってねぇみたいだなぁ! ああっ?」


 野次を飛ばす男たちの一人が、真っ赤な顔に血管を浮き出させ、まるでヤクザ映画のような剣幕で近づいてきた。承芳さんも心配そうに眉根を寄せ、僕の顔を見上げていた。それでも承芳さんの視線を振り切り、迫ってくる男と対峙する。本当は泣きそうで、今にも逃げ出したい気持ちで一杯だし、足の裏の感覚が無くなるほどには緊張している。さぁどうしようか、もしかしたらこのまま殺されてしまうのかもしれない。

 男の伸びた腕が僕の胸倉を掴むと、唾を飛ばしながら怒声を上げた。


 「それならよ、お前は北条を食い止められんだよな! なぁ!」


 つま先が宙に浮き、息が苦しくなる。男の怒りに満ちた表情が涙で霞み、全身が恐怖に染まる。だけど、僕の中に残っていた微かな勇気を奮い立たせ、下がりかけた目尻を思い切り吊り上げて男を睨みつけた。威勢は顔から現れるのだろう、徐々に恐怖が薄らいでいき、男への怒りが湧きあがっていく。


 「娘じゃない! 関介だ! や、やってやる、僕が北条をやっつけてやるよ!」


 無理に怒りを表に出し感情のたかが外れ、熱に浮かされた頭でほぼ無意識に叫んでいた。部屋の空気が止まった気がした。自分でも自分の言葉に驚いている。目の前の男もポカンとし、腕を離れた僕は咳き込みながら身を引いた。

 頭に血が上って、思っても無いことを口走ってしまった。どうして僕はこうも簡単に乗せられてしまうのか。


 「関介殿、今の言葉本当ですか?」


 気味の悪い笑顔を張り付けた雪斎さんが、さぞ楽しそうに尋ねてきた。雪斎さんがこの笑顔の時、いい思い出が全くない。通称ブラック雪斎さんだ。


 「いやその、今のは言葉の綾で……」


 今更何を言っても遅かった。分かっていると言わんばかりに、満足そうに頷く雪斎さん。この人絶対に分かってない。今川家の一大事に僕なんかが。いやまぁ、僕が言い始めた事なんだけど。


 「皆の者、此度の戦、そこの関介殿に先鋒隊を任せる事にする。異論はないな? いいか彼の初陣だぞ、気を押して戦にかかるよう」


 部屋中が喧騒に包まれた。心配する声、焦燥する声、そして僕の初陣を鼓舞する声で溢れる。どうしよう、明らかに後に引けるような雰囲気では無くなってしまった。僕に戦? そんなの無理に決まってるよ。

 この浮ついた空気を切り裂くように、さきまで傍観していた承芳さんが声を上げた。


 「待ってくれ和尚! 何を馬鹿な事を言ってるんだ! 関介に先鋒隊など任せられる訳が無いだろう! 万が一大怪我でも負ったら」


 「お前は関介殿を信用していないというのか?」


 痛いところを突かれたと、承芳さんは咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。悔しそうに唇を噛んで雪斎さんを睨みつけた。承芳さんは床を叩き、立ち上がる勢いそのまま僕の肩を掴んだ。


 「関介は本当にいいのか? 一歩間違えれば死んでしまうかもしれないんだぞ!」


 肩を掴む腕に力が入り、締め付けられるような痛みを覚える。それだけ真剣なんだ。承芳さんの泣きそうで縋るような表情に、僕の心が大きく揺さぶられる。本当はこのまま首を横に振って、戦に出たくないと言いたかった。でも当主のくせに情けないその顔を見て、僕はこの人を守りたい、力になりたいという感情が沸き起こってきた。今まで守られてばっかだった。どんな時も承芳さんが僕を救ってくれたんだ。だったら、今度は僕が承芳さんを救う番だろう。

 ふっとぎこちない微笑みを浮かべる。それが僕にできる精一杯の強がりだった。僕は承芳さんの手を取ると、自分の胸の前に寄せる。頭のいい承芳さんは僕の決意を悟ったのか、苦しそうに顔を歪めた。


 「大丈夫ですよ承芳さん。そんな顔しないでください、僕まで……泣きそうになるじゃないですか」


 声が掠れ、目頭が熱くなっていく。堪えようとしたけど無理だった。だって本当は怖いんだもん。逃げたいんだもん。それでも、守りたいという気持ちだけでそれらの弱い自分の気持をぐっと抑えて言った。


 「僕が守りますから。今川を、承芳さんを守るから。だから……」


 その瞬間身体を引き寄せられ、温かい腕に包まれた。いつもみたく優しくない、不器用で乱暴でちょっと窮屈だった。


 「お前が死んだら、私は生きていけない。だから絶対に生きて帰って来てくれ……絶対にだ」


 今日僕は戦場へ向かう。初めての戦争は怖いし、もしかしたら命を落としてしまうかもしれない。それでも、僕は決めたんだ。これからは、僕が承芳さんを守るって。

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