第24話 河東一乱 ②
1537年 2月 24日
今川館を出て二日が経った早朝。僕は今川勢三千、武田さんの軍勢二千のざっと五千の軍勢に囲まれながら、親綱さんの後ろで馬に揺られていた。同盟中の武田さんも手助けしてくれるようで、かなり心強い。
親綱さんの背中はごつごつして、なんだか居心地が悪かった。匂いも肌触りも、背中に耳を寄せた時に聞こえる心音も承芳さんとは違う。僕の心の逃げ場所は此処には無く、思わず涙が溢れそうになった。また不慣れな甲冑が更に不安な気持ちを増長させた。枯れ木を踏みしめる蹄の音や吹き付ける風が、弱った僕の精神を確実に傷つけ、背中へ抱き着く腕にきゅっと力を入れた。
ふと僕の気持ちに気が付いたのか、親綱さんがぽつぽつと穏やかな口調で呟く。
「今から肩に力を入れていては、戦場で疲れてしまいますよ。大丈夫です、関介殿は私共が全力でお守りしますから」
「それじゃあ僕、みんなに守られっぱなしじゃないですか。僕はみんなの力になりたいんですけど……」
威勢よく言ったつもりだったのに、親綱さんはぷっと噴き出し背中を震わせた。雪斎さんといい僕の周りの大人は、こぞって僕の事を馬鹿にする。見られてないのをいいことに、頬を精一杯に膨らませ、むぅと唸り声を上げた。
「ふふっ、雪斎殿の話を聞いた通り、関介殿は真に可愛らしいお方ですな。私の倅にももう少し可愛げがあればよいのだが」
「かっ、可愛いって言わないで下さいよぅ。これでも男らしくあろと……」
「関介殿はまだ幼いのですから、大人の我々に助けられても良いのです。やがて成長した暁に、義元様のお力になれればよいのですよ」
僕だって現実だったら今頃大学生、もしかしたら働いていたかもしれないのに。やっぱり子ども扱いする親綱さんに文句の一つでも言いたかったけど、反抗する言葉が見つからず、僕は唇を尖らせてそっぽを向いて無視を決め込むことにした。少しは慌てて欲しかったのに、それ以上親綱さんは声を掛けてくることはなかった。大人の余裕というやつを見せられ、僕は無性に苛立ちを覚えるのだった。
ひたすら東に進んでいると、朝と比べ日が高い位置まで昇っていた。多分三時間くらいは歩き続けていたと思う。北条さんの軍勢はどうやら駿府の国境を侵入し、諸城を陥落させながら西進してくるだろうとの事だった。僕らの目的はあくまで北条さんを追い返すこと、戦に勝利する事じゃない。今川家臣の守るお城を攻める北条さんの横合いを突き、少ない消耗で追い返すのが今回の理想だ。急いで北条さんの軍を食い止めなければ、被害が大きくなる一方だ。被害と一言で言っても、それは人が死ぬという事だ。必ず誰かが悲しみ、殺した相手を憎むのだろう。その負の連鎖が大きくなった時、駿府の平和は崩れ憎悪の炎に包まれてしまう。それだけは避けなければ。
心なしか、行軍のスピードが上がっている気がする。みんな仲間が北条さんに攻められていることを案じ、目に見えて焦り始めている。僕の心の中にも、焦燥感と何もできない歯痒さを覚え胸が締め付けられるように痛んだ。
馬の脚が止まったと思うと、唐突に親綱さんは前方を歩く武士さんたちに声を張り上げた。
「みな一度足を止めよ! 一度ここで休憩を取る。みなの逸る気持ちは分かるが、焦りは敵の思う壺だ。ここは体力を温存し、北条との戦に備えるのだ」
直ぐにでも向かいたい武士さんたちからは落胆の声が聞こえたが、そうでもない人たちは恐らく農民の方たちだろう。戦争するにあたって、武士さんだけじゃ足りないらしく、普段は農民をしている人たちも招集するのだと聞いた。出来れば戦争なんて参加したくないに決まってるよな。だって彼らの仕事は農業だ。それを武士たちの事情で戦地に呼び出して、都合がよすぎる話だと思う。
馬から飛び降り軽く伸びをすると、思わず口元から気の抜けた息が漏れた。久しぶりの地面の感触に感動を覚え、軽く地面を蹴る。跳ね返ってくる硬い触感は、自分が生きている証拠だ。
「関介、と言ったっけ? えらい別品さんだけど、義元様の右腕なんだって? おめえさんすげえじゃねえか」
不意に声を掛けてきたのは、頭に白い布を巻き付け、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして笑う農兵さんだった。僕のお父さんくらいの年で、口周りの皺の数と薄くなった髪で随分と年上に見える。
「右腕だなんてそんな……僕はただしょうほ、義元様に気に入られてるだけですから。怖がりだし泣き虫だし、一人じゃ何にもできないから、あの人の傍に居させてもらってるだけですよ」
僕は自嘲気味に答える。彼の力になりたいけど、なれてない自分がいる。それがもどかしくて、悔しくて。その抑えられない気持ちを、自分を卑下することで何とか誤魔化そうとした。
すると農兵さんは少し寂しそうに笑うと、懐から布を継ぎ合わせたような巾着を取り出して言った。
「これはな、俺の妻が作ってくれたんだ。貧相な出来だろ? だけど、俺にとっては最高の御守りなんだ」
そう言うと、遠い目で空を見上げた。僕も同じように視線を向けると、そこに承芳さんが映った。
「俺もな、妻が傍にいないと生きていけないんだよ。俺は百姓だし、銭ころ稼ぐには戦に出るのが一番手っ取り早いんだよ。だけど、やっぱり不安だよな。妻を置いて死にたくねえし、痛えのは嫌だかんな。でもよう、人間なんてそんなもんなんじゃねえのって思うわけよ。関介はまだ若えんだ、いっぱい悩んだらええと思うで」
「ふふっ、貴方はとても立派な人間だと思いますよ」
人の為に生きられる人間が立派じゃなかったら、この世はみんな普通の人で溢れかえってしまう。それはちょっと寂しい。承芳さんは凄く立派な人だから。自分の事で精一杯の僕にとって眩し過ぎるくらいに。
「貴方とか他人行儀な呼び方は好きじゃねえんだ。米次郎、それが俺の名前だ。長男なのに次郎なんだぜ、笑っちまうだろ? 死んだ親父が、きっと酒の勢いでつけたんだ。まぁ、俺はこの名前嫌いじゃないけどな」
「米次郎さん、奥さんの為にも、必ず生きて帰りましょう」
米次郎さんは、くしゃくしゃな顔で僕の死んだお父さんのように優しく笑った。
軍は再び歩みを始めた。目的地は勿論北条さんの軍勢だ。暫く歩くと、かなり見晴らしの良い平らな大地に差し掛かった。四方の地平線の先まで見渡せ、ここなら何処から敵が来ても直ぐに発見できるだろう。
役五千人もの行軍は、この広大な平地を縦に割るように進んでいった。ただやはり、大人数での行動にはスピードの限界がある。今にも戦火に見舞われてしまう人々がいるかもしれない。その焦りがピークに達した時、前方に米粒ほどの黒い影が見えた。
「親綱さん、ところで北条さんの目的地ってどこなんです?」
「今ほど、北条に忍ばせた間者が来たが、いわく北条軍は現在国境沿いに軍を敷き、我らを待ち受けているとの事です。ただ私の予想では、今頃とうに駿府国内に侵入し、前線の城を攻めているはずなんですが」
黒い影は徐々にその姿を露わにしていった。それは影なんかじゃない、ひしめき合うように蠢く人の群れだった。
「じゃあ、あれって……」
親綱さんは中々答えてくれない。それが意地悪じゃないくらい、背中から感じる緊張感で直ぐに分かった。僕はもう一度、前方に見える人の群れを見やる。なにか尋常ならぬ雰囲気を感じ生唾を飲み込んだ。
呆然と前方を見つめる親綱さんは、ようやく絞り出すような声で呟く。
「あれは……北条軍です。だが何故我らの目の前に……まさか」
それの意味する事は、戦国時代の戦をほとんど知らない僕でも分かった。まずは間者の情報が間違っていた、若しくはわざと偽の情報を掴まされたという事。そしてもう一つは、この平原が戦場になるという事だ。
兵士の方々も気が付いたようで、場が騒然とし始めた。明らかに動揺する人、自身を鼓舞する人で溢れ、誰もが目の前に迫った戦争を意識していた。そこでさっき話した米次郎さんが視界に映った。彼は奥さんのお守りを大事そうに指で撫で、そっと懐にしまった。
「みな前方に北条軍が現れたぞ! 気を抜く出ないぞ、先ずは敵方の出方を見て……」
親綱さんが士気を高めようと声高らかに言うも、途中である事に気が付いて言葉を飲み込んだ。人影がようやく形になり、見えたのは天へと掲げられ風にはためく旗だった。そこには三角形の真ん中が逆三角形にくりぬかれた模様だった。あまり見覚えは無いけど、恐らく北条さんの家紋なんだろう。
だけどその中に、一つだけとても目立つ旗を見つけた。他の旗は白色なのに対し、それは黄色に染められ何やら四文字の感じが描かれていた。
「地黄八幡の旗印、まさか……北条綱成までもが出陣しているとは……」
「綱成さんってどんな方なんです?」
「北条軍きっての猛将で、若くして数々の武功を上げています。さきの義元様の後継者争いでも、恵探勢を次々と打ち滅ぼした将にございます。奴が出陣しているとは、北条め我らを徹底的に潰す気です」
綱成さんがどれほどの武将なのか、味方の兵士たちの様子で一目瞭然だった。戦を前にすごんでいた武士さんたちが、みな動揺し浮足立っている。恐れしらずの武士から恐怖される猛将。僕らはそんな武将と戦って、本当に勝てるのか?
すると息を切らしながら、伝令が僕らの足元から声を上げた。
「親綱様! このまま平地で正面衝突しては、甚大な損害を被ります! ここは一度撤退の指示を!」
「ば、馬鹿を申すな! 背を向ければ、それこそ軍が瓦解し、衝突以上の被害が出るのだぞ! 今我らに残された道は、正面から北条を破るしかないのだ!」
すると北条さんの軍勢から、胸をつかれるようなほら貝の音が響いてきた。そして次の瞬間、大地を揺るがす怒号と共に、無数の兵士たちがこちらに向かって駈けて来た。もはや考えている余地は無い。戦うか逃げるか。指揮官である親綱さんに、一瞬の判断が任される。
そうして彼は決断した。
「全軍、かかれ!」
それが戦争の合図だった。兵士たちを乗せた馬は、風を切り北条さんの軍勢へ向けて駆けてゆく。
「関介殿、決して振り落とされぬよう気を付けてください」
そんなこと言われなくても、絶対に離さないから心配しないで大丈夫だ。ただ僕に返事する心の余裕はなかった。急にぐっと後ろに引かれる感覚を覚えたと思うと、馬は姿勢を低くしどんどんと速度を上げていった。
親綱さんの背中に顔を埋めたまま顔を上げられなかった、上げたくなかった。僕の耳に届くのは、敵か味方か分からない兵士たちの悲痛な叫び声だった。肉や血が飛び散り、生命が潰える音があちこちから聞こえる。
ようやく顔を上げた時、辺りはまさに地獄絵図だった。背中に刺さった槍を突き立て、地面を這いずる者。目を潰され、ふらふら彷徨う者。込み上げてくる吐き気をすんでの所で堪え、僕は自然と涙を流していた。
「親綱さん……」
「見たくなければ目をお閉じ下さい。私が貴方を守りながら戦いますから」
やっぱり僕は何処にいても守られてばっかりなのか? 僕を守りながら戦うなんて、それじゃあ僕はただの足手まといじゃないか。そんなのもう嫌だ。誰かを守るために、僕はこの戦場にいるんだ。
その時、視界の隅に見覚えのある人が映った。米次郎さんは、不慣れな刀を懸命に振って応戦していた。向かってくる敵をいなし、必死に戦っている。しかしその背後で、槍を持った兵士が彼を狙っていた。
僕の体はほぼ無意識に動いた。駈けている馬の上で身を反転し、勢いをつけて飛び降りる。
「米次郎さん、危ない!」
彼を押し倒すのと同時に、彼が丁度今いた空間に敵の兵士が槍を突き刺した。空ぶった槍先は行き先を見失い、その勢いのまま地面へと刺さる。後少し僕の行動が遅れていたら、今頃米次郎さんは……脳裏には、足元で転がる米次郎さんの躯が浮かび、歯の隙間から言葉にならないうめき声が漏れた。
大きな舌打ちと、地面から槍を抜く音が背後で聞こえた。ゆらゆらと歩み寄る人影を目の前にして、僕は動けずにいる。次の瞬間、人間の肉の切り裂かれる音が耳元で響き、夥しい血と共に兵士の生首が足元に転がる。兵士の色の無くなった眼球が僕の目を捉え、地獄に引き込まれそうな感覚が全身を覆った。
そこで僕の心は壊れた。
「関介、何故ここに!? いや今それはいいか、とにかくありがとな! お前のおかげで助かった……どうした、関介?」
世界が真っ赤に染まる。僕の世界にドロドロとした大粒の血が降り注ぎ、それは大きな海となった。
気持ち悪いからやめてよ。僕の世界はこんな汚れてなんかいない! 僕と承芳さんの世界はきっと……
「僕が守るんだ……僕が……」
シルエットのない黒い塊が、頭の上からずしんとのしかかる。そして僕の意識は暗い穴の中へと落ちていった。
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