第25話 河東一乱 ③
1537年 2月 24日
今川館。
和尚は終始難しそうな顔で、目下の地図を睨みつけていた。赤い印を打った相模、伊豆の国境沿いを指でなぞり、将棋の詰めの局面の時のような唸り声を上げた。
地図上の自軍と敵軍を将棋の駒に見立て、玉を詰めるのが大将の務めだ。今まさに駒として関介たちは敵軍と戦っているのに、私たちは安全な場所から采を振るう事しか出来ない。何もできない無力な自分に、言葉にならないもどかしさを覚え唇を噛んだ。
私には和尚の考えが全く理解できなかった。何故危険な戦場に戦の経験のない関介を、それも相手は関東で大きな力を持つ北条家だ。激しい戦になる事は目に見えており、怪我で済めばよいが、命を落としてしまう事だってあるかもしれないというのに。それに此度の戦、今川家の命運を分ける戦だ。和尚が直々に戦場へ赴いてもいいはずだ。私には和尚無き五千の戦力で、北条に勝てるなど到底思えない。
「なんだ承芳、そんな情けない顔をしおって。大方関介殿の心配をしておるのだろうが、大将ならば少しは味方を信じろ。親綱殿もおる、関介殿なら大丈夫…………なはずだ」
何故最後の言葉を言い淀むのだ、余計心配になるじゃあないか。
「和尚は、本当に今川が北条に勝てると信じているのか?」
「いや、勝てるとは思っていない。まぁ九割がた負けるだろうな」
思わず和尚の顔面を殴り飛ばすのを、僅かな理性ですんでのところで止めた。和尚め、私に信じろと言っておきながら、今川が負けるだと?
「どういう事だ和尚! 何故今川が負けるというんだ!」
「何故って、北条方にはあの北条綱成も出陣するであろう。であれば、よほどのことが無い限り、今川の兵力では歯が立たない。それ故、今川が負けるだろうと予想しているだけだ」
「だったら何故、関介をそんな負け戦と分かっている処へ行かせたのだ!」
言葉に熱をこめて叫んでも、和尚の表情が変わる事は無かった。私と和尚とで見ている世界では、色も温度でさえも違っているのだろう。きっと今の和尚は私たちを、温度の無い駒としか見ていないのだろう。
私が和尚に掴みかかろうとした時、自身の身体が一瞬軽くなったと思うと、次の瞬間には視界が一転し背中を床に打ち付けていた。痺れるような痛みが遅れて脳へ届き、不覚にも情けないうめき声を上げてしまう。
痛みに閉じていた瞼を開けると、和尚の睨みつける顔が間近にあった。温度の無いと思っていた和尚の瞳は、燃え滾るような熱を帯びていた。
「やはりまだまだお前は若いな」
「それは和尚が年を取っているだけ、って痛い痛い! もう余計な事は言わないから、放してくれ!」
手首を捻り上げられ、ミシミシと骨の軋む音が聞こえる。和尚め、老いた体の何処にその身体能力を秘めておるというのだ。私は床を叩いて降参の合図を送り、物足り無さそうな顔をしながらもようやく手首を放してくれた。もう少し捻られていたら、骨が絶たれていただろう。和尚は手加減というものを知らないのだろうか。
「敗戦だからこそ関介殿を向かわせたのだ。負けの戦からは得るものも大きい。そしてその経験が、必ずやお前の隣で発揮される日が来る」
可愛い子にはと言うが、それにしても相手は北条だ。負けてただで済む相手ではない。
「それでも私は、此度の戦に関介を連れて行ったのには反対だ。関介が死んでしまうかもしれないんだぞ? 和尚は本当にそれでもいいと思っているのか?」
「長らく生活を共にし、とくいの慧眼も曇ったか。私はな、承芳や関介殿が思っている以上に、お前たち二人の事を買っているのだ。お前の目が見つけ、連れて来た関介殿を信じてみよ」
そう言われ、改めて関介と出会った日の事を思い出す。一目見て、私は関介に強く惹かれたんだ。見た事の無い強い光を放ち、燦然と輝く関介はまるで闇夜を照らす月のようだった。この者と共に生きたい、そう思ったんだ。
「それに関介殿なら、きっと私の想像もつかないような事を成し遂げてくるはずだ。私たちが今すべき事は、彼らを信じこの局面を乗り越える策を考える事だ」
関介……泣き虫で弱虫で、怖がりで甘えん坊で。そんなお前が、今戦場にいるのか。関介、絶対に死ぬなよ。お前がいない世で生きて行くなど、私には考えられないんだ。
1537年 2月 25日
頭上の物音で僕は目を覚ました。頭の中がズキズキして痛み、思わず手で押さえる。眩暈を覚えながらおもむろに瞼を開けると、僕の顔を心配そうに見下ろす親綱さんと目があった。なんで僕は眠っていたんだっけ。というか、ここはどこなんだろう。
寝起きのとろんとした頭で辺りを見渡すうち、徐々に脳が現実に追いつき始める。その時、転がった人間の生首が不意に脳裏にフラッシュバックし、口の中を酸っぱい液体が満たしていった。手で口を押え勢いよく身体を起こすと、途端に胃の中が暴れ始めた。手の中に温かい感触を覚え、その隙間から白く濁った胃液がぼたぼたと床に落ちる。えずく度喉は熱くなり、胃の痙攣が止まらなかった。
申し訳ないが親綱さんの心配する視線も目障りだった。この胸の中の苛立ちを全て吐き出したくて、僕はひたすら床に向かって嘔吐し続けた。その内吐き出す物が無くなるまで僕は顔を上げられず、乾いたえずきが止まった頃、親綱さんが口を拭く布を持ってきて背中を摩ってくれていた。
「安心してください、今のところ敵は近くに居ません。今は味方陣地の中ですので、ゆっくりしても大丈夫ですから」
「……けほっ、ううぅ、すみません親綱さん……やっぱり、僕って足手まといですよね」
「そんなっ、関介殿が足手まといなんて! あの時農兵を助けたのも、関介殿ではないですか」
親綱さんは慌てた様子でかぶりを振った。あの時の農兵……そうだ思い出した。
「そうだ親綱さん、米次郎さん、いやその時の農兵さんは助かったんですよね? 彼は今どこにいるんです?」
すると、急に彼の顔が曇る。僕の頭の中に一つ嫌な予感が浮かび、頭を振ってそれを無理やり吹き飛ばした。やめろやめろ、そんなの絶対にありえない。
「生きてますよね? ねぇ、親綱さん?」
今自分はどんな顔をしているんだろうか。頑張って笑おうとしているけど、きっと酷い顔をしているんだろうな。だって親綱さんがすごく悲しそうな顔をしているから。涙を我慢している子供をあやす大人のような顔だ。
「彼は殺されました、気を失った貴方を庇って。槍で体を突き刺されながらも、彼は貴方を決して離しませんでした。あれほど勇敢なもののふは初めて見ました」
全身の力が抜けてゆくのを感じた。親綱さんが支えてくれなかったら、きっとその場で丸まってしまっていただろう。両親が死んだときのように、一日中布団の中に包まっていたかった。
涙が頬をつたい床に落ちる。唇が震え、隙間から弱弱しい吐息が漏れる。僕の肩を抱く親綱さんの腕の力が、少しだけ強くなった気がする。僕はまだ、大人に慰めてもらわないと生きていけない子供だった。そんな自分が死にたくなるくらい嫌いだった。
「やっぱり僕は……守られてばっかなんですね。誰かを守る事なんて僕には」
すると親綱さんは、懐からある物を取り出して僕の目の前でそれを広げた。それはよれよれの布を継ぎ合わせた巾着だった。
「彼が息を引き取る前に、これを関介殿にと。私には分かりませんが、きっと彼の大事な物なんでしょうね」
「はい……彼の、米次郎さんの、大事な人から貰った……」
巾着を手に持つとその瞬間、彼のくしゃくしゃな笑顔を思い出した。そして、親綱さんに抱かれたまま、僕は力の無い嗚咽を漏らし続けた。
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