第26話 河東一乱 ④

 1537年 2月 26日


 今川家が弱い。いや、そんなはずは無いのだ。曲がりなりにもあの武田としのぎを削り、将軍様の血脈を継ぐ由緒正しき名家である。それにもかかわらず彼ら兵士たちは、地黄八幡の旗を見ただけで腰を抜かして逃げていきおった。不自然な程に弱い兵士と、殆ど機能していなかった指揮系統。この様子なら、父上に言った富士川以東どころか、本拠地の今川館すら陥落させられる勢いだ。

 自軍の被害は少なく、士気も高いまま維持できている。このまま進軍すれば、今月中には富士川以東は我が北条の手の中に落ちるだろう。だが何故だか、私は一抹の不安感を拭えずにいた。死に体であるはずの今川から、底知れぬ不気味さを感じるのだ。それが私の思い違いなのか、はたまた今川の隠し持つ底力なのか分からない。やはり、最後まで気を抜いてはいけない相手なのだという事だろう。


 少し一人で考えたいと伝え、今は陣幕の中を私一人きりで座っている。静けさは頭の回転を速くしてくれる。そっと瞼を閉じると、深い思考へ沈みこんでゆく感覚に襲われた。

 その時、土足で踏み入る乱暴な足音が脳内に木霊し、私の集中の糸は脆くも途切れてしまった。


 「ようっ氏康! 今川の兵士共、何か思っていたより大した事ねえなぁ。この勢いのまま本拠地まで攻め込もうぜ!」


 「はぁ……少しは静かに喋れんのか綱成。それに油断し足元を掬われれば、優勢の我らに余計な被害が増えるだけだ。ここは慎重に、相手の行動を予測して……」


 綱成はがたっと音を立て大仰に手を振る。さも今川ごときに負けないと言わんばかりの嘲笑を浮かべ、その視線は綱成の勢いに気圧されている私にも向けられていた。


 「はっ、よく言うぜ! 氏綱の爺さんにあれだけ啖呵を切ってたくせによう。それにあん時、稽古中の俺に詰めかけてきた威勢は、一体何処行っちまったんだよ、なぁ?」


 「ううっ、そっそれは……ずるいとこを突くなぁ。たまに自分でも分からない状態になる時がある。こう頭の中に、もう一人の自分が現れる感じと言えばいいのか。まぁとにかく、頭の切れる冷徹な男に体を乗っ取られる時があるのだ」


 手振り身振りで説明し、困ったように笑いかける。自分でもよく理解できていないことを説明するなど、いくら聡明な諸葛孔明であっても不可能だ。

 

 「そいつはお前より頭がいいのか?」


 「あぁ、遥かにな」


 そう言うと、綱成は腹を抱えて大きな口を開けて笑い転げた。綱成から馬鹿にされている理由くらい、自分でも自覚している。私の祖父である早雲殿が北条の礎を築き、父の氏綱が関東へ版図を広げた。偉大な先代を継ぎ当主となった私は、北条のため民のため、必死になって政務を全うしようとした。

 だが、私には当主の為の能力が、全くと言っていい程備わっていなかった。その事に気が付いたのは、私の初陣の時だった。扇谷上杉家との戦、当初我が軍が優勢と思われていた。だが、私の率いる隊が壊滅すると、連鎖するように次々と部隊が潰走していった。私はその戦で、家臣や親族から無能の烙印を押されてしまったのだ。当たり前だ、次期当主たる私が、とんでもない失態を犯してしまったのだから。恥ずかしながら、人目を憚らず涙したのを今でも鮮明に覚えている。

 その日からだった、私の中にもう一人の自分が現れたのは。


 1537年 2月 28日


 結局富士川以東までは、いとも簡単に占領できた。攻め込んだ諸城はいずれも直ぐに降伏し、殆ど手こずる事は無かった。綱成の言う通り、このまま本拠地まで落とせる気がしてきたな。

 今川軍は最後の抵抗にか、富士川を挟みこちらの軍と対面するように布陣していた。この軍勢を突破すれば、今川館も目と鼻の先だ。実質これが最後の戦になるであろう。だが、対面する今川の軍勢から殺気というか、敵と戦う前の雰囲気というものを感じられない。だからと言って、諦めているようにも見えない。今の今川から感じるのは、勝利の熱に浮かれた、ある種の洗脳的な狂気だ。明らかに劣勢な状況にも関わらず勝利を確信し、まるで見えない仏の加護を受けているようだった。


 「おいおい氏康、ありゃあなに者だ? お前見た事あるか、あのガキをよ」

 

 今川の軍勢の先頭に立つ一人の武士がいた。その者は、武士にしては華奢な体躯をした、年端もゆかぬ女子のような男児だった。


 

 僕が今川を、承芳さんを守るんだ。駿府を、米次郎さんの奥さんを、僕の周りの皆の故郷を。僕らの大切な物を壊す敵だったら、例え北条さんだとしても僕はもう許さない。でも、僕にできる事は何もなかったんだ。兵士の指揮を執る事も、先陣を切って敵兵の首を取ってくることも。弱虫だから、泣き虫だから。僕が持ってる物は、戦国の世じゃほとんどガラクタ同然だった。

 握りしめる日本刀は、稽古用の竹刀とは比べ物にならない程重たくて、鋭かった。敵を倒す為じゃなく、敵を殺すための道具だと改めて実感する。腕が震えて、今にも刀を落としてしまいそうになるけど、絞り出した勇気で何とか握っていた。これから僕がするのは、承芳さんへの恩返しだ。これが僕の決意の全てだ。


 「ほっ、北条氏康さん、僕の名前は関介と言います! 僕から提案があります! この辺で軍を引いてもらえませんか! これ以上戦争を続けても、被害が大きくなるだけです! ここは一度抜いた矛を収めて、休戦としましょう!」


 北条さんの兵士たちが次々に驚きの声を上げ始め、喧騒が富士川を流れる水を揺らし波を作る。さて北条氏康さんはどう返事をするか。出来ればこれで了解を得てそのまま帰って欲しい。もし首を出せとか言われたらどうしようか。その時は親綱さんにお願いして、一思いに切り落としてもらおう。でもそしたら承芳さんが悲しむからやっぱり嫌だな。

 僕はおもむろに刀を地面に置き、甲冑を縛る腰回りの紐に手をやる。味方、敵の視線を一身に浴びながら、僕は思い切ってその紐を解いた。体に縛り付けるものが無くなった甲冑は、重力に従って地面に鈍い音を立てて転がった。

 全ての甲冑を脱ぎ捨て露わになったのは、汚れの無い真っ白な布だった。僕はこれを、現代で三度見たことがある。母親、父親そして、祖父の三人が葬式で来ていた服だ。僕は今、死人が着る死装束に身を包んでいた。


 「もし北条さんが休戦を望まないのら、攻めてくればいいでしょう! 僕らは刺し違えてでも、貴方たちを殺して死ぬ覚悟が出来てます! それでも僕らと戦いたいなら」


 手をメガホン代わりにして、息を出来る限り吸い込んだ。いつの間にか、足の震えは止まっていた。恐怖心は全て消え去り、むしろ楽しくさえなってきていた。僕は目一杯の力で、出来る限りの声を出す。


 「北条さん、かかってこいやー!」


 その瞬間、地響きのような怒号が背中を突き飛ばした。思わず振り返ると、さっきまで不気味なほどに静かだった味方たちが、刀を掲げ思い思いの言葉を叫んでいた。およそ文字には起こせないような言葉もちらほら聞こえる。あまり喜ばれることではないが、こんな時くらいいいだろう。少しでも多くの戦う意思が示せればいい。狂気的であればあるほど、僕の思惑は上手くいく。

 もう一度北条さんの方へ振り替えると、僕らの威勢に押され見るからに浮足立っていた。指揮官たちがどんなに鎮めようとしても、心に染みついた恐怖心はそうそう払えるものでもない。一人また一人と恐怖心から武器を手放し始め、北条さんの軍隊は混乱状態に陥っている。今此処で攻め立てれば、追い払うことくらい出来るかもしれない。だけどそれは僕のやり方じゃない。僕は兵士たちの命だって守りたいんだ。

 すると、一人の青年が軍の先頭に姿を現した。彼が北条氏康さんだろう。僕より少し大人びた青年は、苦々しい笑みを浮かべ、僕らに向かって叫んだ。


 「関介殿と言ったか! 此度は其方の策に、まんまと引っかかってしまったわ! これでは我らも戦えぬ! 致し方無いが……此度の戦、一時休戦と致す!」


 それが戦の終了の合図だった。ぞろぞろと北条軍は富士川から退却していくのを、僕は呆然と見つめていた。僕らの戦争は、戦うことなく終戦を迎えた。

 僕のはったりは、想像以上の効果を発揮してしまった。本当に北条さんと真正面で戦って、勝てる見込みは万の一もなかった。刺し違えるどころか、一方的な虐殺になっていただろう。こんな圧倒的な負け戦を、僕は一滴の血を流すことなく終わらせることが出来た。


 「やりましたね関介殿。この戦、我らの勝にございます……って関介殿?」


 遠くで親綱さんの声が聞こえた気がする。そう思ったら、目の前に心配そうな表情を浮かべる親綱さんがいた。あぁなんだ、もっと大きな声で喋ってくれないと良く聞こえないですよ。それに周りの人も、折角北条さんを追い返したんですから、もっと喜んでもいいのに。

 不意に足の感覚が蜃気楼のように消え、地面に倒れるのをすんでのところで親綱さんが支えてくれた。そこでようやく気が付いた。全身の震えが止まらないことに。


 「親綱さん……僕、かっこよかったですか?」


 「関介殿、頑張りましたね。大変立派でしたよ。なんだか少し大人に見えました」


 「何ですかそれ……」


 不意に誰かに呼ばれている気がして、辺りを見渡した。親綱さんも驚いた様子で僕を見るが、僕は気にせず声の主を探した。どこかで聞いたことのある声なのに。その時、一筋の雫が頬を伝う。あぁと呟き空を見上げる。霞んでよく見えないけど、その人は顔をくしゃくしゃにして笑っている気がした。

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