第27話 河東一乱 終
1537年 3月 1日
今川館の自室に戻ると、見知った背中が目に入った。温かくて、優しくて、心から安心できる背中だ。僕はそっと彼の両肩に手を置き、背中の真ん中に耳を寄せた。彼の生きた鼓動が、僕の全身に心地よいリズムを刻む。
「承芳さん、ただいま。ちゃんと生きて帰ってきましたよ」
その瞬間、抵抗する間もなく強い力で抱きしめられた。彼の硬い胸が顔に押し付けられて、ちょっとだけ痛かった。だけど、やっぱり彼の腕の中は温かかった。彼はそのまま何も言わず、僕を抱き続ける。
「ごめんなさい。結局北条さんには勝てませんでした。今川を守るって約束……」
「そんなのよい! お前が生きてさえいればそれだけでよい!」
声を震わせ、僕を抱きしめる力がより強くなる。そんなに強く抱いたら痛いですよ、承芳さん。
彼の言葉にほっとする僕がいる。だけど、彼は優しいから。そんな言葉に甘えちゃダメなんだ。だって僕の代わりに、何百何千の人が死んでしまったのだから。米次郎さんは、もう戻ってこないのだから。
「いっぱい死んじゃいましたよ。武士さんも、農民さんも、それに北条さんの兵士だって。僕が生き残ったって、それは喜べる事じゃ無いんですよ。一番いいのは、戦争なんてない平和な世界なんですから」
胸から顔を出し、承芳さんの瞳を見つめる。彼の潤んだ瞳に僕がどうやって映っているか分からないけど、今の承芳さんは、砂で作った城のように脆く、直ぐに壊れてしまいそうな怖さがあった。
「それでも今は、関介が生きて帰ってきたことを喜ばせてくれ。私には、お前がいないと……」
「だーめ。承芳さんは当主なんですから、僕だけに肩入れしちゃダメなんですって」
僕はわざと彼を突き放すような事を言ってみた。明らかにシュンと落ち込む承芳さんが可笑しくて、つい口元が緩んでしまう。貴方の優しさは、もう十分貰ってるんだから。これ以上はお腹いっぱいですよ。
「僕、戦争の中で思ったんです。今川の為なら、承芳さんの為なら、戦の中で死んでもいいって」
「いやだ! 関介が死んでしまうなんて絶対にいやだ!」
子供みたいに首を振り、駄々をこねる承芳さん。ほんと、体と立場だけは立派なんだから。
きっと承芳さんはいたって真面目なんだろうけど、泣きそうになりながら必死に喋る顔が面白くて、何だか真剣さが伝わってこない。承芳さんの鼻先をピンと軽く弾く。
「承芳さんが平和な世界を作ればいいじゃないですか。そうすれば、僕も死なずに済むんですから」
「むぅ、だいぶ先の話だな」
唇を尖らせ、難しい顔で唸る。承芳さんにしては何だか弱気だ。もしかしたら当主になって現実を見るうちに、平和な世界なんて非現実的だと気が付いてしまったのかもしれない。あの時のような、無邪気で向こう見ずな承芳さんはもういないのかもしれない。
今川はこれからどんな道に進むんだろうか。北条さんと敵対して、もしかしらまた戦争になってしまうかも。そしたらまた、大勢の人の血が流れるんだろう。それも承芳さんの決めた道なら仕方ない、僕はついて行くと決めたんだ。でも、そんな屍の道を承芳さんは選ばない。
僕は承芳さんの胸にもう一度耳を寄せる。僕らはここで確実に生きているんだ。生きてさえいれば、道は何処にだって分岐するんだ。
1537年 3月 2日
乾いた風に、さらさらと落ち葉が舞う。寂しそうに身を寄せ合う枝の隙間から、水に溶け込んだ絵の具のような、鮮やかな水色が覗かせていた。見上げた冬空には、僕の物憂げな顔が映り薄い雲に揺れていた。
飛び疲れた二羽の雀が、枝の端で身体を寄せ合って体を温めている。隣に大事な人がいる、そんな当たり前は戦国時代ではいとも容易く壊れてしまう。僕はそれを身に染みて実感している。
人が入りにくい雑木林を抜けた先。少しひらけた広場には、人を遠ざけるような冷気が立ち込めていた。首筋に吹きかかる冷風と鳴き声を上げる枯葉たちが、僕の肌を粟立たせる。それだけじゃない、この場所には五感では感じられない、不思議な念を感じられるのだ。
僕の目下には、無造作に積まれた石が無数に広がり、その石一つ一つに名前が彫られている。ようやく来ることが出来た。そう、ここは墓地だった。
僕は墓地が嫌いじゃない。死んだ人の魂と、唯一対話が出来る所だから。きっとあの人はこう言うんだろうなって、心の中に温かいものが流れてくる感覚。それを僕は対話だと思っている。
「米次郎さん、やっとゆっくりできそうです」
腰くらいの高さの石が二つ、互いに寄りそうように並んでいる。片方が無ければ、もう片方が倒れてしまう。なんて美しいかたちなんだろう。でも、それが悲劇なんだって知っているから、僕は素直に喜べないんだ。
辛うじて読める米の漢字が彫られている方が米次郎さんだ。その隣、花と彫られた石がもう一つ。彼女、米次郎さんの奥さんは、花という名前らしい。
「きっと、奥さんが悲しい思いをしないように、仏様が連れて行ってくれたんですよ」
米次郎さんの奥さん、花さんは、米次郎さんが亡くなったという知らせを聞く前に、既に病気でこの世を去っていた。人伝いに彼の家にたどり着いたとき、そこはもうがらんどうとした空き家だった。迫りくる虚しさ、悲しさは形の無い刃となって、僕の心臓を深く突き刺した。
花さんは息を引き取る直前、米次郎さんを置いて死ぬのが申し訳ないと言ったらしい。優しい彼女と優しい米次郎さんは、どこまでもお似合いで、どうしてこんな時代に生まれてしまったんだろうか。これが運命だったなんて、そんなの悲惨すぎるよ。
僕は墓地が嫌いじゃないけど、好きでもない。死んだ人の魂の叫びが聞こえてくる所だから。きっと彼らはああ言うんだって、心の中に大きな穴を作る。
「巾着、此処に置いていきます。米次郎さん……僕を守ってくれて……」
涙で詰まった言葉は、結局最後まで発することは出来なかった。手を合わせ、空を見上げて、僕は二人の墓場を後にした。
彼らの墓地を後にし、暫くこの辺りをぶらぶらしていた。ずっと気になっていたのだが、見るからに人工物であろう石垣が、あちこちに点在しているのだ。そもそも此処は墓地で何処かしらのお寺の境内なんだろうけど、お寺らしき建物を未だ一度も目にしていないのだ。もしかしたら、この石垣を辿れば本堂に続いているかもしれない。
ふと林の奥、よく目を凝らすと、顔の一部が掛けているけど、明らかに狛犬のようなものがあった。つまり近くに本堂があるのだろう。
その建物は、外見上はお寺だった。ただ屋根の一部は剥がれ、壁の木は腐りシロアリの住みかとなっていた。これでは参拝者も訪れないだろうし、参拝者が来なければお金の調達も難しいはずだ。そもそも、この廃墟と言った方が相応しい建物を管理している人がいるとは思えないし、おそらくかなり前に廃寺となってしまったのだろう。
廃寺を見ると無性に泣きたい気持ちになる。かつては此処にも、色んな人が様々な想いを持って訪れたはずだ。廃寺は、その全ての気持ちが宙ぶらりんになってしまう。それはすごく寂しい事だと思う。
その時、朽ちた板の軋む音が、閑静な境内に響き渡る。思わず音の方向に首を向ける。このお寺の管理人さんか、もしくは僕と同じお墓参りか。その人物の顔を見て、それらの考えは全て吹き飛んだ。
「貴方は…………僕?」
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