第22話 相模の獅子
1537年 2月 20日
相模国小田原城は、憤怒と怨恨を纏った空気に包まれていた。武士たちが暮らす屋敷の一室から、男の怨嗟のこもった荒々しい声と、焼き物が粉々にされる乾いた音が響き渡った。
「今川風情がぁ! 儂の許しも得ずして、宿敵武田と同盟を結ぶとは! 許せんっ、必ずや血祭りにあげてくれるわ!」
「お父上、物に当たらないで下さい」
激昂する初老の男とは反対に、端正な顔立ちの青年は冷静な口調で淡々と言った。部屋には二人の他、従者と思しき武士が数人隅で小さくなっていた。激怒する男に怯え、泣きそうな顔で震える者もいる。
青年が目で合図を送ると、従者たちは速やかに散らばった破片を片付け始める。その内の一人が破片を拾い上げた時、鋭く欠けた部分で指を切り思わず声を上げてしまった。苛立ちが最高潮に達している初老の男は、大きく舌を鳴らし手近にある扇子を投げつけた。
「早く片付けんか、この鈍間がぁ!」
「ひっ、ひぃ! 申し訳ございません氏綱様っ!」
「人にも当たらないで下さい。お父上の短気な性格には、私含め大勢が辟易しているんですよ」
青年は嘆息と愚痴を溢しながら落ちた扇子を拾い上げ、とうとう泣き出してしまった従者を手で制して部屋から出した。
二人だけになった部屋の中で、氏綱は部屋の奥の椅子に豪快に腰かけ、落ち着かない様子で膝をトントンと叩いた。終いには自分が投げてひしゃげた扇子を、憎たらしく見つめながら言った。
「氏康、お前は何故それほど落ち着いておるのだ。武田と結んだ今川が、もしや二方向から攻めて来るやもしれんのだぞ」
「ではお父上は、本当に今川が攻めてくると思ってるのですか?」
口ひげを弄りながらふんと鼻を鳴らして笑い、扇子を広げ気怠そうに宙を仰いだ。
「思わんな」
「ならば何故、お父上はそれほど苛立っているのですか?」
宙を漂わせていた視線を氏康に合わせると、崩れていた表情を一変させ睨みつけた。目尻をひくひくと震わせ、血を噴き出しそうなほど額の血管を浮かび上がらせて言った。
「今川ごときが、儂を出し抜いた事が許せんのよ」
一瞬息を呑んだ氏康は、その理由を聞いて額に手を当てため息を漏らし、さいですかと面倒くさそうに呟いた。
「お前、以前今川義元を見たよな? お前から見て、そ奴は今川の当主に足る人物であったか?」
「いえ、とてもそのようには見えませんでした」
一切考える素振りも見せず首を左右に振った。それを見て氏綱は満足そうに頷き、扇子をパチンと小気味よく鳴らした。年のわりに素早い動きで立ち上がると、部屋の中央に広げた地図を見下ろした。
「現状の我らの兵力で攻め込んで、どの辺りまで獲れると考える?」
「少し考えさせて下さい」
考え込むように目を閉じると、その瞬間部屋の空気が変わった。全ての音が消え、肌を切り裂くような緊張感が渦を巻いている。その渦の中心で、氏康は狂気に憑りつかれた死神のようにぼそぼそと独り言を漏らしている。その様子を見つめる氏綱の双眸には、不気味な生き物を見るような好奇な色が宿っていた。その政治手腕や類い稀なる戦の強さから、後世の人々は北条氏康の事を”相模の獅子”と呼んだ。
静かな獅子がおもむろに目を開くと、すでにその表情からは感情が消え去っていた。小田原に指を置き、流れるように地図上をなぞる。彼が指し示すのは、今川の本拠地の近くを流れる富士川であった。
「私が指揮を取れば、富士川から東は全て我らの領地になるでしょう」
一切の感情を見せることなく、身体の芯まで凍り付くような冷たい声で言い放った。氏綱の頬に一筋の汗が伝う。現当主である氏綱が恐れる程の雰囲気を、今の氏康は纏っていた。
「それで氏康よ、いつ頃今川へ攻め込む?」
「今すぐにです」
「すぐだと?」
思わず聞き返してしまう氏綱。攻める気満々だった彼ですら、準備を整えてから攻めると考えていた。そもそも戦において事前の戦略立てや根回しが重要で、それを怠ればどんな戦力差でも敗北してしまう。それくらい氏康だって重々承知のはずだ。
「父上、兵を五千いただけますか?」
「それだけで良いのか?」
「むしろ武田や上杉の事を考えれば多いくらいです。ただ迅速に攻め込むためには、最低五千は必要になるのですよ。ああそれと、戦の間父上は他国の動向に目を配って下さいね? 私がいない間に小田原が無くなっているなど、笑えない冗談ですから」
やっと無表情を崩し笑みを見せたが、目は全く笑っていない。恐ろしい息子を前に、氏綱は苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。
「それでは、私は戦の身支度がありますので」
それだけ言うと、氏康は音も無く立ち上がり部屋を後にした。
「気味の悪い奴よ」
部屋から出た氏康を見送ると、氏綱は苦々しい表情で吐き捨てるように言った。その声は少しだけ震えていた。
1537年 2月 22日
今川館には今日も平和な時が流れていた。後継者争いを終え、最大の敵であった武田と同盟を結び、駿府に住む者は皆つかの間の平和に身も心も休ませていた。
だがその平和も、伝令の言葉に一瞬のうちに崩れた。
「義元様、雪斎様がお呼びです!」
「承芳さん、また何かやらかしたんです?」
「おい関介、そんな目で見るな。私は何もしてないし、その言い方だと私がいつも和尚に怒られているみたいじゃないか」
違うのかというツッコミは面倒くさいのでやめた。承芳さんのいつもの様子を見ていれば、彼がどれだけ雪斎の手を煩わせているかが分かる。この人当主の自覚があるのだろうか。
「違います義元様、北条が……」
「北条がどうしたんだ?」
伝令の方は息も切れ切れに言った。北条さんと言えばお隣の国だ。恵探さんとの戦の時お世話になって、その強さを身近で感じている。そんな北条さんがどうしたのだろうか。
「北条が、攻めてきます」
「へぇっ?」
僕と承芳さんの声が重なった。今不思議な事を言った気がする。北条さんと……戦争?
僕の背中に冷たい汗が伝う。僕らの気持ちなんて知らない鳥の番が、枝の上で平和そうに身を寄せていた。
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